fish-onさんのブログ -2ページ目

距離

「ちょっと話があるんだけど」

私にはどうしても気になる事があった。
彼と付き合いだしてからもうすぐ一年が経とうとしている。その間、私達はケンカをした事がない。それはとても幸運な事なんだけど、彼があまりにも怒ったりしないから少し不安になってしまう。
「あなたって、怒ったりする事あるの?」
私は少し体を前のめりにさせ、彼の顔をじっとみつめてその表情を読み取ろうとする。
「急にどうしたの」そう言いながら彼はテーブルの上にあるおしぼりを小さく畳んでいく。落ち着かない時に現れる、彼の癖だ。

「私達、付き合いだしてもうすぐ一年だよね」
「うん」
「けど、ケンカとかしたことないじゃん」
「それは悪い事じゃないんじゃないかな」
「そうなんだけどさ」
私は少しだけ彼に悪いかな、と思いながら次の言葉を続ける。
「待ち合わせで遅れて来ても、何にも言わないよね。待たされて文句の一つも言いたくならないの?」
「だって文句を言う前に君が先にごめん、って言うじゃん」
「そ、そうだっけ」
「うん」
「じゃあ、私って自分で言うのもなんだけど、我儘じゃない?無理言うなよ、とか思わないの?」「我儘な自覚はあるんだね」
「どういう意味よ」
「あ、冗談だよ」
「で、思わないわけ?」「そりゃ少しは思うけど。けど誰にでも我儘言う子じゃないって知ってるから、僕に我儘言う分にはいいんじゃないかな」
少し照れた表情を浮かべて彼は私から視線を逸した。ちょっと我儘言うのはやめよう、と反省しておく。

「じゃあ、もしね」
少し意地の悪い質問をしてみる。
「もし私が浮気したら、どうする?」
「な、何言い出すの」
おしぼりを畳む手を止めて、彼は私の顔を見る。彼の表情は明らかに困惑している。
「そ、そりゃ嫌だよ。けど、浮気されるのは僕に足りない部分があるからだと思うから、まずは自分を磨くかな」
そう言って少し考えこんだ後、
「…浮気してるの?」
彼が恐る恐る口を開く。母猫とはぐれた子猫の様に不安そうな彼の様子に、少し胸が痛む。
「もしも、の話よ。仮定の話。してないから安心してよ」
意地悪な質問してごめんなさい、と心の中で謝りながら彼に言う。
「…よかった。うん」
心の底から安堵している彼を見て、また少し心が痛んだ。ごめんね。

「どうして、さっきからそんな事ばかり訊くの?」
彼は私に尋ねる。
私は正直に答える。
「やっぱり、付き合ってたら言いたい事言い合えないとストレスとかになるんじゃないのかな。私はあなたに不満はないの。けど、もし私があなたを怒らせる様な事を知らずにしてて、それを溜め込んでたりしたら嫌じゃない?別に怒られたい訳じゃないのよ。ただ、もう少し怒ってもいいんだよ?」

私はどんな表情でそう言ったかわからない。
くだらない質問をしたバツの悪さで彼の顔を見れないでいると、彼の声が聞こえてきた。

「これから先も、僕は君と一緒にいたいと思うよ。だから仮定の話までして怒らせたりするのは、あんまり関心しないかな。仮定の話するよりも、次のデートの計画を立てた方が楽しいじゃない?僕も怒る時はちゃんと怒るから、もうこの話はやめようよ」

彼の声はいつもと変わらない調子だったから、安心したのと同時に自分のバカさ加減にがっかりしてしまう。
彼の方をチラリと見ると、手持ちぶさたなのか、またおしぼりを小さく畳み始めていた。

