松原天神・喜多向稲荷神社~兵庫県西宮市松原町 | 大根役者

大根役者

日常と街道の旅を続けています。ガスリーのHobo's LullabyとアズナブールのLe cabotin(大根役者)を友に

西宮神社で、境内が中世は、浜辺の近くで松原が広がっていたと書いたが、平安時代から、現在の阪神西宮駅付は、近海岸線にあり、松原が広がっていた。阪神西宮駅から西に進むと松原天満宮の鳥居が見えてくる。この付近は、松林の続く入江の景勝地で、万葉集にも読まれている。

そういえば、このあたりには、かって、西宮東口という駅があった。阪神西宮駅に統合されたそうだ。

万葉の昔、この一帯は立派な松の木が立ち並ぶ白砂青松の風光明媚な海岸で、高くそびえる古松が海上からの目印として重宝されていた。「都努の松原(つぬのまつばら)」と万葉集にも詠まれた美しい海岸は、入江がツノ状に内陸に入りこむ天然の良港で「務め古水門(むこのみなと)」と呼ばれ、大陸からの渡来人などを迎える港として栄えていた。この入江は廣田神社がある辺りまで伸びていた。

 

境内に入る。

 

手水舎

創建時期は不明だが、社伝によると延喜元年(901)に無実の罪によって都を追われ、流罪の地である筑紫国の太宰府を目指して失意の旅を続けていた菅原道真公が、「都努の松原」の光景に心を惹かれて休息をとられたという故事が残されている。大宰府において、非業の死を遂げた菅原道真公の御霊を慰め御威徳を偲ぶために祠を建てて祀ったのが創祀だといわれている。主祭神として、天照大神も祀られている。

「天神様」というと、菅原道真公を御祭神とする「学問の神様」というイメージがある。天津神である天照大神、素戔嗚尊も「天神様」と呼ばれる。、この一帯を治めていた津門首の一族が古来より氏神として代々この松原で祀ってきたのは、天津神であった。古い文献では、松原天満宮を指して「松原大日」「松原如来」と呼んでいるものもある。本地垂迹説や神本仏迹説において大日如来と天照大神が同一だとされている事からも、松原天満宮に祀られているもう1柱の「天神様」は天照大神だと考えられる。松原天神は古社である。氏神として天照大神を御祭神として祭祀を続けてきた津門首が、土砂の堆積などによる津門の港の衰退とともに勢力を失っていき、それに伴って、菅原道真公の天神様を祀った神社となっていったと考えられる。

現在の神社正式名称は松原神社だ。GHQの指令により、松原神社として数強法人登録をしたが、誰も、そう呼ぶ人はいない。松原天満宮として、崇敬されている。

 

緑の大榎(御神木、夫婦和合の御神徳)

 

 

 

 

老松の碑

筆塚

臥牛

摂末社として、皇太神宮社、ゑびす福神社、鎮宅霊符社、白太夫社 (渡会晴彦を祀る)、火之御子社、松神社 (島田忠臣を祀る)福部神社 (十川能福(菅原道真公の舎人)を祀る)、老松社、夫婦久寿の社が勧請されている。

松原天満宮鳥居前に小さな社がある。

喜多向稲荷神社だ。松原神社の境内ではない。

先述したようにこのあたりは、都努の松原の海岸線だった。大和朝廷は、大陸から技術者を招き、交流を重ねていた。

その中に、その中に漢織(あやはとり)呉織(くれはとり)という機織の技術者たちがいた。日本書紀に「武庫の水門に着き池田の里に至る」と記されており、務古水門が古くから大陸との交流のある港であったことがわかる。

言い伝えでは、漢織・呉織は、応神天皇の勅命を受けて大陸に渡っていた阿知使主(猪名津彦命)に連れられて日本に渡ってきた工女だといわれている。このとき渡ってきたのは只媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・漢織・呉織とよばれる4名の工女で、一行のうち只媛は胸形明神(むなかたみょうじん)の要請によって九州・筑紫潟の地に留まった。そのほかの工女たちは、務古水門に到着した。そのとき船を繋いだ松を「漢織・呉織の松」といい、その木の下の池の清水を汲んで糸を染め、機を織ったためこの池のことを染殿池と呼ぶようになった。これらの言い伝えは「染殿町」「津門綾羽町」「津門呉羽町」などの地名に残されている。

喜多向稲荷神社が自体、いつ頃から祀られているのかは不明だが、漢織・呉織の遺徳を偲ぶために祀ったのが起源だと考えられている。

阿知使主は応神天皇20年に日本に渡来、帰化人となった人物で、倭漢直の祖先といわれている。漢織・呉織は、中国大陸から渡来したと言われているが、朝鮮半島から渡来したと機織技術者だった。

瀬戸内海は交通インフラの要衝であり、この地が人物・物流の要であったことを改めて思い起こさせる。

 

 

 

 

【HIS】旅行プログラム

wicot 薬用スカルプセラム

Yahoo!ショッピング(ヤフー ショッピング)