京都ひとり散歩(その3)~堀川八条・平重衡受戒之地 | 大根役者

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京都駅八条口から、JR高架沿いに歩くと「油小路八条」の交差点にぶつかる。このあたりが「堀川八条」だ。

観光客はで、JRよりも北側をめぐる。このあたりでは、観光客をほとんど見かけない。近くに東寺があるのだが、国道1号線側から向かう人が多い。

この交差点の東側ファミリーマート前に「平重衡 受戒之地」の石碑が立てられている。ファミマ進出前にもこの石柱はあった。

源平合戦の分岐点となった一の谷合戦で、源氏の捕虜となった平重衡は京都へ護送され,堀川八条にあった「藤原家成」の御堂に幽閉された。この御堂で重衡は、「来世で助かる道はあるのか」と思い悩み「浄土宗」の開祖である「法然上人」との面会を望んだ。願いがかない重衡は「法然」から戒を授けられた。

 

案内板に書かれた説明文を転記する。

 

『平家物語巻十の「戒文」に、一の谷の合戦にて囚われの身となった平重衡が、鎌倉へ送られるまで八条堀川の御堂に居えられたとある。

その時、重衡は法然上人に会って死後のことを相談したいと、守護にあたる土肥次郎実平へ願い出た。

その願いに応えられ、法然上人は八条堀川の御堂に居る重衡のもとへ赴かれ、浄土宗の教えを説かれ、戒を授けられたのである。

これが浄土宗の宗教教誨のはじまりである。浄土宗教誨師会』

                                              

京都市の案内板ではなく、浄土宗教誨師会により、建てられたものだ。浄土宗教誨師会とは、ホームページによると

 

『昭和37年「法然上人七五〇回忌御遠忌」を機に個人で活動されていた教誨師を「浄土宗教誨師会」として発足。刑務所などで宗教教誨活動を行う特定布教師によって組織されている。宗祖の精神を体して宗教教誨に実をあげている。』

と書かれている。

 

石碑には、東側に「平重衡   受戒之地」西側に「浄土宗教誨師会 宗祖法然上人八百年大遠忌記念 平成二十三年十二月二十四日 浄土宗教誨師会」南側に「このあたりは、昔「八条堀川の御堂」と呼ばれた所で、法然上人が平重衡に浄土宗の至極を授けられた地である」と刻まれている。

 

平重衡は、清盛の五男で官位は三位中将だ。勇猛な武将と知られている。南都焼き討ちにより、極悪非道の武将だと思われてるが、実際は、美男で、教養も高く、心遣いのできる名将だった。

 

治承4年12月28日(1181年1月15日)平清盛の命で、平重衡率いる平家軍は南都(奈良)の東大寺、興福寺などの仏教寺院を焼討した。平清盛の知行地であった南都で平氏に反抗する態度を取り続ける寺社勢力に属する大衆(僧兵)の討伐を目的としたものだが、日が落ちても決着がつかず、重衡が「火をたけ」と言ったことを放火せよと誤解した兵が放火したことが、焼討の真相であるという。治承4年5月に以仁王の令旨に呼応したものだとされる。清盛にしてもあえて「仏法の敵」となる行為はするわけがない。

 

平家の悪行の始まりは清盛の嫡男・重盛の次男である資盛が、仲間と鷹狩りに行った帰りに、摂政である藤原基房の一行と行き会い、その際、馬を下りる礼をとらずに一行を駆け破ろうとした「殿下乗合」とされる。

「奢る平氏は久しからず」という平家物語の一文で知られる行為だが、王政の敵、仏法の敵となった平清盛は

治承5年2月、マラリアによる壮絶な死を迎え、清盛の死から6年後、寿永4年、平家は壇ノ浦で滅亡する。

 

平清盛は、日宗貿易で、富を蓄え、この国を整備した。貨幣経済を本格的にもたらし、国を根幹から改造し、新しい日本を造った二本史上に登場した稀有の政治家だ。ただ、自身の幼少期の経験から、家族を殊の外、大事にしたことが、平家滅亡につながったことも事実だ。臨終の床で、「頼朝の亡骸を見たい」と言ったと平家物語には書かれているが、継母・池禅尼の助命嘆願により、流罪にしたのは、清盛自身だ。

 

鎌倉に送られた重衡は、源頼朝、北条政子により、厚遇された。重衡の器量は鎌倉殿を魅了したのだ。南都焼討の罪を問われ,南都大衆の要求で奈良へ引き渡され木津川畔で斬首されてた。源頼兼の護送のもとで鎌倉を出立したが、一行が重衡の妻の輔子が住んでいる日野の近くを通った時に、重衡が「せめて一目、妻と会いたい」と願って許され、涙ながらの別れの対面をした。処刑の後、輔子は重衡の遺骸を引き取り、荼毘に付して日野に墓を建てた。

 

自身の兄弟にまで、事情な仕打ちをした頼朝は、敵である重衡にこんな一面を見せるほど、重衡は、魅了的な武将だった。

重衡が生きていれば、平家の運命も変わったのかもしれない。

 

法然上人と平重衡は師弟関係にあったとされるが、実際にこの地で、合ったのかは、不明だ。

法然上人は常に念仏を唱えることを忘れなければ極楽浄土に往生できると説き、十戒を授け、重衡は「松陰」という平清盛が宋に砂金を送った返礼として贈られた硯をお布施として渡したとされる。

 

堀川に面したあたりは、有力貴族の屋敷が軒を連ねていた。

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