朝イチ、友達と待ち合わせをして
医大に付き添いで行った。
友達、待ち合わせ時間に遅れてきて
とっても焦っていて、私が運転
していたのだけど、2週間ぶりに
車を運転するし、安全運転で
のんびり軽トラに付いていっていたら
早く、そんな車抜いて飛ばして

と、言われ


60キロは出ていたから60キロは
出てるよ~と友達に言ったけど
まだスピード上げろと??
つかさ、貴方の付き添いなんだから
本来、貴方が運転でしょ??
なんで私の車で送迎??
仕方ないから緩く抜いて安全運転。
その先の信号で引っ掛かったし
抜いた意味なしw
友達イライラしてた(笑)
医大の駐車場にゆっくり駐車してるのに
シートベルト外して降りる勢い(笑)
そして、車が止まるか止まらないかで
ドアを開けさっさ、さっさ、先に行く
私、荷物を取って歩いていたら
周りをみたら既にいない。
ちょっと先を見たら居て、早く、早く、
言われて私が近づいたら友達が
走り出して


帰りはそんな風やったから
車を止めている場所すら知らなくて。
おぃ!と思ったよw
走り出した友達。仕方ないから
私も急いでる風に早歩き気味に
走って。もう朝からぜーぜー息切れ
ぇ、予約時間の15分前って言われたんやから
10時15分、まだ10時前だから全然時間
大丈夫なのにしかも待ち合わせに
遅れたの貴方よ。そんなに急がなくても。。。
なんか、落ち着きなくずーっと
慌ただしい
なんか、せわしないおばあちゃんや
おばさんみたいで。。
しかも、トイレに行きたいのに私が
診察室に入ってからにして!って
トイレにも行かせてくれない
なにこれ(笑)
振り回されっぱなし~
友達が念の為にやっぱり早く行きたいから
待ち合わせ時間、早くしたいって
前日にLINEがあり、朝早起きが苦手な私。
病院に行くのに絶対に私、遅れちゃ
いけないと思い頑張って起きて待ち合わせの
10分前に到着してて。友達が全く来なくて。
LINEしたらヤバイって返事だけで
結局変更前の待ち合わせ時間に
友達が来て。
遅れてきたの友達やんw
でも遅れてきたのが友達で良かった。
私が遅れたら鬼の形相でヤイヤイ文句
いったに違いないないし、1日中
気まずかったやろうから。
で、友達は朝家を出た所から車が大渋滞していて
遅くなったのが納得がいかなかったらしく
私の車に乗ってきた途端に機関銃の様に
友達が喋り出し
私はまだ頭がお正月モードで緩い。。
医大に着くまで喋り倒していて
車を降りてもセカセカセカセカ
興奮気味で診察前に血圧をはかったら
140越えていた
かなり興奮していた模様w
予約は10時半。10時前に着き、
手続き、診察、検査3つ、診察、お会計、
お薬貰ってフィニッシュ!
4時間近くかかった
ま、想定内w
医大はそれくらいかかる。
流石に4時間冷たい固い椅子に
座りっぱなしだったので腰が
冷えて痛い。寝ても腰が痛い。
おまけに一気に舌の奥に口内炎が出来た
完全に疲れだ、疲れ
でも、本当は医大には行きたくなかった私
何故かと言うと、母の癌がわかった時に
付き添いで行って、そこから何回か
検査や診察で毎回付き添いしたり、
先生に呼び出しされて兄嫁と二人で
説明を聞いたり。
病院に行った時は既に末期で手遅れだった母。
ここまでになるまでにまさか、癌だとは思わず
全く気付かなかったし長年かなり痛みにも
耐えていたし体力ももう限界で歩くのも
ままならなかったので先生から抗がん剤の
治療をするなら歩いて来られるくらいは
元気がないと体力的に無理なので出来ません
と言われたし。
コロナ渦の中で色んな選択や決断を短時間で
決めなきゃいけなくて。
それって命に関わる事や母の今後の事やら。
緩和病棟か自宅介護かなど。
緩和病棟ならコロナ渦なので制限がかかり
会えなくなるし。
緩和病棟なら病院をさがしたり
自宅介護ならベッドや机、車椅子
色々なレンタル品や要介護などの
手続きや申請が山ほどあったり。
母は家族に迷惑をかけたら悪いから
自ら緩和病棟に入ると泣いて訴えたり。
家族としては病院によっては人間の扱いを
されなかったりが不安で。
薬が効かず痛みが耐えれず殺してと
言ったり。もう色々な事が次から次へと。
先生が母に終末期の事を考えて!って
そればかり言うし。それって死ぬから
色々どうしたいとか考えて準備しろと
言うこと。。今の精神状態の母には
考える事は無理。診察は病気の説明より
もう、死ぬ前提で死ぬ事しか話さない先生。
もう、余命宣告(余命半年)をされた母は
心が折れてしまって結局はあれよあれよと
あっと言うまに2ヶ月で力尽きてしまって
亡くなってしまった。
