忠海・大久野島散策~潮待ちの港から毒ガスの島そしてウサギの島へ | 大根役者

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久しぶりに忠海駅を訪ねた。平成22年7月豪雨で呉線内で複数の土砂崩れが発生し、三原駅 -呉駅間が不通となった。平成28年梅雨前線豪雨の被害にも会い、平成30年7月豪雨災害にも遭遇した。JR呉線は瀬戸内海沿いを走る国道385号線の南側を走り、瀬戸内の景観とともに存在するJR各線の中でも屈指の景観を誇る線路だ。天候の影響を受けやすい要素は多いが、瀬戸内の多島美を楽しめる路線は、JR西日本観光列車エトセトラの路線にも選定されている。
 
若杉慧の小説「エデンの海」で名高い景観は、忠海高校前、国道375線のパーキングエリア「エデンの海」に存在している。若杉慧が忠海高校の教師として赴任した当時の経験を題材にした私小説だ。
駅前の風景はかって、訪れた時のままだ。このレトロな商店街は魅力的なのだが。次回、訪問した時にゆっくり歩いてみよう。
黒滝山にもまた登りたい。観音堂や33体の石仏があり、観音堂は、天平二年(730)僧行基の創建と伝えられている。山腹、山嶺の岩肌に観音像が彫られ、「西国三十三カ所霊場」となっている。これらの観音像は文政四年(1821)作と伝えられている。
古くから信仰の山として知られている。
乃木大将が明治39年に登山した際、周辺の風光に歓声を放ったという腰掛岩もある。頂上には石鎚神社もある。石鎚神社同様、鎖で登る。
実は、途中のさくら堂までは、車で上れる。山頂まで、石仏見学をして歩いても三時間くらいで登れる山だ。
忠海は平安時代以前から、瀬戸内海の海上交通の要衝として栄えていた場所だ。
忠海港まで歩を進める。
竹原市は、日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」の構成自治体として、認定されている。
北前船に関連する5つの構成文化財の一つに、北前船の入港の目印となった「常夜灯群」がある。「忠海港の常夜灯」も構成文化財のひとつだ。
常夜灯には、東面「天地海童一切諸神」 北面「(上部)文化十三年/丙子九月吉日(中間)當町(下部)綿屋清兵衛門/胡屋茂兵衛」西面「諸天諸菩薩」 南面「金毘羅大權現」の文字が刻まれている。
小学校の時に、この海の沖合でナウマンゾウの臼歯が見つかったということを学んだ。瀬戸内海は陸だったのだ。弥生時代の土器も発見されている。

平安時代には、「乃美の浦」と呼ばれていた。大治4年(1129)、平清盛の父、平忠盛が山陽道・南海道の海賊追討追討使に抜擢されると、この地は忠盛により平定された。936年の藤原純友の乱以降も瀬戸内海では、海賊による被害に悩まされていた。

忠盛は自らの名を2つに分け、北側の浦を「忠海」、南の大三島の地を「盛」(盛漁港)と名付けた。忠海の由来である。平清盛は、日宗貿易のため、瀬戸内海の港を整備したが、忠海はこの時点で整備されていない。

鎌倉時代には、小早川氏の所領になり、鎌倉末期には、小早川家の庶家・浦氏の所領となった。

康応元年(1389)、足利義満が厳島詣の帰路、座礁し、忠海で潮待ちを師っと記述されている。室町時代には潮待ちの港として、機能していたのだ。浦氏は、後に小早川水軍の主力となった。

江戸時代になると、広島藩領として、年貢やコメの積出港として、機能した。北前船も寄港するようになり、朝鮮通信使も停泊した。

明治時代になると、明治23年、呉憲兵分隊、明治32年、芸予要塞砲兵大隊、明治33年、芸予要塞司令部が置かれ、大日本帝国陸軍の機関が配置されていった。大久野島では芸予要塞の施設群が建てられたが、後に廃止され、昭和4年、陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所が建設された。毒ガス工場である。太平洋戦争中には空襲を受けていないため、そのままの形で残っていたが、その中の煉瓦造りの毒ガス貯蔵庫が2018年・平成30年7月豪雨の際、損壊した。

