世界遺産・東寺~真言宗総本山教王護国寺その1 | 大根役者

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京都の路地を抜け、東寺に向かった。東海道・大阪街道を前身とする国道一号線を抜け、九条通り(京都府道114号線)を渡った。

慶賀門(重要文化財)

山門横の交番も風景に同化するよう造られている。

国宝五重塔内部特別公開の日なのだ。

境内に入る。

この風景に時を忘れ、たたずんでいた。

延暦13年(794)桓武天皇は、平安京遷都を実現した。

遷都を行った理由は、人心の一新だった。平城京では朝廷内で激しい権力争いが起こっていた。皇位継承をできるはずもなかった桓武天皇が即位したのも、権力争いの影響だった。桓武天皇はこうした権力争いをなくすため、藤原種継の勧めに従い、平城京を放棄し、新たな都・現在の京都府南西にあたる長岡京に遷都した。延暦3年(784)のことだった。

奈良の仏教勢力の影響力を弱めるための処置だったが、最大の理由は水上交通の改善で、瀬戸内海から都に直接、船で入ることができる場所だった。藤原種継の親族がこのあたりに住んでいたことも理由の一つだった。

長岡京が都であったのはわずか10年間だった。藤原種継が暗殺されたのだ。相良親王が犯人とされ、幽閉された後、死亡した。長岡京では、洪水などの天災、政争が続き、桓武天皇は相良親王の祟りと考え、長岡京を放棄し、長岡京の北東に位置する平安京に遷都した。

こうして、東京に遷されるまで、京都が日本の首都となったのだ。

都の正門、羅城門から北へまっすぐに朱雀大路が伸び、その先に大内裏が建てられた。羅城門を挟んで、両翼を広げたように建立されたのが東寺と西寺だった。東寺は国の東の王城鎮護、西寺は国の西の王城鎮護を担う、官寺だった。でした。緑色をした緑釉瓦に朱の柱、白壁の大伽藍は、新しい首都を象徴するものだった。

平安京が遷都されたとき、寺院の建立は、東寺と西寺しか許されなかった。

平安遷都より29年目の冬、桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇は、唐で密教を学んで帰国した弘法大師空海に、東寺を託した。真言密教の根本道場東寺が誕生することになる。

空海は、まず、密教の中心伽藍となる講堂の建立に着手し、講堂建立の翌年に、五重塔の工事がはじまった。

空海は大伽藍建立の大事業をはじめた。現在の東寺は、弘法大師空海が計画した通りの姿とされている。

一方の西寺は守敏に託された。守敏も真言密教に通じていたとされるが、空海、守敏はことごとく対立していたとされる。

弘仁15年(824)の干ばつの時、神泉苑での雨乞いの儀式に於いて空海と法力を競ったというエピソードが残されている。空海に敗れたことに怒り、彼に矢を放ったが地蔵菩薩に阻まれたと伝わっている。このころを機に西寺がさびれていったとされている。

他寺出身者が西寺の別当となることがはじまった。

建久年間(1190年代)に文覚上人が塔の修理を行い、明恵上人が、建築現場を見学したという記述が残されている。しかしその後荒廃し、再建された塔も天福元年(1233)に再び焼失した。ただ、戦国時代の公家の日記「二水記」に「大永二7年(1527)10月27日西寺に陣を敷いた」との記述があるため、戦国時代中期まで、西寺は存続していたとされている。

西寺が立地していた右京は、水はけが悪く、平安時代後期に住民がいなくなった。西寺の衰退原因は立地であり、朝廷も支援しなくなり、衰退していったとされている。隣接地の立地条件が異なるのも当時の京都の町を知る手掛かりとなる。

 

源平の合戦が起こり、歴史は新しい時代に突入していく。羅城門は崩れ、東寺も西寺も衰退し、平安時代が終わりに近づく。時代が鎌倉に移ると、東寺に復興の兆しが見えてくる。

