文化系寄り道倶楽部 -27ページ目

文化系寄り道倶楽部

アラフォーで2児のパパであり、80年代の音楽をこよなく愛し、ガンプラを愛で、パソコンをいじくり倒し、台所を妻から奪い取り、キングの小説におびえ、究極超人あ~るで笑いころげ、夜な夜なUST配信をしている

と、言った話が、昨今横行しております

横行といえば、今回判決が出た大阪の交通事故


死者2名を出す痛ましい事故ですが、それはほんの些細な「横暴」が横行し、まさに横に行ってしまった結果なのですが・・・

危険を回避しようとした車、さらにそれをよけようとした大型車両が歩道に突っ込み悲惨な事故になりました。

スピードや運転テクニック、その他いろいろ運転手に過失がなかったか、調査が進み結果的に最初にその「危険」を作った「原因」に罪ありと、判決が下ったそうです


いや、このあたりの事実確認は、それぞれでお願いします。その事実はともかく報道によると、実刑判決を受けたその「原因」の言い分は「俺が悪いんですか。向こうは車で殺したんですよ」


さて、あえて「原因」の立場に立って物事を見てみよう

彼は普段からその行為を繰り返していた
自分の腕に自信があったのか、ともかく自分は大丈夫だと思ったからそれを繰り返してきた
彼に罪の意識は「そもそも」ない

しかし、「そもそも」は違法な道路の横断であり、それは社会のルールである
彼は思う。ルールは自分を守ってくれる。社会は自分を守ってくれる。歩行者は走る凶器である車からルールによって守られている。

そして、それは、たぶん、間違いではない

が、まったく正しくはない

「俺は悪くない」という主張の裏には、いつもどおりルールを破り、いつもどおり周りが同じ反応をしてくれれば、いつもどおりなにも起きなかったはず

なのに

なぜ、あのバンは過剰に反応しハンドルを切ったのか
そして、そこにタンクローリーが反応し更にハンドルを切ったのか

そして、なぜ、そこに人がいたのか

そしてなぜ跳ね飛ばされずに壁に押しつぶされたかの


ここで、簡単にそれぞれのドライバーの立場、歩行者の立場に身をおいて物事を考えることができるのなら「そもそも」この事故は・・・いや、殺傷に至る行為はなされなかっただろう


これは過失による事故ではなく、横暴な行為による人の命を奪う行為だと、司法は訴えている

「俺が悪いんですか。向こうは車で殺したんですよ」

この言葉は、こう言い換えられるべきだ

「なぜ守られるべき法によって私が責められる。私は殺させただけなのに」


ああ

開いた口が塞がらない


想像力の欠如が悲劇を生むのか、無責任さが想像力を奪うのか

いずれにしても、自分の存在の「悪」の部分を認めながら生きられる人とそうでない人の間には、「想像もつかないほどの大きな溝」が存在する
そして、同時に、その人は「悪」と対立する「善」も自分の中にあるということを見失っているのだろう


想像力の欠如した世界

なんとも「さもしい」


「さもしい」とは「様(さま)悪(あ)し」が「さまわし」「さまうし」を経て「さもし」へと転じた語らしいです


ブログをやってるってことは、それは必ず誰かに見てもらいたいというエゴというか自意識というか、そういうものがあるはずで、当然にどのくらいの人に読んでもらっているかが気になる。

