文化系寄り道倶楽部 -26ページ目

文化系寄り道倶楽部

アラフォーで2児のパパであり、80年代の音楽をこよなく愛し、ガンプラを愛で、パソコンをいじくり倒し、台所を妻から奪い取り、キングの小説におびえ、究極超人あ~るで笑いころげ、夜な夜なUST配信をしている

と 言う気持ちをこめて・・・というお話で、別に皆さんとお別れですという記事ではないですw


年末は、やはりお世話になった人に感謝をこめて、いろいろとイベントがありますよね

お歳暮とか年賀状とか


今日のお話は、会いに行きましょう! って話です



週末に横浜のほうで大学時代の友人とこじんまりとした忘年会をしました

さて、そこに至るまでに、僕はフェイスブックを通じて、大学を卒業して以来あっていない懐かしい人の名前を偶然見つけ、友達申請をしました。むこうも覚えていてくれて東京にいくことがあったら、一緒に会いましょうといってくれました。彼は今広島で会社を経営しています。

そんな出来事は些細なことですが、忘年会を前に彼と連絡が取れたことに不思議な『縁』を感じました。

一見僕と広島には何の縁もありません。しかし、ソーシャルネットワークで、出会った方々の中には広島の方が何人かいました。彼らと出会っていなければ、広島つながりで旧友と再び出会うこともなかったことでしょう。

そして、その夜僕は品川の実家に泊まりました。横浜から今すんでいる江戸川区までは、終電がすぐになくなってしまいます。

翌朝、実家をゆっくり出て、駅で電車を待っているときに、偶然ある方にお会いしました

それは、中学のときの同級生のおかあさんで、僕がとても世話になった方です
僕はその方の縁故である会社に入社することができました。で、何度かお話しましたが、その会社は数年前に倒産してしまったわけで、僕としては、そのことをなかなか報告できず、実家から歩いて5分もかからないところなのに、不義理をして会いに行ってませんでした。

その会社の経営者はその方の親戚で、当然にまわりまわってその情報はいつか耳に入るだろうと思ってました。どうせ知られるのなら、自分で言ったほうが・・・とも思いましたが、それで、親戚の悪口大会に発展することは予想に難しくないし、僕も何かしら愚痴を言ってしまう気がして・・・

気持ちの整理もできたので、この年末年始こそ挨拶に行こうと思っていた矢先に、偶然その方と会ったわけです。

彼女はたいそう僕のことを心配してくれました。ぼくはぼくで、ようやく報告できるほど、自分の身の回りの整理ができたので、すんなりとそういう話ができました


うん、やはり、あって話すべきだった


奇跡というものは、つまりは確率的に「奇跡的」といわれる状況でなおかつ、人の興味を引くような劇的な物語がある場合に使われます

ここに記載した出来事は「奇跡」というにはなんでもない出来事ですが、やはり、どこか不思議さがあります。

会いたいと、会わなきゃと思ってた人と偶然会う

でも、偶然を偶然として片付けずに、何か意味があることとして、たとえばお世話になったひとに、ちゃんと挨拶に行こうとか、そういう前向きな生き方ができたら、来年は少しだけいい年になるような気がします


お世話になりました

また、来年も よろしくお願いします(まだ早いかw)
Facebook Twitterとうでは案内したのですが、昨日『静かなる老人』という作品が完成しました。

いわゆる3.11 東日本大震災の日

僕自身が体験した帰宅難民・・・私自身はその日のうちに帰宅できたのですが、それでも世田谷の豪徳寺から品川までのみちのりは、それなりに険しいものでした


険しい といっても、それは直接的な被災地にそれとは比べ物にならない些細なものかもしれません


それもで、そこに 非日常は存在したのです

いったんマスコミによって編集されたニュースになってしまうとそれは『帰宅難民』という四文字でいい表れされ、無機質で過去の一風景のような気がしてしまいます

しかし、あの日確かに東京の街中に非日常は存在していた

そして、その非日常は直接的な被害にあった、いわゆる『被災地』と地続きになっていたのです


この物語は、その意味では3.11をそれぞれの立場において、思い出すための装置となってくれればそれはそれでいいと思っています。しかし、一方でもっと内面的な部分――価値観が変わるような事態に見舞われ、人はどう変わっていくのか、変われるのか、何が変わらずに残るのか?といったことを問いかけています

問いかけて、そしてこれは僕の意見なのです


決して何かを結論付けていたり、言い切ったりはしていないのですが、しかし、この物語はやはり僕の意見なのです。僕はこの作品を通して何か意見を語っています。主張するでもなく、同意を求めるでもなく、意見を求めるでもなく、僕は語っています

僕が語っていること、語っている内容よりも、「僕が語っている」という、そのことが伝われば、それで僕はいいような気がしています。なぜならこの作品を書いた僕は、すでにここにはいません。

僕はこの物語を書いたことで、書く前の自分から、書いた後の自分に変わりました。僕は僕がこの物語を書いたという事実にとても大きな意味を感じています。

そういう作品です


『静かなる老人』
http://ncode.syosetu.com/n2404y/
いじられるよりいじるほうが好き

いやいや、好きというより、いじられるのはきらい

いじられて、はっとして、素の自分が出てしまったり、そういうのがきらい

いやいや、いじって欲しいけど、突っ込まれるのは苦手


これって、なんだろう?

生まれ持ったものなのかなぁ?


