宵えびす~西宮神社 | 大根役者

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日常と街道の旅を続けています。ガスリーのHobo's LullabyとアズナブールのLe cabotin(大根役者)を友に

少しだけ、時間ができたので、阪神西宮駅に急いだ。1月9日は、宵えびすだ。

阪神西宮駅に下りたのは、あの震災後、初めてだ。あれから、もう29年か。震災から、1ヶ月後、僕は、広島から関空経由で

被災地に入った。大坂から、阪急西宮駅まで開通していた。阪急西宮北口から、僕の住んでいた門戸厄神から、学校のある阪急岡本

友人宅があった阪神線沿線を歩き、その光景に涙した。人類が築いた文明なんて、神の意思・一瞬で無に帰してしまうもの。だけど、人類は、性懲りもなく同じ動作を繰り返す。バベルの塔の時代から、予見されていたことなのだが、それでもバベルの塔を作り続ける。愚かなように見えて、それが人類の性。破壊により、習得した新たな技が新しいバベルの塔を造っていく。それも神が予見したものだろう。猿から突然進化したヒトは、神に近い姿で創られたという。だけど、神を越えることはできないのだ。

阪神電車の車窓を見ながら、そんな思いにふけっていた。

阪神西宮駅に往時の面影はない。阪神線のローカルっぽさが好きだった。車内でコップ酒で酔っぱらうおじさんがいる光景が好きだった。

西宮駅から参道を西宮神社に進む。えべっさん筋(当時もそういっていたかな)には往時の参道の面影はない。ここは、西国街道だ。

鎮座する神は、海からやってきた神だから、海に行く風景が存在していたように記憶している。

表大門や大練塀に当時の風景がよみがえった。

通称赤門と云われる表大門は、桃山建築の遺構を残し、左右の大練塀と共に、重要文化財に指定されている。

天文三年(1534)に焼失した境内建物は、慶長九年(1604) から同十四年にかけて豊臣秀頼公の奉献により、表大門始め本殿拝殿等全て元に復したと言われている。
大練塀が最初に建てられた年代についての文献はないが、昭和25年の大修理の際、築土の中から宗銭三枚、元銭一枚が発見され、室町時代に建造されたものと推定されている。名古屋・熱田神宮の信長塀、京都・三十三間堂の太閤塀と共に日本三大練塀と称されている。

1月10日本えびす早朝・午前四時、十日えびす大祭が行われる。

総ての門が閉ざされた中で、神職は居籠りし、早暁四時の大祭に備えます。
この忌籠とは、祭典を行う前に身体を清め、静寂の時を過ごすもので、古く室町時代の記録にも残されている。十日えびす大祭は、古代日本の祭典の形を伝えるもので、暁前に行なう祭りは、全国でも数少なくなってきている。

開門神事・福男選びは、十日えびす大祭が終了後、午前六時に表大門が開かれ、外で待っていた参拝者は、一番福を目指して、本殿へ「走り参り」をする。西宮えびす独特の行事として、江戸時代頃から自然発生的に起こってきたといわれている。

赤門を入ると眼前に松林が広がる。現在の境内が中世は浜辺近く、廣田神社の浜南宮だった。正月十日えびすの開門神事に一番福参道の左手に南門が見え、南門の手前は末社・沖恵美酒神社が鎮座している。参道は右に折れるが、左には今でも廣田神社の管轄の南宮神社が、廣田神社を向いて鎮座している。

大練塀の前に猿回しがいた。

寛政十一年(1799)の年号の入った常夜燈型の道標がある。西国街道・山陽道の要衝であった証として「西宮大神宮 左 京都大坂 道」「右 兵庫はり満 道」と刻まれている。西宮市の有形文化財だ。

拝殿に進む。

神馬がかわいい。

大鮪奉納 も神事として定着した。神戸市東部水産物卸売協同組合などの三社が商売繁盛と大漁を願って、 大ぶりで形のよい本マグロと雌雄二尾の大ダイを神前に奉納します(マグロは例年全長約三メートル、重量約三百キロ、お刺身約千六百人分)。
鮪・鯛の奉納は、昭和四十四年に神戸市東部中央卸売市場が開設されたのを機に水産物卸売協同組合が中心となって、大漁と商売繁盛を願い魚の奉納を計画、参拝者にも見てもらうために日本人好みで大きな魚ということで、翌年45年の十日えびすから鮪と鯛を奉納。鮪はその大きさのために本殿のお供えすることができず、拝殿に置かれている。
奉納された大マグロは、「十日えびす」の三日間「招福大まぐろ」として拝殿に飾られるが、このマグロの頭や背中などに賽銭を張り付け、商売繁盛や豊漁等の願を掛けるのが常例となり、毎年数万枚の貨幣が張り付けられている。今年は、四年ぶりにアクリル板が取り払われ、参拝客が、さい銭を貼り付けていた。