大久野島への渡船は観光客でいっぱいだ。毒ガスの島・大久野島は地図から消えた島だ。太平洋戦争の負の遺産として、人々の
記憶として残していくことを目的とされた。昭和4年から昭和20年まで、太平洋戦争で使用するための毒性のガスが秘密裏に製造されていた。島内には民家七戸・住人数十人がおり農耕を営んでいたが、毒ガス製造が始まった時に強制退去となった。

毒ガスやそれに関する機器は終戦直後、旧日本軍が証拠隠滅を図り海洋投棄し、その後,進駐軍が島全体を接収し海洋投棄・埋設・焼却するなどの無毒化処理が施された。昭和30年代、厚生省による国民休暇村整備計画に基づき、広島県は大久野島の国民休暇村整備を公表した。島は厚生省所管となった。

国民休暇村になるにあたり、県は自衛隊に島内に残留している毒ガスの調査を依頼した。防空壕内内から2.5トントラックで5~6台分の毒ガスが発見され、建設工事請負業者が工事中に土中に埋められていた毒ガスに被災する事故も起こっている。以降、国民休暇村拡張工事の際に被災者が出てしまうなど、1972年まで発見・被災は続いた。

1995年3月から1996年5月の環境庁による大規模調査で、環境基準を大きく超えるヒ素による土壌汚染も確認された。ことである土壌自体は1997年11月までに対策工事が完了している。2009年の報道によると、県による周辺海域の海中汚染モニタリングではヒ素は検出されておらず、海洋生物の異常報告もなかった。2004年から井戸水の利用を完全に中止し、現在、休暇村大久野島が利用する水は島外から船で運ばれている。環境省が島に上水を送る海底送水管敷設を計画したが、その敷設地点周辺での調査で海中投棄された毒ガスとみられる兵器が発見されたことにより、見通しがつかないとして工事を中止した。つまり、太平洋戦争の負の遺産・毒ガスの島は無毒の島にはなっていないのだ。テレビ番組で、毒ガス施設の周辺で、幽霊が出るという番組が作られ、国民休暇村への観光客が激減した。大久野島では、イメージを払拭するため、地元の小学校で飼われていたウサギ8羽が野生化して繁殖した野ウサギをマスコットにすることを計画し、毒ガスの島からウサギの島へのイメージ脱却を志向した。戦前の実験用ウサギが繁殖されたとする説は誤りである。ただ、島に生息する野生ウサギは全てアナウサギで、世界・日本の侵略的ワースト100に入っているものだ。

ウサギの島の玄関口として、忠海港は変わった。

ラビットアイランドグッズが所せましと並んでいる。正しいことなんだろうか?

 

大久野島へ渡った。
太平洋戦争末期、学徒動員でこの島で強制労働に駆り出されていた人も多いと聞く。空襲の被害には、合わなかったため、当時の記憶を持ち続けている人も多い。
 
往時の施設跡に出没するウサギの世話のため、毎日の水やりと、えさの手配に予算が組まれている。

 
 
 

 

 
灯台のある風景は往時のままなんだろう。この島へきて思うのは、負の歴史を風化させてしまおうとする人間のエゴの愚かさだ。
港周辺には、ウサギをテーマにした施設も多い。
国民休暇村施設前にウインブルを着用した修道女がいた。この島の犠牲者たちに祈りをささげているのかと思ったのだが、ウサギと戯れていた。
そんな時代なんだ。行政の意図なのだ。
ウサギの島を楽しめない僕は、フェリー乗り場に急いだ。Yahoo!ショッピング(ヤフー ショッピング)

 

 

 

 

 

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