庄原から、国道432号線を北上する。国道432号線は比和川に沿って進む。比和町に入って、しばらく進むと城福寺の手前に鳥居が
見えてくる。
扁額に籠・王子神社と刻まれているのが、不思議だ。二社が鎮座しているのだろうか?
手水舎のトタン屋根の風景が、なかなかいい。
参道脇に林立している自然石はお墓なんだろうか?
狛犬は出雲構え獅子。
参道を進む。
二の鳥居が見えてくる。
境内に入る。
拝殿
本殿は一間社切妻造り
創祀年代は、不詳だが、社家記録によれば、往古、丹波の里より、勧請し、当初は朝宮沖に鎮座し、後に現在地に鎮座したと伝えられている。宗社は丹波籠神社だ。
朝宮沖の場所が、現在は、どこにあたるのかは、不明なので、今度、調べてみよう。
永禄3年(1560)6月に、祠官石谷弾正が急死したので、時の寺社奉行熊野別当荒木三郎左衛門尉に依頼し、八幡別当荒木数馬の三男荒木主税定勝を招いた。
森脇錦山城主、湯浅肥前守広吉の崇敬が篤く、かって、内室出産の折、乳の出が少なかったので、祈願をしたら、父が出たと伝えられ、子守の神として、崇敬されるようになった。元禄3年(1703)、元文2年(1737)、天明5年(1785)、文政10年(1827)、修復の記録が、棟札に残されている。
森脇錦山城の詳細を調べていないが、紀伊発祥の湯浅氏が、この地を領して、後に、毛利元就に属した歴史がある。
祭神は、伊邪那美命、三分神だ。
摂末社として、王子神社が勧請されている。
床下に奉納された素焼きの天神様が転がっていた。この祈願の由来を調べたい。
境内社
王子神社は厄除け、家内安全の神だ。
祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天照大御神、速玉之男命、事解之男命の五柱で、総称して「王子大神」という。紀州熊野三社権現(本宮・那智・新宮)の御子神さまの呼称である。丹後から農業の神として、勧請された神社が紀州を発祥とする湯浅氏に崇敬され、王子神社が勧請されたのだろう。
前述した扁額に社名が併記されていることには、勧請後のこの社の歴史が刻まれている。