世界遺産・東寺~真言宗総本山教王護国寺(その4)-観智院・弁天堂・太元堂 | 大根役者

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北大門から観智院へ向かう。

大元橋を渡ると弁天堂がある。

 

弁天堂

東寺弁天堂は北大門(重要文化財)を出た右側に建立されている。建立起源は明確ではないが、現在の弁天堂は江戸時代後期の天保年間(1831~1845)に建立されたと言われている。弁天堂ではかつて土用の丑の日に大般若転読が行われ、東寺泥が授けられていた。東寺泥は亀池(蓮池)の泥で、泥を塗るとしもやけに罹らないというご利益があるとされていた。

弁天堂

太元堂

 

恵運上人が中国より勧請した「太元帥明王」をお祀りしたお堂で、以前、北総門西に「利生殿」として、建てられていたが、昭和4年に現在地に遷された。

観智院

東寺塔頭・別格本山。開基は杲宝僧正。。延慶1年(1308)東寺に帰依した後宇多法皇が、西院に参籠中、二十一ヶ院の建立を予定されたうちの一つと伝えられている。真言宗の大学の研究室ような場所で、代々学僧をもって住持とし、東寺の別当職を兼ねた。客殿は国宝、本堂には重要文化財の五大虚空蔵五躯がある。東寺の三宝と言われたのが、頼宝と杲宝と賢宝。杲宝が創建し、杲宝の弟子、賢宝が五大虚空蔵五躯を本尊として、お祀りした。

ここで杲宝や賢宝は、東寺に伝わる数多くの文書類を編纂。杲宝や賢宝が集めた密教の聖教類は1万5千件以上あり、その数もさることながら質的水準も高く、わが国における貴重な文化遺産となっている。

観智院の客殿は、江戸時代の慶長10年(1605)に建立されたもの。
入母屋造り、軒唐破風を付けた桃山時代の書院造りであり、国宝に指定されている。

 

江戸時代には、徳川家康の黒印状にあるように真言宗一宗の勧学院と呼ばれていた。

国宝の客殿は、江戸時代のはじめ、第10世亮盛が再建した。

客殿内部は、上段の間、次の間、羅城の間、の間、使者の間からなる。

上段の間には、宮本武蔵筆の「鷲の図」と「竹林の図」が描かれている。

宮本武蔵は、吉岡一門との決闘の後、一時この観智院にかくまってもらったそうで、その際に武蔵が描いたとのことだ。

長者の庭もすばらしい。

縁側から五重塔が見える。

客殿の東側に、観智院の本堂がある。本尊は、五大虚空蔵菩薩だ。


五尊はいずれも蓮の花弁でられた蓮台に結跏趺坐している。獅子、象、馬、孔雀、迦楼羅という鳥獣の上に鎮座している。

 

山科の安祥寺恵運が請来したと伝えられ、学僧の賢宝が安祥寺から移して本尊とした。密教教学の勧学院としての観智院にふさわしい智慧の仏だ。

愛染明王の梵名は、ラーガといい、赤い色という意味です。経典には、人々を招き寄せて煩悩即菩提の境地に入らせる仏さまと書かれています。

煩悩即菩提とは、煩悩を離れて別に悟りはないという密教の教えらしい。

煩悩の固まりの僕に理解できるはずもない。

 

北大門から北総門までの参道を櫛笥小路といい、平安時代以来そのままの幅で残っている京都市内ただひとつの小路だ。多くの寺院が軒を連ねている。洛南高等学校もある。

ここは、まさに京都だ。

時を忘れて、散策していたが、次回、京都を訪ねるときには、西寺跡を見て、羅城門跡から朱雀大路を歩いて、大内裏まで、歩こう。点で、京都を巡るのも楽しいが、平安京遷都以後の時系列で京都を旅してみよう。

 

 

 

 

 

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