母、逝く(2) | マキオカのネイチャーな日々

マキオカのネイチャーな日々

山梨県の牧丘に手作りの2区画だけのキャンプ場を作りました。

広い空には満天の星。
ティピィの煙突からはバーベキューのけむりと笑い声。
ハイジのブランコは空まで届きそう。

いるだけで気持ちが和んでいく。そんな不思議なキャンプ場から贈ります。

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

二人の妻に死に別れ先妻の子供が八人いる父の三番目の妻として、母はわたしと姉を産み育てた。
父は母より20才も年上で、手がけていた事業が上手くいっていた頃母と知り合ったが、しばらくして倒産してしまった。
すでに先妻の子どもを押し付けられていた母は別れるわけにもいかず、戦争で没落してしまった実家に頼るわけにもいかず、長男は母と一才しか違わないという複雑な人間関係の中、四苦八苦しながらまだ小さかった先妻の子どもとわたし達姉妹を育ててくれた。

若い頃から口八丁手八丁と周りから言われていた母は父と一緒に新たに始めた商売を軌道に乗せたが、夫婦関係は最悪だった。
わたしは中学生の頃「こんなに相性が悪い夫婦なのに、なんで別れないんだろう」と思っていた。

2月14日に通夜、15日に告別式を終えたが、そこは二人の先妻の子ども達、孫、ひ孫で溢れていた。
さらに長年やっていた日本舞踊、町内会の関係者の方々も来てくださった。
葬儀を人生の集大成として見るのであれば、母の人生は天晴れというものであったろう。

今は病院で最期を迎える人が大多数だという。
母の家の二階にはわたしの娘家族、隣に姉と甥家族が住んでいて、毎週わたしと息子が母の治療と世話をしに通っていた。
母の体調が崩れた12月に介護保険の見直しをお願いして要介護5の認定をしてもらったので、隔週で訪問ドクター、週2回訪問ナース、週1回の訪問入浴、訪問リハビリをお願い出来た。
基本一日3回ヘルパーさんにおむつ替えに来てもらい、家族はおしゃべりしたり世話をして過ごせるようにして、長期に渡る介護生活を覚悟した。
とはいえ、これは周囲に親族が多かったから出来たことかもしれない。

結局その生活は2ヶ月で終わったが、自宅介護が可能であれば是非チャレンジして頂きたいと思う。

この介護の仕方を決断をした理由は祖母だ。
医者に勧められ胃ろうをした祖母は植物人間となって病院を転々とし、意識のないまま8年近く老人栽培の餌食となった。
わたしはその状態を見て「無限地獄が現世に顕現している」と感じ、ゾッとした。

いつ終わるかもしれない無明の闇。
一見意識がないように見えるが、本当のところはわからない。

自宅介護は母には最期まで美味しいものを好きなだけ食べ、家族と接し、意識を保った状態でいて欲しいと願った結果の選択だった。

つづく