「ウォンカとチョコレート工場のはじまり」

若き日のウィリー・ウォンカをティモシー・シャラメが演じる「ウォンカとチョコレート工場のはじまり」。ジョニー・デップがウォンカを演じた「チャーリーとチョコレート工場」の前日譚だ。
前作はティム・バートン監督だったので、ややダークで登場するキャラもクセが強め。ロアルド・ダール的な皮肉も効いていた。
その路線を期待するとちょっと違うなと感じるが、これはこれでファンタジー色にあふれ、シャラメもキュートでピュアな好青年役で登場。
何しろ今回の監督は「パディントン」シリーズのポール・キング。なので納得。パディントンでお母さん役のサリー・ホーキンスが、今回もウォンカの母親役でいい味出していた。
パディントンと同様、絵本の世界のような「作り物感」は決して嫌いじゃない。どこまでもスイートで、ドリーミィーその上、レトロ。
音楽も楽しいが(シャラメが歌唱)、玩具みたいなセットや小道具がどれもこれもカラフルで可愛く凝ってい。携帯用のチョコレート製造機なんてもう最高。
豪華な脇役陣にも注目だが、中でもヒュー・グラントのウンパルンパは傑作だ。4頭身のミニチュアサイズになって登場するとは。そういえば彼は「パディントン2」でも怪演していたっけ。
とはいえやはり、ウンパルンパは前作のあの人の存在感が強烈すぎた。あの人はCGではなくリアルだし、どんな形ででもいいから再登場し笑わせてほしかった。

 

 

「シチリア・サマー」

どうしたってあの映画との共通点を探してしまうだろう。舞台はイタリア、80年代の初頭、たまたま知り合った少年と少し年上の男。
しかし「君の名前で僕を呼んで」と決定的に違うのは class だろう。あちらは大学教授の息子と教授の助手だったが、こちらは両者とも労働者階級。

もちろんボーイ・ミーツ・ボーイに階級なんか関係ないが、センシティブというより骨太なテイストだ。
実際にあった事件がベースになった物語だが、80年代になってもまだゲイの矯正施設があったという事実が恐ろしい。「治す」ものという感覚だったのだろうか。
確かに世の中は2人に不寛容で、徹底的に排斥されていた。昼間から酒場にたむろするロクでもない連中から、そこまで見下されるかというほどの侮辱を受ける。
友情から恋へと変わる過程も丁寧に描かれていた。いっしょに花火を打ち上げたり、秘密の約束を交わしたり、2人で過ごす夏の日々は輝きを増すばかり。
親に反対されてもかまわない。ワールドカップ優勝で狂喜乱舞する人々さえ、自分たちを後押ししているようにしか思えない2人。
やがて悲劇的な結末を迎えることを知ってはいても、何とかこのせつない恋を叶えてやりたいと思ってしまう。
ジャッレ事件という、この物語の素材になった事件のことを調べてみると、見過ごしていた伏線などが盛り込まれていたことに、改めて気づかされるのだった。


 

「ほかげ」

塚本晋也監督作品。戦争直後の闇市を舞台に、さまざまなトラウマや戦争によるPTSDに苦しむ人々の姿を、戦災孤児の目を通して描いている。
監督はもともと「野火」に続く大作を考えていたそうだが、コロナ禍の影響でなかなか企画が進まずこじんまりした作品になったそうだ。予算は限られていたかもしれないが、監督が描きたかったことは少しもこじんまりしていない。
「ほかげ」は、日本を戦争へと進めないための祈りがこめられた作品なのだ。
これまでの映画やドラマに出てくる「戦後の闇市」は、焼け野原になってもその中で逞しく生きる人々の姿、が多かったように思える。
でもそこから取り残されてしまった人たちも確実に存在するし、絶望の中でもがき苦しむ人々は声なき声をあげていた。
「ほかげ」にはそんな人たちばかりが登場する。私が特に印象深かったのは、ヒロインの店に入り浸る元兵士で、彼は戦争で人を殺したことの罪悪感や嫌悪に苦しみ、毎晩のように悪夢にうなされている。今でこそPTSDという名称がついて治療法も確立されてきたが、当時は世の中に適応できない落ちこぼれた存在でしかない。その姿にだれも目を向けない。
そんな元兵士を描いた作品は、これまであまりなかったように思える。
また、戦後生きるために体を売る女性は少なくなかったことはよく知られている。しかしそれでも明るく逞しく懸命に生きる、といったイメージだったが、この映画のヒロインのように、絶望のどん底まで落ちて深海魚のように息を潜めてもがく……趣里が朝ドラとはまったく違う演技を見せてくれた。
森山未來の役も確かに印象的だったが、それ以上に子役には驚かされた。海外のドラマや映画では大人も舌を巻くほどうまい子役をよく見かけるが、「ほかげ」の少年の存在感と深いまなざし、その演技を引き出した監督の手腕も素晴らしいと思った。
機会があればぜひ多くの人に鑑賞してもらいたい作品だ。


