母を見送る | お掃除とメンテナンスのプロ 矢部要のブログ

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「仕事でお掃除をする方の作業を楽にする事」が使命(ミッション)だと考えています。

 一般の『お掃除』から世界のプロが実践する『メンテナンス』の紹介をしています。

20日に母が亡くなりました。91歳でした。

何度か繰り返した肺炎での入院で二週間ほどでした。

 

8年程前から認知症の傾向が酷くなり、親父は丁度5年前の同時期に90歳で亡くなったのですが、中々大変な思いをしましたし、2世帯住宅で同居していた妹は更に大変でした。被害妄想を含んでいたのと、少し凶暴性もありましたので。

悋気が強く 正義感の強い性格で、少し距離のある人には素晴らしい人格なのですが、身近に居る人には、一寸難しいところのある人でした。

 

48歳の時に肝臓の病気に掛り、医者からは  60を越せないだろうと予想されていました。

その後心臓の詰まりも起こし、肝臓と心臓ですので当人も昔から長生きは出来ないと言っていましたし、周りもそう思っていました。寝ている事が多く疲れ易い体質で、もともとが丈夫だったことから、体調の良いときに張り切り過ぎては少し寝込むと言う生活を続けていました。

しかし太っており、食べる事が好きで(従って料理も上手かったのです)、親父に比べよく食べていたので、これだけ長生きできたのでしょう。

 

母は大正14年10月生まれ 2男5女の7人兄弟 、長兄の次の長女でした。   父親は第二次世界大戦で海軍輸送艦の船長で戦死し、 大変な暮らしで有った事が想像されます。祖母も苦労して子供を育てたのでしょう。

大分年を取ってから聞いたのですが、父とはどうやら恋愛結婚かつ社内結婚だったようで、終戦後兄と始めた建築会社の新進気鋭の専務(親父)に呼び出され、他の人との結婚話かと思っていたらプロポーズだったのでびっくりしたと言っていました。母はこの時代では大柄な人で159㎝あり、親父の知り合いに「奥さんは若い頃、スラッとして綺麗な人だった」と聞いたことがあります。

昔の遣り手実業家の妻としては大変な思いで過ごしてきたようで、子供を3男1女もうけ(私は3男なのですが)、最後にようやく産まれた妹を両親共に溺愛し、育てて来ました。

 

母は社会的には非常に評判の良い人で、私達兄弟が皆同じ学校であり、私の息子たちも同じ学校である事から、母も役員をしており、私も理事を務めたことがあるのですが、理事会や評議員会で生意気な事を言って評判の悪かった私と違い、古い先生達はこぞって母の素晴らしさ訴えていました。

人の為に尽くし、義理を絶対に欠かす事なく、応対が非常に丁寧だったのです。

 

現在97歳で未だに元気な家内の叔母からの丁寧な弔いメールで、私達がドイツで結婚し、生活を始めた際に心配する一人娘の様子を義母に見に行くように段取ったのは、親父だと思っていたが、実際は母だったようで、子供は親の事を知らないと言うのは本当だと思いました。

 

趣味は、かつては少しゴルフをしていましたが、生涯ではと言うと和歌でした。

自費で「天蓋の花」と言う本を出すほどでした。

 

中年(以上?失礼!)になった娘が、夜出かけた際には眠らずに玄関をいつも気にし、何度も外を覗いていました。いつも娘を気にしていましたが、最愛の娘に 認知症の所為でワガママを言い通して逝った のです。

お嬢様育ちの妹は最初はショックであり、相当戸惑って居たものの、その内子供の我儘を見るような表情で母のワガママを語るようになりました。その妹を見て、今更ながら女性の強さと言うものを強く感じました。男(特に私)は逆立ちしてもかないません。

長兄も次兄も母思いであり、最愛の妹とも最後まで生活を共にし旅立った母はやはり幸せな人でした。

 

私が好きだった母の短歌を一つ

 

 置物のごとくカラスは動かざり

          釣り糸垂れし 人と並びて

 

子供達を連れて毎年行っていた葉山の海岸を晩年訪れた風景です