そんな彼の姿を眺めていたら、ふとある事に気付いた。


「ひょっとしてさ」
「なに?」
「私、今怒られてるのかな」
私の言葉に、彼は少し笑っただけだった。

言葉

彼の言葉が私を殺した。

それは躊躇いも慈悲もない、容赦のない言葉。
私はその言葉の前に歩く術を失ってしまった。
けれど、彼を責める事なんてできない。彼には悪意なんてないのだから。


私は強い人間ではないけれど、涙を流しながら人生を渡っていくほど弱くはない。弱くはないつもりだった。

私にはルールがある。ルールに沿って私は走る。それは掟。そう、掟。それは従わなくてはならない鎖。それは誰にも犯される事のない、私だけの領域。

けれど、それすらも容易く撃ち抜かれて、粉々に砕かれてしまった。ガラス細工の調度品の様に、脆く崩れさってしまう。後に残るのは、砕かれた心の残骸。輝きを失った、ただの石。そこに価値は、ない。

私がそれを自覚した瞬間から、私という存在がひどく薄っぺらなモノに思える。存在を否定された訳でもないのに、心には到底埋めようのない穴が穿たれたように思えてしまう。その穴は徐々に広がって、私の心を石へと変えようとしている。
キラキラした宝石ではなく、鈍く黒ずんだ石。決して輝く事のない石。


私の意思はどこにあるというのだろう?


たった一言。


その言葉に殺されてしまった私は、生きていく意思を失ってしまった。どうやって走ればいいのかわからない。
わかる事といえば、これからの私を待っているのは灰色の世界。滲んだ現実。







それからの私の生活は、緩やかに、でも確実に崩壊してしまった。日常の出来事に心がいとも容易く砕かれる。誰かの言葉に撃ち抜かれてしまう。誰かの視線に心が犯されてしまう。
こんなにも脆いものなの?
その事実が私に追い討ちをかける。それらを修繕する間もなく、私の心は砕かれていく。



もうやめて…。私はもう走れない…。





それでも私の身体は、私の心に従ってしまう。無価値な私の意思に委ねられてしまう。そこには何もないのに。私の矜持はもうないのに。私の心は動きを止めようとしているのに…。


そんな限界寸前の私の心を救ってくれたのは、何故か彼の言葉だった。

彼の一言はありふれた言葉だったし、私を救おうとして放った言葉でもない。彼がそんなに気の利いた人ならば、最初から私を殺す言葉なんて言うはずがない。

それでも私の心の穴を塞いでくれたのは彼の言葉。
私の心をキラキラした意思あるモノへと変えてくれたのは彼の言葉。

どうしてその言葉が私を救ってくれたのかは正直わからない。
彼に特別な感情を抱いていたんじゃないか、と邪推する人もいるかもしれないけれど、お世辞にも彼は私の特別にはなり得ない。
ただ、言える事は、彼の言葉に私の心が殺されて、そして今は救われている、という事実がそこにあるだけ。


そう、今は救われている。


今はそれで充分なのだと、私は自分に言い聞かせる。。







そして私の掟は、新しく生まれた。

私の掟は、まだ私を走らせてくれるだろう。

たった一つ、新しい掟を加えて。

今を生きる

僕には自慢できるような特技もなければとりわけ優れている才能もない。大きな野心もないし、犯罪に手を染めるような度胸もない。

あるとすれば真っ直ぐに、ただ普通に生きてきた事だけだ。


だから幸せについて考える時に思い浮かぶ事といえば結婚して家庭を持ち、子供が成人するまで育てる事だ。子供が真っ直ぐ育ち一人前になってそれぞれの家庭を持ち、孫の顔を見る事ができればそれでいい。後は、奥さんと一緒に余勢を過ごせれば、それでいい。


大きな夢ではないけれど、それが幸せなんだと思う。僕が愛する人を守る事。真っ直ぐに生きる事。それでいい。



ずっとそう思って生きてきた。



そう、彼女に出会うまでは。



僕が彼女を説明する事は難しい。何故なら、僕は彼女ではないのだから。たぶん、どんな言葉でも彼女を言い表す事はできないだろう。
それでも強いて言うのであれば。

エキセントリック。

それが相応しいのかもしれない。


彼女はよく笑う。
けれどそれは優しいものでははない。誰かが悲しい時、彼女はそれが楽しいみたいだ。
子供が飼い犬の死に泣いていたら、彼女はそれを見て笑う。声を上げては笑わないけれど、満足そうな笑みを浮かべるんだ。