先述した文覚上人の依頼を受け、運慶が諸像の修復に着手。天福元年には、運慶の子、康勝により弘法大師空海の坐像が完成。御影堂で法要がはじまった。さらに、後白河法皇の皇女、宣陽門院財政の基盤をつく東大門は、別名、り、東寺は息を吹き返していく。西寺は以降、復活することはなかった。

南北朝時代、足利尊氏は東寺に陣を置き、新田義貞と戦火を交えた。戦場は都から、東寺の近くへと移っていきました。そのとき、足利軍は、東大門の扉を固く閉ざし危機を脱したといわれている。このことから、東大門は不開門といわれるようになった。東大門には、いまも戦乱の傷痕が残っている。

その後、東寺は、幾多の戦火の中、歴史と共に存在し、応仁の乱の戦禍も免れた。ただ、文明8年(1486)の文明の土一揆で、金堂、講堂、回廊、南大門などを焼失した。これが、創建以来のもっとも大きな被害だった。土一揆は、土民と呼ばれた百姓たちが、朝廷、幕府への徳政を要求する一機で、朝廷保護下にあった東寺も攻撃対象となった。

桃山時代になると、焼失した金堂が約100年ぶりに再建。新しい金堂に新しい薬師如来、日光菩薩、月光菩薩も誕生した。続いて南大門も完成し、焼失後、すぐに再建した講堂も含めて、東寺は、ほぼ元の姿になった。

その後、落雷によって五重塔が焼失したが、寛永21年(1644)に再建。徳川家康は、東寺の子院である観智院を、真言一宗の勧学院に定めた。

京都の歴史と共に存在し続けた東寺は、真言密教の教えも守り続かれ、昭和40年に金堂、講堂の秘仏が初めて公開され、京都を中心とした激動の日本史を改めて、意識させた。

以降、国宝の寺としての東寺は、京都のシンボルとなっていく。

 

平安京で、なぜ、国家宗教として、密教が取り入れらたのかを考えてみる。

仏教伝来は、飛鳥時代で、文化としても最先端のものだった。仏像、寺院が建立あれ、

聖武天皇は国家の安泰を願うために全国に国分寺・国分尼寺建立の詔を出して、奈良の東大寺を総国分寺として大仏を創った。

奈良仏教では、広く民衆へ教えを説くことは、

禁止されていたため、貴族や天皇中心の祈祷や法要が行われており、その結果、道鏡のように政治に介入してくる僧侶などが現れ、

桓武天皇は遷都を決断したのだ。

南都の寺との癒着を断ち切り、奈良仏教(南都六宗)は、平安京遷都に同道できなかった。

最澄は、修行の中で天台大師・智顗の著作「法華経」に基づく「法華一乗」の思想に影響を受け、36歳のとき、高雄山寺(後の神護寺)で 天台の教えを説いたのを機に入唐還学生(宗教事情の視察を兼ねた短期の留学生)に選ばれた。

延暦23年(804)~延暦24年(805)までの1年間、最澄は遣唐使団の一員として中国の天台山にて法華経の教えである中国天台宗を学び、智顗が説く「法華経こそが、すべての人々を救済する真の仏教経典である」との思想を持ち帰り、「法華文句」、「法華玄義」、「摩訶止観」とする天台三大部を日本天台宗の根本経典とした。

桓武天皇は天台宗を正式に国家宗教として認めた。

一方で桓武天皇は「密教」に重きを置いていたのに対し、最澄が唐で学んだのは「法華経」で、密教はその一部だった。そのため、同じ時期に入唐し密教の全てを学び帰国した8歳も年下の空海の弟子になり、経典を借用しながら密教を取り入れていくのだが、空海とは袂を分かつ結果となった。ここに、平安仏教二つの流れとなる天台宗、真言宗が生まれたのである。

 

この歴史的

 

 

 

 

【HIS】旅行プログラム

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