小学校に上がるまで、いや、正確には5歳で保育園で集団生活をするまで、ぼくは妄想の中で遊んでいた

いや、妄想と家族と遊んでいた

僕の家族は笑いのセンスはない

こてこてのボケやオヤジギャグは食卓には並ばない

お笑い番組はあまり見てなかったと思う

漫才は嫌いだった

落語は、まぁ、面白いとも思えたけど、年寄りのものだと思っていた

ドリフに出会うのは集団生活――保育園や小学校に上がってから友達のやっている(いや、友達にはなってなかったかもしれない)ギャグがどこが面白いのか、まったくわからず、その穴やら溝やらを埋めるためにドリフをみた。それでも野球中継があるときは、問答無用だった

ファンじゃないのに巨人の出ているテレビを見ている父親が不思議でしょうがなかった

「俺は川上がきらいだ」
といって、読売新聞の勧誘を断る父は格好が良かったが、それだけに残念だった


なんでやねん


いまならそういえるかもしれない

僕は後天的に突っ込みになった

だけど、それは発芽が遅かっただけで、やはり血筋は突っ込みなのかもしれない

消極的ツッコミ

僕には人前でおどける勇気はなかった


ツイッターやUST,ツイキャスをやるようになって、僕はボケに目覚める


面白いことを言うとき、どんな顔で、どんな声のトーンでそれをやれば受けるのか、まったく見当もつかなかったし、思いついたとして演技力に自信がない僕は、つねに出遅れる

しかし、文章だけで人を笑わせるのであれば、それは受けての問題になる

ぼくは相手にある程度の妄想、想像ができる範囲でボケをかませば、勝手に絶妙なタイミング、見事な演技でギャグを飛ばす僕の分身が彼らの脳の気持ちのいいところで暴れてくれる

ああ、なんて面白い人なんだろう

そう思われると、それはそれでつらい

だって、本当の僕に出会ったとき、僕はまったく面白くない人になってしまうから



そうなると僕はいてもたってもいられなくなる


また、ギャップを埋めるために何かをしないと・・・


それで 僕は 小説を 書き始めた・・・










うっそぴょ~~~~ん
流行語大賞とかそういう話題が聞こえてきます

その年、一年を振り返る時期ですね


2011年は特別な年

多くの人にとってそうなるでしょう


起きたこと 出来事 それは回避不可能で、それまで築き上げた価値観をひっくり返すようなパワーを持っていた


これほど毎日のように『がんばろう』という文字を見た年はない


誰が、誰に向かって言っているのかよくわからないこの言葉は

多くの人を勇気付け、多くの人を傷つけ、多くの人を励まし、多くの人を騙した


僕の中では非情に悪い意味での そして本来の意味での流行語大賞は『がんばろう』だと思う


まさに流行語であり、忘れ去られるべき言葉ではないだろうか


『がんばろう』という言葉を使わずに文章を書く事がとても難しいことに気づかされた2011年

こんな便利な言葉は他にない



心からの暖かい気持ちも、うわべだけの冷めた気持ちもこの一言で言い表されてしまう


言葉を大事にしたい

それは同時に気持ちを大事にすることなのだろう


がんばろうニッポン

じゃあ、がんばらないニッポンってなんだ?

がんばってなかったニッポンってなんだ?

がんばったからニッポン

がんばった結果のニッポン

怒(いか)れニッポン

怒(おこ)れニッポン


今の世の中 がんばることよりはるかに怒ることのほうが大事じゃないかな

本当に笑える日が来るためには

来年笑うために今年は怒ろう・・・うん?12月に今年の目標ってオイw
僕は会社で用意してもらったiPadを使って、それをネタ帳にしてます

誰かとの何気ない会話で心に引っかかったこととかをメモするわけです

もちろん、iPadでなければならない理由はないのですが、手書きでささーとやるには、紙とペンよりも早かったりするのが便利でいいわけで、僕はその書いた紙はなくしてしまいがちなのです


物語を書くようになってから、それはある種の習慣づけみたいになっていて、ところかまわずメモします

それは誰かの小説や本を読んでいるときでも、そういうことをするのですが、ふと思いました


いや、直接本に書いたらいいやんけ!


う~ん


だれだったかな・・・自分で読んだ本にはびっしりメモをつける人がいたけど、やはり僕には無理だ

本に何かを書き込むって、なんだかね・・・


で、最近思いついたネタをちょとここにメモ


・やたらと扉を閉めたがる子供(人)
 実は扉から何かが出てくるのを防ごうとしている


・デブ狩り
 太った人間は悪だ。魔女狩りならぬデブ狩りが世界に広がる(実は太った人のおなかの中にはある秘密が・・・)

・ポケットの中のメモ
 記憶にないポケットの中のメモ・・・しかしそのメモは時間の経過とともに文字が増えてくる

・鉢合わせ
 泥棒がある民家に侵入するが、そこで意外なものと鉢合わせに

・山手線を三週
 そこからある手順で異界の入り口に入ることができる

・宇宙麻雀
 場末な雀荘・・・しかしそこでは夜な夜な宇宙人たちによる真剣勝負が行われている
 いかさま上等のビックリ仰天テクニック

・落下物
 高速道路のトンネルに入ると落下物があると警告音が流れる
 しかし、その落下物は、地球上のものではなかった・・・

・レインコート
 雨の日曜日、窓の外を眺めるとそこに黄色いレインコートを着た子供が立っている。
 少ししてまた見ると、もう一人子供が増える、また一人、また一人・・・

・「新しい顔だよ~」といいながら後ろ向きに走り去る女



 ってな感じです。また、短編集をやりたいな


短編集『週末、公園のベンチで』