片桐且元の憂鬱~茨木城と片桐且元 | 大根役者

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茨木市役所に片桐且元の像が置かれている。

片桐且元は、賤ケ岳七本槍としても知られる豊臣秀吉子飼いの家臣だ。

信長死後の後継争いにおいて、最大級の戦いは賤ヶ岳の戦いだった。この戦いで活躍した武将に秀吉は感状を出した。感状は9名に出されており、功名を認められた槍武者はあと2名存在した。その二名とは石河兵助と桜井佐吉だ。
石河兵助は賤ヶ岳で戦死し、感状は弟宛てに出された。桜井佐吉もこの時の負傷が元で数年内に死亡しているから、七本槍に入っていないとされる。

秀吉は織田家累代の家臣ではない。信長は、出自よりも才覚を重視した近代的経営者だった。ただ、同族経営というメリットは、意識し、家を重んじることも意識した。秀吉を黒田官兵衛は、自身の経営的才覚のシュミレーションとして、実験素材にしたのだが、秀吉は、経営よりも経済を重視し、戦国時代の異質の存在の怪物になった。彼が戦略として用いたのが、人たらしの極意であり、金と名誉という現実だった。

七本槍あるいは九本槍という存在を喧伝する理由があった。譜代の家臣を持たない秀吉にとって、「賤ケ岳七本槍」は自身のアイデンティティを世に喧伝する好機だった。

秀吉が自身の親族を政権中枢に置くという人事に、彼のコンプレックスの固まりの人生を見ることができる。ルイス・フロイスが書いているように、正室おねが豊臣政権そのものだったということは、後の、徳川政権下のおねに対する待遇を見てもわかる。

信長にはげねずみと言われた秀吉が浅野家のおねと身分の差を乗り越え、恋愛結婚をしたということは、おねも信場が同様、秀吉の才覚を見抜き、秀吉をプロデュースしたのだろう。
賤ケ岳七本槍岳」のその後を書いてみよう。
豊臣政権下で、
福島正則は、伊予・今治10万石のあと、尾張・清洲で24万石と大身の大名となった。
加藤清正も肥後半国でおよそ20万石を与えられた。
加藤嘉明は淡路1万5千石のあと、伊予・松前6万石を与えられた。
七本槍最年長・脇坂安治は、摂津・能勢1万石、大和・高取2万石、淡路・洲本3万石と微増を重ねた。
元々、別所家の家臣であった糟屋武則も、播磨国加古川で1万石の大名となった。
浅井長政に仕えていた片桐且元も、1万石を果たした。
平野長泰だけが大和・十市5千石でとまった。秀吉との相性が悪かったとされている。
秀吉死後は、
福島正則は東軍に与し、戦後は安芸、備後で49万石の大大名となった。大阪の陣では、家康に江戸に留め置かれ、広島城の無断改築が原因で改易。改易後は出家し、信州・川中島4万5千石に移され、その地で最期を迎えた。ま
加藤清正も東軍に属し、戦後は肥後一国54万石を与えられます。秀吉の遺児・秀頼の後見的立場に身を置くが、大阪の陣を待たずに1611年に死んだ。その後は三男の加藤忠広が後を継いだが、1632年に改易された。子孫は山形に移住して庄屋になった。
加藤嘉明も東軍に属し、戦後は伊予・松前20万石。のち会津若松で40万石を領した。その後を継いだ明成はお家騒動の責任を取って1643年に改易されてしまい、庶子の明友が近江の水口藩を創設し、幕末ま
平野長泰も東軍に属し、戦後は所領安堵された。平野家は江戸時代を通して旗本として存続し、明治政府の石直しにより1868年に1万石の大名になった。
脇坂安治ははじめ西軍に属すも東軍へ寝返り、伊予大洲藩で4万5千石。その後信濃飯田藩をへて、譜代大名の堀田家から迎えた養子が播磨龍野に移封され、幕末まで存続した。
糟屋武則は西軍に属し、戦後は所領を没収された
片桐且元は、豊臣家臣でありながら徳川家臣でもあるといったような立場になった。大和国竜田で4万石の大名になったが、4代目で改易。片桐家は且元の弟である大和国小泉藩の片桐貞隆の家系が幕末まで存続した。
彼らは、秀吉とは、実益だけの関係であったことがわかる。
 
その中で、微妙な存在だったのが片桐且元だった。徳川家康が、豊臣政権に送りこんだ監視役のような立場だったのだろう。豊臣家を一大名として、存続させることは、家康の温情だったのだろうが、秀忠は、存続を拒否した。淀の方も両家の中を奔走する片桐且元の真意は理解していたが、戦国時代の最後のプライドが、拒否し、豊臣家の断続を決意し、大坂の陣に臨んだ。
 
さて、茨木城と片桐且元の関係を書いてみよう。茨木は、茨木氏が支配していた。応仁の乱の混乱の中でも、存続し、信長の摂津入国の際に、室町幕府の御家人として、臣従し、本領を安堵された。その後、荒木村重により、滅ぼされ、茨木氏は断絶した。
その後、荒木村重の縁故・中川清秀が城主となったが、荒木村重の謀反により、信長に攻められ、開城し、信長に寝返った。本能寺の変後は、秀吉に仕えたが、中川清秀は賤ケ岳の戦いで戦死した。息子の中川秀正の功績が評価され、三木城6万5千石に移封された。その後は、秀吉直轄地となった。

関ヶ原の戦いの翌年慶長6年(1601)に、片桐且元・貞隆兄弟が茨木城の城主となった。

慶長19年(1614)に方広寺鐘銘事件がおき、且元は秀頼の名代として仲裁に奔走した。淀殿は且元を徳川方の内通者と疑い、且元は豊臣家と袂を分かつことになる。

且元の願いは、豊臣家存続であり、新しい時代に豊臣秀頼を祖とする新たな豊臣家を存続させることにあった。時代が変わったことを淀君には理解してもらえなかった。

家康の居城、駿府城に赴く途中、且元は病死するのであるが、信長・秀吉・家康と時代の中枢にともに存在した且元の軌跡に戦国時代の混乱から、安寧の江戸時代に移る時代を見ることができる。

茨城城は、一国一城令により、廃城され、現在は、住宅地となり、遺構は存在しない。搦手門、石垣が茨木神社に移築されている。

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