 

「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」

私は長尺の映画が苦手で、(内容にもよるが)できれば映画は2時間以内に収めてほしいと常々思っている。
3時間を超えると、観たい映画であってもかなり二の足を踏む。でもそれだけの大作だと、やはり観てよかったと感じることの方が多い。「ドライブ・マイ・カー」とかもそうだった。
スコセッシ監督、ディカプリオ主演のこの作品の上映時間は206分。かなり躊躇したが思いきって鑑賞したら、長さはほとんど意識せずに一気に見終わってしまった。
ストーリーの流れが早いし、冗長な部分もほとんどなかったと思う。
舞台は20世紀初めのアメリカ、オクラホマ。先住民族のオーセージ族は、石油を掘り当てたことで莫大な富を得る。その財産を狙う白人たちが彼らに近づき、何かにつけて横取りしようと企む。
地元の有力者である叔父(デ・ニーロ)をたよってやって来た若者アーネスト(ディカプリオ)は、何とか仕事にありつくが、オーセージ族の女性モリーと出会い結婚する…
決して「いい話」ではないのだが、テンポのいい演出でどんどん見入ってしまう。オーセージ族の資産家が次々に死んでいく様子は、ミステリアスでスリリングな展開だ。
役者もみな熱演していて、苦悩するディカプリオはもちろんだが、デ・ニーロはやはり底知れぬ怖さが、上手い。
ディカプリオは当初、後半部分から登場するFBI捜査官役でオファーされたのだという。確かに10年前ならともかく今の彼に(ヴィジュアル時にも)若者の役はやや無理がある、と感じなくもないが、そこは演技でカバーし不自然さはあまりなかったのでぎりぎりセーフ。自ら希望した役だそうだが、善人でも悪人でもあるあのキャラは、役者ならやりがいがあっただろう。
巧みなストーリーテリングで、話はどんどん進んでいくようでいて緩急のつけ方もうまい。アーネストとモリーが家の中で2人、じっと雨の音に耳を傾けるシーンや、家事の場面でかげろうのように揺れる画面の向こう側で、人々が黙々と労働する姿を映し出したり。何気なく見えるシーンの演出力、表現力がすごいなと思った。
アメリカの黒歴史といってもいい題材だが、やはりどうしても視線は白人だ。原作になったノンフィクションがそうだから仕方ないのかもしれないが、これが「彼ら」の視点で描いたらどうなったのだろう、とちょっと想像してしまった。
 



 

「月」
辺見庸の原作「月」の映画化だが、そもそもこの小説は相模原の障害者施設殺傷事件を基にしている。そう、あの救いようのない凄惨な事件のことだ。
だからこの映画がどういう展開になるか、観る側はおよそ見当がつくわけだが、それでもやはりそれなりの覚悟は必要。超問題作であることに変わりはない。
主人公の洋子(宮沢りえ)は、作家として成功を収めたがスランプに陥って書けなくなったのを機に、重度障害者施設で働き始める。そこで介護現場の現実に直面する。
作家志望の陽子や、親切な青年さとくんらと働くのだが、洋子は自分と同じ生年月日の寝たきりの入所者を世話するようになる…
心やさしいさとくんが、いつしか優生思想にとりつかれるようになり狂い始める。彼には正義感も使命感もあったはずなのに、「心がない入所者はむしろ安楽死させた方が世のため、本人のためでもある」と信じるようになる。
磯村勇斗は、よくこの役を引き受けたなと感心したのだが、彼でなければただのよくある極悪人にしかならなかったかもしれない。犯行に至るプロセスはスリリングだった。
彼の考え方も一理あるとは決して思わないが、それでも様々な問題提起がなされ考えさせられた。
事件とは別に、洋子の夫婦問題にも絡んでくるところは凄惨な物語に深みをもたせた。夫役のオダギリ・ジョーのキャラに人間くささを感じてしまう。


