志和神社~八条原城跡 | 大根役者

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幕末を迎え、幕府の意向を組みながら、藩政を維持してきた広島藩は藩政運営に大幅な方向転換を余儀なくされてきた。

維新へ向かう時代の中、開国により西洋から入ってきた高性能な鉄 砲や大砲などの火器は、戦国時代から続いた戦闘の 方法を大きく変えていった。

射程距離の長い大砲 の出現によって、城郭の多 くは、その軍事的な防衛機能を失っていく。広島城も例外ではなく、海に面した交通 の要地に築かれた平城は、射程距離の長い大砲を 積んだ軍船からの攻撃には対応できなくなっていた。

広島城に代わ る防御施設の構築が急務となった広島藩は、政務を広島城から移転することを計画した。本来なら、幕府の許可を取らなければならない命題だったが、開国を迫られる幕府には内政に目を向ける余裕はなかった。

 

文久3年(1863)12月16日、広島藩主浅野家の分 家で江戸青山に屋敷を構えていた浅野長厚が高田 郡吉田に移住する。

『芸藩志』には「広 島は国家の有事に際して、守るに適した場所ではな い。高田郡吉田は僻地ではあるが、土地は広く、周 りは山に囲まれた要害の地である」と記されてお り、吉田盆地を北に対する軍事拠点とする計画があった。

慶応4年 (1868)8月9日の『芸藩志』には、「広島は交通の便 は良いものの、平坦な地形であり、近年の戦闘では 守ることができない。一方で賀茂郡志和は四方が山 に囲まれ敵が侵入し難い。ここを非常の際に使用す る場所に定めた」と記されており、非常時には志和 盆地も拠点とすることが決められていた。

  志和盆地は海岸から約20 キロメートル離れた内 陸にあり、周囲を 700 メートル級の山に囲まれ た盆地だ。主要な 出入口を封鎖することによって、盆地全体 を要塞化することが可能で、盆地内で収穫する 8,000石の米が長期の兵糧として利用できる利点もあった。

志和西村の八条原に、藩主の邸宅・政事堂・米倉・ 練兵場・文武塾の講堂などを造る計画が実行された。表向きには藩主の別邸と練 兵場の建設というっことになっていた。 米倉が造られ、これまで広島城下に運ばれていた志和盆地内の米は、全てこの米倉に 納められた。工事の開始に伴い、志和盆地に出入りする主要な 通路6 か所には柵門が設けられた。しかし、明治2年12月に は工事は中止され、志和盆地の主要な出入口に設け られていた6か所の柵門も全て廃止された。 明治2年5月の戊辰戦争の終結とその 後の鎮静化によって、工事の必要性はなくなったのだ。 慶応4年は改元され、明治元年となった.。

 明治4年(1871)の廃藩置県において、広島藩の 財産は広島県に引き継がれたが、八条原 の建物や敷地は広島県に移管されることなく、明治5年(1872)、旧広島藩主・浅野家の個人所有の 別荘として売却された。その代金の一部が、 戊辰戦争で広島藩兵として働いた応変隊や神機隊 などの隊士に分配された。八条原の存在は、歴史から消えて行った。

 

地元の人から八条原城跡と呼ば れているこの地に現在は志和神社が鎮座している。

 

志和西地区の四社を合祀し明治40年(1907)建立された。

参道右手にある手水鉢は藩主別邸の庭にあったものと言われている。

志和神社拝殿

志和神社本殿

広島藩の存続をかけて、計画された八条原移転は、僅か2年後には完成を待たずに放棄された.。

八条原城の残影に時代に翻弄された幕末の歴史を偲んで、志和盆地を後にした。