京都ひとり散歩(その4)~綜芸種智院・左京九条 | 大根役者

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平城京から長岡京、長岡京から、平安京に遷都されても、内裏に到る朱雀大路を中心にした条坊に基づく町割りは変わらなかった。朱雀大路を中心にした左京・右京地区には、役所や貴族の館が存在していた。京都の歩き方は、今は、なくなってしまった

遷都後の平安京を歩くことから始めるべきだと思っている。

左京の九条にあった藤原三守から譲り受けた邸宅に天長5年12月15日(828年1月23日)空海は綜芸種智院を設置した。

空海が庶民教育や各種学芸の綜合教育を目的に設置した私立学校だ。

綜芸とは、各種の学芸を綜合するという意味。

中央の教育機関であった大学は、貴族の教育機関であった。地方の教育機関であった国学は郡司の子弟を対象とするなどの身分制限があった。庶民に全く開放されていなかったわけではなかったが、極めて狭き門だった。

大学・国学では主に儒教教育が専門であり、仏教・道教は扱われなかった。を専門に教育しており、空海は、こうした現状を打破しようと、天長5年付で「綜芸種智院式并序」を著して、全学生・教員への給食制を完備した身分貧富に関わりなく学ぶことのできる教育施設、俗人も僧侶も儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を総合的に学ぶことのできる教育施設の設立を提唱し、その恒久的な運営を実現するため、天皇、大臣諸侯、仏教諸宗の高僧らをはじめ、広く世間に支持・協力を呼びかけた。

 

実際に空海の構想がどこまで実現されたかの記録が残されていない。綜芸種智院は、空海の死後10年ほど経た承和12年(845)、所期の成果を挙げることが困難になったとして、弟子たちによる協議の末売却された。その売却益が東寺の真言僧育成財源確保のための寺田(所在地丹波国多紀郡、のちの大山荘)購入に充てられた。売却まで運営されていたのか、一般的には、天長5年末から承和12年までの20年弱が、綜芸種智院の存続期間と考えられている。

廃絶理由として、財源不足、後継者難、真言教団維持優先への路線転換、構想自体の非現実性、実際は朝廷による民衆懐柔のための一時的施設であったとする見方など、様々な理由が挙げられているが、いまだ定説を得るに至っていない。

 

空海が綜芸種智院において理想としたのは、あらゆる学問芸術を総合的に教える全人教育だった。さらに空海は望ましい教育の条件として、教育環境の整備、資質よい教師陣の組織、教師・子弟双方の生活を保障する完全給費制などを挙げ、その実現に努めている。これほどの明確な教育理念を持ち、しかも一般庶民に開放された私立の学校は、その当時の世界を見渡しても、他に類例がない。

 

空海の理想とした民間教育機関は途切れることなく伝統が受け継がれ、民間教育の初級教科書ともいうべき『庭訓往来』が南北朝時代~室町時代初期に作られたことにつながっていく。同時期、寺院などが民間教育の機能を果たすことによって、文化は地方にも広く伝播することになっていく。


戦国時代以降、日本を訪れた南蛮人が日本人の知的レベルに驚愕したという記録が残っている。この民間教育は江戸時代の寺子屋にも通じる。

空海が日本の歴史にもたらしたものは、真言宗の教えだけでなく、政治、【HIS】旅行プログラム

 

 

 

 

 

 

 

 

土木建築、教育等日本の根幹を造る技術を確立したことも評価しなければならない。

 

藤原三守(ふじわらのただもり)について書いておこう。

 

大河ドラマの主役である藤原道長が、藤原家の中では、中心と思われているが、藤原南家、藤原北家、藤原式家、藤原京家の四家があり、もっとも後発の藤原北家が摂関家を独占していく。

藤原三守は、温和で慎み深い性格の一方、決断力もあった。詩人を招いて親しく酒杯を交わしたり、参朝の途中で学者に会った際は必ず下馬して通り過ぎるのを待ったといい、これらのことは当時の人々に評判となった。

 

三守自身の漢詩作品は現存しないものの、前述の詩人との交流が伝わっていることや、『経国集』の中に滋野貞主が三守に贈った詩に唱和した嵯峨天皇の漢詩作品が採録されていることから、嵯峨天皇のサロンに出入りする唐風文化の担い手の一人であったと想定されている。空海ともこのサロンで知り合った。

 

仏教を厚く信仰した人で、平安二宗の熱心な後援者であった。最澄、空海との親交も厚かったことも知られている。

 

武家社会の出現で、貴族社会は軟弱な世界だとされているが、平安時代初期にこの国と国民の幸せを願った人たちがいたことを

忘れてはならない。