気になるけど

やっぱり、「どのくらい」よりも「どんなひと」のほうが僕は気になる。

その上で、数が多ければうれしいし、数が少なくてもゼロでなければいいなと思う。


ゼロはさみしい


自分が書いている小説をネットに投稿したとき、もしも誰の目にも触れなかったらどうしようという不安はある。確かにある。

しかし、ある程度方法論っていうものがあって、効果的に宣伝的なことをすると確かに多くの人の目に触れることはできる。

う~ん


そういうことをしたいと思うときもあれば、どうにも面白くないと思うときもある。


数字は「気にならない」といえば嘘だし、「気にしている」というほど一生懸命にはなれない。


今はまず、そんなことよりも、自分の作品の質を上げるための努力をするときなのだろう。


今は「数字」よりも「質」のほうが気になる。

これは間違いなく気になるのだ。


で、改めて、取り留めのないブログやまだ未熟な僕の作品を読んでくださっている方に感謝。

僕にとってその作業は、ホラーを書く上での一つの練習のようなものだったはずなのだが、本末が転倒ぎみである。

いや、書いている本人は、実は恋愛小説だとは思っていなかったりする。


憎しみを描くには、それと同等以上の愛情を描けなければ、表現することはできない



かわいさあまりに憎さ100倍


これは一つの心理だし、真理だ


愛深きゆえに、裏切られたり、報われなかったりしたときに突然爆発的なエネルギーを発揮し、破壊の方向へ向かうときがある


人はなぜ生きるのか?

死ぬとわかっていて、なぜ、懸命に生きようとするするのか


人はなぜ愛するのか?

愛ゆえに人は悲しみ、怒り、憎む


僕はなぜ物語を書くのか?


どこかで必ずそのことを意識する

自分が今たっている場所から見えるもの、そして見ようとしているものを確認するために


自分の経験に寄ったもの書くとき、それはまるで自叙伝のようになってしまい、はたと気づく

これは小説なのか?日記なのか?

手を止め、読み直し、データを一文字ずつ消してゆく


ちがう これもちがう これもだ これも これも・・・


そうやって、消していって、ようやくある分岐点にたどり着く

ここだ ここで間違えている


掛け間違えたボタンをはめなおし、もう一度やり直す

そうだ

伝えたいことがあったんだ

それを間違えてしまっては、意味がない


愛が凶器にかわり、狂気を生む瞬間

いや、そんなに劇的なものではない

演者がわからないほど、観衆が見逃すほどのわずかな変化からそれは始まる


僕の見ている景色とあなたが見た景色はちがう

その景色の違いこそ

僕が描きたかったことなんだ


その景色をスケッチする作業もいよいよ仕上げに近づいてきた

でも、僕はまだ迷っている

その結末に至るまでの道筋で、何が僕を待ち構えているのだろう


あの感覚をまた味わうのだろうか


苦くて、苦しくて、悲しくて、せつなくて、もどかしくて、情けなくて


心の底から「あの感覚」を抉り取って、それをさらけ出すことに何の意味があるというのか


ああ、そうか

僕はそれが知りたくて書いているのかもしれない


そして次の段階に移る


この次に書く予定の二つの作品は、きっと激しいものになると思う


果たしてそのとき

僕は狂気せずに いられるだろうか


きっと「あの感覚」を取り戻さない限り、次の作品は書ききれないと、僕の中の何かがささやく

それを知っているから


僕は今、恋愛小説とカテゴライズされる作品を書いているんだ

でもその先にあるのは、やはり、少しばかり怖い話になるのだろう

僕の「物語を書く理由」

それは「恐怖」に対する畏怖の念

人の本質を理解するのにもっとも重要な感覚「恐怖」
そしてその「恐怖」に正しく向かい合うための何かを見つけるための作業なんだ


いつか僕の作品が、「恐怖」に対する一つの意見として成立する日がくれば、それが一つのゴールなのかもしれない

昨日の夜は、女子バレーと日本シリーズ第5戦をザッピングしながらのテレビ観戦


いやー、女子バレーがんばりました


ドイツ相手に一進一退の攻防

この大会、3位まではロンドンオリンピック出場が決まります

もちろん、これを逃してもまだまだチャンスはあります


出場枠は全部で12(うち開催国イギリスは無条件なので残り11)

今回のワールドカップ上位3チーム

来年のオリンピック大陸予選で5枠(アジア1位)

最終予選で上位3チーム

う~ん

できればここで決めたいですね


中国が3位になった場合、アジア予選は韓国との一騎打ちになるのかな

そこで決められないと最終予選はどんな戦いになるのか予測が難しい


ドイツが中国に勝つことが大前提になるけど、なんとかアメリカに勝って、予選通過を決めたいところだが・・・


さて、今日はどうなるかな
これじゃないのかw


でも、いい曲だよね

PVは今ひとつだけどw





ABCのPVならやはりこっちがかっこいい



しかし、トレヴァー・ホーンと言う人は本当にセンスがいいと思う