参拝客は、さい銭を拝殿に向かい、放り投げる。僕は、さい銭を放り投げる行為を是としないのだが、ここは、仕方がないだろう。これも風景だ。もちろん、拝殿には、ガードネットが設置されている。

寛文三年(1663)四代将軍家綱寄進の国宝・本殿は、三連春日造という構造を持っている。昭和20年の空襲により、焼失したが、昭和36年、檜皮葺きから銅板葺きに変わったほかは、ほぼ元通りに復元された。

向かって右からが第一殿で、蛭児大神を祀り、中央が第二殿、天照大御神及び明治初年に大国主大神を配祀、左が第三殿で須佐之男大神を奉斎している。

由緒によると、

昔、鳴尾に住んでいた漁師が、沖で漁をしていたところ、網に大変手ごたえを感じ、引き上げると魚ではなく、御神像のようなものだった。魚ではないので海にもどし、西へ向かい、和田岬あたりで、また網を入れると、再び大変な手応えを感じ、引き上げてみると、それは先程海にもどしたはず御神像のようなものだった。

漁師は、これはただ事ではないと、漁をきりあげ、御神像を丁寧に布にくるみ、家に持ち帰り、祀った。ある晩、夢の中に御神像が現れ、「吾は蛭児の神である。日頃丁寧に祀ってもらって有り難いが、ここより西の方に良き宮地がある。そこに遷し宮居を建て改めて祀ってもらいたい。」との御神託があった。

蛭児神は、古事記によれば、イザナギ、イザナミの第一子で、神産みの際に女神であるイザナミから先に男神のイザナキに声をかけた事が原因で不具の子に生まれたとされる。葦舟に入れられ、オノゴロ島から、流されたと書かれている。

『日本書記』では、イザナギ・イザナミが生んだ最初または2番目の神として『古事記』に似たものもあるが、本文ではアマテラスとツクヨミの後、スサノオの前に生まれ、三歳になっても脚が立たなかっため、アメノイワクスフネにのせて、流したと記述されている。

古事記、日本書紀の記述は、以降なく、蛭子神のその後は、中世以降に起こる創作の伝説だ。

由緒に戻ろう。
葦船に乗せて流された蛭児の神が、再び茅渟の海から出現した。この神がされたのです。この神が西宮えびす大神として茅渟の海、今の大阪湾岸の神として、海に生業の道を求める人々、街の商人に絶大なる信仰を集めてゆく。

鳴尾の漁師は恐れ謹み、漁師仲間と相談し、蛭児大神を輿にお乗せし、御神託の通り西の方、良き宮地を求めて出立した。ある所で一休みされた蛭児大神が、眠り込んでしまわれ、なかなか目覚めなかった。困った漁師たちは、蛭子大神のお尻を捻って目を覚ましていただき、再び西へ向って進まれたという話も残っている。その御輿を置いて一休みされたといわれている処が、西宮神社より東へ200m程の札場筋角にある御輿屋跡地といわれているところだ。

海より甦った蛭児大神は、えびす様としてこの西宮の地に鎮まった。

境内には末社が12社鎮座している。末社巡りは次回、ゆっくり、訪れたい。

神池を中心として石組による築山を中央に配した蓬莱山水式庭園も美しい。

南北朝時代から室町時代に造園されたと伝えられている。現在の庭園は阪神淡路大震災の被害の後、改修された。

神池に面したところにある甘酒屋がにぎわっていた。

福笹や熊手も十日えびすならではのものだ。

福笹がなぜ、縁起物になったかというと、笹は常緑で生命力に満ち溢れ、殺菌や薬用の効果があることから、古来より、神社ではお清めなど様々なことに用いられてきた。えびす様が竹の釣竿も持っており、真っすぐに伸びる竹の姿は縁起が良く、商売人の正直な心を象徴しているともいわれている。

 

時間がない中での宵えびす参りだったが、来てよかった。来年は、本えびすに来よう。もちろん、福男レースには参加できない。

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