 

「福田村事件」

鑑賞してからだいぶ日にちが経ってしまったが、インパクトが強くてまだ鮮明に印象が残っている。これは日本人なら観るべき映画ではないだろうか。
関東大震災からちょど100年目の今年、この映画を公開する意義は多いにある。
千葉県の田舎、福田村(現在の野田市)で起ったこの事件に目を背けてはならないのだ。
関東大震災から6日経った日、香川県からはるばるやって来た薬の行商団15名が朝鮮人と間違えられ、女性や子どもを含む9名が村の自警団によって虐殺されたのだ。
震災の後、東京では流言蜚語が飛び交い、何の罪もない朝鮮人が目の敵にされあちこちで襲撃を受けた。その飛び火が福田村にまで及んできたのだ。
事件の顛末をある程度知っていて予想はしていても、当該シーンはやはり目を覆いたくなる残忍さだ。

集団心理の恐ろしさ、愚行に至らせた人間の弱さや恐怖心、根底に流れる深い差別意識。そして当時の警察や軍、政治体制に至るまで非常に考えさせられたし、また現在に通じるテーマも多かった。
監督があえて悲劇の部分を強調せず、淡々と事実を語っているスタイルにも感心した。
そして何より、映画の前半で人々の日常生活や人間関係を丁寧にじっくり描き出すことで、終盤の事件が生きてくるのだと思った(役者たちがみな好演! )。
冒頭からすでに、そこかしこで悲劇の種はまかれていたと気づかさせる。
ねじれた愛国心や人々の無知にも嫌悪したが、差別意識こそがこの悲劇を生み出したのだ。



 

「ダンサー・イン Paris」

バレエ映画が好きな私だが、この映画はヒロインのエリーズがバレエを断念するところから始まる。こともあろうに本番の舞台中、恋人が他のダンサーと浮気しているところを見てしまい、気持ちが乱れて着地に失敗し負傷してしまったのだ(個人的にはこのパリ・オペラ座現役ダンサーのバヤデールをもうしばらく見ていたかったのだが)。
ケガはダンサーが最も恐れること。以前にも傷めた箇所なので、回復にはかなり時間がかかるし、もう元には戻らないかもしれないと医師から告げられる。
踏んだり蹴ったりのエリーズ、自分の今後の身の振り方について真剣に考えてみることにした。
ダンサー仲間の友人や父親など、エリーズを取り巻く人々との関係も語られていく。
たまたまアルバイトしていた先で出会ったコンテンポラリーダンスのカンパニーに、エリーズはたちまち魅了される。圧倒的な迫力、独創的なダンススタイルはとても刺激的だった。
誘われるままレッスンに参加してみた。ケガした足首をかばいながら恐る恐る。だが体は踊ることを求めていたのだ。
「踊り方を変えるんだ、不完全でいい」と言われたエリーズは、まさしく目からウロコが落ちる思いだっただろう。常に完璧さを求められるクラシック・バレエ中心に踊ってきた彼女にとって、その言葉は天からの贈り物といっていい響きだったにちがいない。
新たに踊る場所を見つけたエリーズは、水を得た魚のよう。新天地での公演も成功し、また恋人も得て生きる喜びに浸っていた…
この映画はクラシック・バレエのファンにも、コンテンポラリー好きの人にも受け入れられるのではないだろうか。非常にバランスの取れた作品で、エリーズの心情に寄り添いながら、父親や仲間との関係も丁寧に描かれている。青春映画としてもいい。
もうトゥシューズをはくことはないけれど、まだまだ踊ることはやめない、と決意したエリーズ。満足気な表情の彼女の前に一瞬だが幻影のように、バヤデールの一場面である白い群舞が現れる。
エリーズが人生をかけてきたクラシック・バレエへの憧憬と感謝。私はこのシーンが大好きだ。


 