彼女はよく怒る。
けれどそれは一時的なものだ。自身の怒りは不愉快らしい。
誰かが彼女を罵った。彼女を傷付ける鋭利な言葉。
彼女が怒るのは一瞬だけ。それは誰にも知られたくないのかもしれない。彼女の性格ならそれもあり得る事だ。




彼女には善悪の頓着がないんだ。

だから彼女は人を傷付ける事に抵抗がない。自身の楽しみのためなら人だって殺せるのかもしれない。
それとは逆に悪人に手を差し延べて救いを与えるかもしれない。それが自身の楽しみのためなら。

そんな彼女だから、自由奔放に生きる。誰かを傷つける事を厭わない。
自身のためなら、罪を犯す事も厭わない。


そんな彼女を誰も理解しようとはしない。理解してはいけない、と考えるのかもしれない。


誰かが言っていた。

彼女はタブーだと。

彼女は魔女なんだと。

だから誰も彼女に近寄らない。関わりを持とうとしない。触れるなんてとんでもない。現代の魔女。魔女はいつの時代だって狩られてしまう運命だ。



…ただ、僕は知っている。

彼女には涙がある事を。


何故泣いていたのかはわからない。理由を訊いたところで答えてくれるとは思わない。答えてくれたとしても僕に理解できるとも思えない。

それでも、あの時僕が見た涙は紛れもなく悲しみの涙だった。


その瞬間、僕の心は魔法にかけられたかのように取り込まれてしまった。理由なんてわからない。もし彼女が本当に魔女であるならば、僕に魔法をかけたのかもしれない。なんにしろ、僕は彼女に魅せられてしまったんだ。


それからの僕は、彼女のそばにいる事が当然と考えるようになった。彼女もそれを拒んだりはしなかったから、きっと一緒にいたいのだろう、と勝手に考える事にした。


彼女の行動は相変わらずエキセントリックで、僕自身にも理解はできない。けれど、時折僕に見せる微笑みはとても純粋で、そこには魔女と呼ばれる理由なんて見つける事はできなかった。



それでも魔女はいつの時代だって狩られてしまう運命なんだ。


善悪の頓着がない彼女が社会的に不適格であるのは誰の目にも明らかだったし、彼女は危険だと僕だって思う。彼女はやはりタブーだ。それは認めなくてはいけない。


ただ、僕にだって言いたい事があるんだ。



彼女は魔女なんかじゃない。
人間なんだ。


彼女と同じ時間を過ごしていて、なんとなくわかった事がある。彼女は孤独なんだ。寂しかったんだ。けれど、それを伝える方法がわからない。誰かが不幸になれば彼女は自分の寂しさや辛さを皆が理解してくれると思ったんだろう。自分の悲しみは寂しさだ。そう伝えたかったに違いない。だから誰かを傷つける。罪を犯す事で存在を確かめる。


けれど、それが許される世界ではないんだって僕も理解している。


きっと彼女は排斥されるだろう。人間だけど、魔女と呼ばれ咎められるんだろう。それは仕方がない事なんだと思う。世界は彼女のためにあるのではないのだから。彼女は特別ではないのだから。



それでも、誰に何と言われようと、僕は彼女と一緒にいようと思う。


彼女が孤独だとか可哀相だとか、僕だけでもそばにいてあげようだとか、そんな同情や憐憫なんかじゃなくて僕自身の意思で決めたんだ。
彼女は魔女なんかじゃないから、もちろん魔法にかかっているわけでもない。


彼女を守る事。

僕の幸せはそれでいい。




うん、それでいい。