志和盆地と神機隊~芸州広島藩が維新の歴史から消された理由 | 大根役者

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10年目の3.11がもうすぐ、やってくる。

戊辰戦争で、めざましい活躍を見せ、戦争を終結に導いた広島藩の軍隊「神機隊」の現地に眠る隊士の墓に参る計画を立てていたのが、ちょうど、その頃だった。広島藩学問所の最年少講師であった神機隊大砲隊長、若き天才、高間省三の墓は双葉町の自性院にある。

いまだに参拝が叶わない。戊辰戦争最大の戦いが「浪江の戦い」だった。福島第一原発事故の時に、僕は戊辰戦争のことを思った。浪江が

再び、歴史の転換期に位置していることを感じた。

広島藩学問所は僕の母校である修道中・高の前身であり、幕末に多くの志士を輩出しているのだが、薩長土の志士たちのように、歴史の表舞台に明記されないのが不思議だった。

維新に向かう道筋を一番、最初に付けたのが安芸広島藩であることを僕たちは知らなければならない。よく、薩摩は琉球のサトウキビの利権により、藩財政を豊かにしたとされるが、実際は大崎下島の御手洗港による密貿易だった。安芸広島藩と薩摩の薩芸同盟が維新の道筋をつけたことを意識したい。

第二次長州征伐において、幕府と長州の休戦協定を宮島大巌寺で結ばせたのも広島藩なのだ。大政奉還建白書を最初に幕府に提出したのも安芸広島藩なのだ。

薩長芸軍事同盟を結び、朝敵、長州藩を安芸広島藩藩士として、御手洗から、三藩進発で京都へ向かわせたのも安芸広島藩なのだ.。その時に、時代を指揮したのは、執政・辻将曹だったのだが、辻将曹が安芸広島藩を維新の表舞台から消すことになる。

慶応4年(1868)1月3日鳥羽伏見の戦いが勃発する.。広島藩正規軍は伏見・銭取橋付近に出動するが、非戦論だった辻将曹はこれは、薩摩と会津の遺恨の戦であると主張し、一発の銃弾も打たせなかった。三藩進発の中心だった安芸広島藩はこれにより、時代から後退し、後に参加した土佐藩を含めた薩長土が戊辰戦争の主導権を取ることになる。一発の銃弾も打たなかった広島藩は諸藩の嘲笑の的になっていた。

慶応3年に、志和盆地で藩士と農商出身者1200名で結成された軍隊「回天軍第一起神機隊」は、西洋訓練、組織、最新鋭の武器で武装した部隊であった。神機隊の船越洋之助、小林柔吉は京の状況を志和に伝えた。神機隊は藩に京都出兵の許可を願ったが、藩からの許可を得られず、自費で出兵することにした。西蓮寺において六小隊で一個大隊を編成し、320人の精鋭を選んだ。脱藩まで覚悟していたが、藩主は出陣を聴許し、大坂までの軍艦・豊安号の使用を許可し、安芸広島藩は戊辰戦争に参戦していく。上野戦争にも参戦し、東北に進軍した。仙台陥落の時に、隊員は80人になっていた。この凄まじく、目覚ましい活躍にもかかわらず、安芸広島藩が維新政府の主力になることはなかった。

 

神機隊は、西蓮寺を屯所とし、もと長州藩奇兵隊に属していた木本壮平を教師として、新旧流の訓練を行った.。凱旋後も解散されることなく再編成されたが、廃藩置県後の明治五年(1872)、生涯扶持と三百人ずつ交代で広島城内松原講武所出勤を条件に解散した。西蓮寺境内に隊員の一部の墓が集められている。

 

西蓮寺山門前にある碑、明治維新 神機隊本陣跡と刻まれている。

神機隊の墓は、その多くが西蓮寺の向いの和田山の山中に無造作に放置されていたものが、地元有志により、西蓮寺境内に集められたものだ。

西蓮寺神機隊墓地には十七基の墓石が並べられているが、いずれも戊辰戦争の、広野、相馬、双葉周辺での戦病死者である。その中にあって中央一段背の高い墓は、石田速一のものである。
石田速一は、西蓮寺墓地に土葬されていた。身長六尺と、当時としてはかなり大柄であった。墓から掘り起こされた時、何故かチョンマゲだけは長く伸びていたと伝えられる。西蓮寺で病死したものと思われる。

 

神機隊が歴史の表舞台で語られることを待ち望んでいる。薩長を結びつけたのは坂本竜馬と言われるが、軍事、政治的に結びつけたのは安芸広島藩だ。坂本竜馬人物像は後の創作だが、彼は、時代を商売した人物だ。その人物像に安芸広島藩が加わり、時代を象徴するキャラクターになったと僕は、考えている。亀山社中が彼の本質であり、近江屋事件は、京都見廻り組が彼の背後のグラバーを絶ち、維新軍の武器ルートを遮断することにあったと思っている。安芸広島藩も坂本竜馬なのだ。