「エリザベート 1878」

原題の corsage はコルセットのことのようだ。
19世紀、絶世の美女と言われたオーストリア妃のエリザベートだが、40歳を迎えて若き日の体型を保つためにコルセットで締め上げる日々。
この挑戦的なポスターのポーズからして、並の伝記映画ではないことがわかる。
宝塚や東宝ミュージカルでも有名なあのエリザベートだが、今回の映画化では今までにない描かれ方をしている。
個人的にはエリザベートといえば、ヴィスコンティの「ルードヴィッヒ」に登場するロミー・シュナイダーが演じた謎めいた美女。とても魅力的だったが…
今回の、女性監督マリー・クロイツァーによるエリザベートは個性的、というより変人感が強く、孤独で偏屈、気まぐれ。まだ幼い娘からも敬遠される始末だ。
無理もない。気分ひとつですぐに海外旅行に出て、長期間戻らなかったりするのだから。
だがこの映画では、そんなエリザベートをただのわがまま王妃と捉えず、彼女のフラストレーションや焦燥感、自由へのあこがれなど絶妙なニュアンスで描いている。伝説のアイコンを見事に解体した、といってもいいかもしれない。
史実にとらわれない大胆な描き方、ポップソングを使用したり(でも違和感なし)、といった試みも。従来のエリザベート像のイメージにこだわる人は戸惑うかもしれないが、この映画の精神はなかなか野心的だと思った。
何よりエリザベートを演じたヴィッキー・クリープスの存在感が素晴らしい。「ファントム・スレッド」からまだ10年も経ってないのに、別人かと思える容貌でクールな演技を見せてくれた。


 

「オオカミの家」

チリ発のストップモーション・アニメ。鑑賞してから1ヶ月ぐらい経つが、いまだにこの映画の場面のところどころが脳裏に浮かぶ。とんでもなく不気味で禍々しい、強烈なインパクトを残した作品だ。
チリに実在したコロニア・ディグニタというコミューンを題材にしているらしいが、映画では特に言及されることもなかった。
あるコミューンをひとり脱走した少女が、森の中の家で動物たちと平和に暮らし始める。だがそれも束の間、やがて不安と恐怖にかられて精神を蝕まれていき、元のコミューンに戻りたいとさえ思うようになる…
グリム童話のようなタイトルだが、とても牧歌的とは言い難い、気味の悪い心象風景をカルト的な雰囲気で描いていく。一コマ一コマ、気が遠くなるような手間と時間をかけて。
まるで神経症の人の心象風景のように、ほとんど静止することなくめまぐるしく変化変容する画面。悪魔的で忌まわしい映像の洪水に、なぜか目が釘づけになってしまう。
とにかく何か凄いものを見てしまった、というしかない。
観る人を選ぶ作品とは知りながらも、ぜひ体験してほしいと言いたくなってしまう。
同時上映の短編「骨」。発掘された1901年の作品、というフェイク設定からして人を食ったようだ。こちらはホラー的要素が強いが、これもまた鳥肌がたつほど忌まわしい。

「バービー」

今の時代にバービーを実写で映画化?!  と思ったが、グレタ・ガーウィグが監督するとあって、納得できた。これはただキュートなだけのバービー映画ではないだろうし、フェミっぽい要素もきっと織りこまれているはずだ、と踏んだ。
しかし本国での公開前から宣伝のやり方に問題があったし、ミソつけてしまったことは否めない。
だがそれ以上の批判は、きちんと映画を見てからにしてほしい、というのが最初に感じたこと。
何もかも完璧な人工のバービーランドを飛び出して、バービーが初めて体験するリアル・ワールド(人間社会)。そこには女も男も生きづらい世界が待ちうけていた…
とはいえあくまでポップでキュートに盛り上げながら、説教くささなしで現代社会に鋭く切り込む監督の手腕は見事。
マーゴット・ロビーが演じるバービーは、わたしが幼い頃遊んだ(腰をひねることができるツイストタイプのバービー)のビジュアルそのものだったので、それがまずうれしかった。当たり前すぎるキャスティングかもしれないが、妙な人種的配慮は不要、これで正しいと思った。
ハイヒールを履くための形になっていたバービーの足が、ある日急にベタ足になってしまいショックを受けるシーンとか、かわいかった。
ケンの視点も取り上げているところがまた現代らしくていい。ライアン・ゴズリング(42歳)のケンは、ちょっと老けすぎじゃないかと思ったがすぐに違和感なくなったし、歌もダンスもうまくて適役。
また人間世界でのアメリカ・フェレーラ演じる肝っ玉かあさんのキャラや、母と娘の話なんかもしっかり絡ませているところがうまい。
ジェンダーの問題だけでなく、実にさまざまなメッセージをさりげなく盛り込んでいるのだ。
バービー人形の原型を作った女性のエピソードも素晴らしいし、ヘレン・ミレンのナレーションも味があってよかった。