仕事を辞めて毎日毎日実家に通い
一緒に過ごして。私の子供の頃の事とか
昔の事で母に聞かなければわからない事とか
思い出話とかしようとしてもほぼ普通の
会話は出来なくて。母が子供に戻った様な
感じだった。
ただ、ベッドの横で手を毎日ずっと握って
温もりを感じて一緒の時間を過ごす。
眠っていて何も言葉を発しない日もあったり、
いきなり治ったみたいに普通に喋りだして
ご飯をたべて元気な日もあったり。
実家から家自宅に帰る時から翌日また
実家に行くまで容態が急変したり何が
あるかわからないから本当に毎日、
毎日が緊張で気が気じゃなかった。
容態が急変して帰宅してすぐに実家に
戻った日もあったし。40分掛かる実家。
流石に焦る私の運転が危なかったらいけないから
旦那が運転して車の中で旦那に覚悟はしなよ。と
言われ。そんな日があったり。
あの時、先に家族に相談もなく初診で母に
直接先生が余命宣告したことでもう母の
精神が一瞬で崩壊してしまって全ての歯車が
噛み合わなくなり止まってしまって一気に
病人になり死に向かって加速しまったのは確か。
最近の癌の宣告はそんなもんと兄嫁は
言うけれど患者の家族に寄り添った
宣告の方法と選択肢はあったはず。
大学病院は忙しいからそこを
すっ飛ばすわけ??
医者にとっては大勢の中のひとりだけど
私たちにとっては自分を産み育ててくれた
世界でたったひとりの母。大切な存在。
宣告を時代で片付けて欲しくない。
人間の命を軽視しているとしか思えない。
やはりそこは先生の人間性だと思うから、
私は先生のやり方を一生許すことはない。
母は最初の病院で言われた時は手術を
すれば治ると信じていた。
だから青天の霹靂であの余命宣告さえなければ
もう少し穏やかに過ごせる時間が少しでも
長かったのではないかと未だに考えて思う。
病院に行くまでは普通だったのに。
あの余命宣告で頭がパニックになり
生きる気力を失って翌日から立つことも
歩くことも出来なくなったしあまり
喋らなくなった。
一気に雪だるまが坂道からノンストップで
転がり落ちる感じだった。
なんの心の準備もなく余命宣告された
その瞬間から母は呆然としてしまって
待っている間、涙目で遠くしか見なくなって。
何を想って考えていたんだろうなと未だに思う。
兄嫁に呼ばれて慌てて病院に行くと兄嫁が
ごめん!みるくちゃん!先生が余命宣告
してしまった!って焦っていて。
母はいきなりの余命宣告だったから
気持ちの整理が出来るわけもなく、
何も考えられるわけもなく。
頭の中が真っ白になって目の前が
真っ暗になっただろうに。。
私は母に余命は気にしちゃいけない!
みんながそうなるわけでもないし
単なる統計学だし人の命の終わりなんて
そんなの神様しかわからないやん!って
言ったけど母はうわの空。
診察室に一緒に入って説明を受けて。
そこから先生が早く色んな事を決めろと
迫ってきて。何度も家族で相談しても
誰も答えを出せないし。
何が正解か分からないし、初めての診察で
余命宣告をいきなり母にするし
家族もパニックになった。
診察が終わって帰宅したらすぐに兄嫁から
連絡があった。母が居たら話せないし
聞きたいことが聞けないだろうと先生が
時間を作ってくれてすぐに向かった。
1日中飲まず食わずで病院を行ったり来たり。
PET検査を見ながらどこに転移しているかとか
説明をしてくれたり。
脳も光っていたし肩も光っていて激痛と
言っていた腰の辺りもかなり光っていた。
あとは光がからだ全体に散らばっていて
脳の光を見た時はショックだった。
癌の部分の組織を取る、この検査を
しなければ抗がん剤治療ができない、
でもこの検査で組織を取る検査をしたら
体力がなかったらこのまま検査で亡くなる
可能性があるといわれたり。
手術するには抜歯が必要になるとか。
もう、末期の癌の体力も無い余命が短い人に
この先早かれ遅かれ元気にはならず
死に逝く人に痛い思いをさせてまでやるか
やらないかって選択になるし。
もう全てがギリギリの命に関わる選択。
結局は奇跡にかけてやると決めて入院日を
決めて帰ったけど前日になってその科の
看護師にコロナが出て中止になり。
中止になって思った。結局、私たちは
間違った選択をしていて神様が中止に
してくれたのだと思った。やっていたら
亡くなっていたかもしれないし。
今でも思う、コロナで中止になり
やらなくて良かったと。
自宅介護になってからも弱ってきた時に
延命治療するかしないかの選択があったり。
要は点滴に栄養剤を入れるか入れないか。
入れても今更元気になることはないだろうし
痛い、辛いで寝たきりで日数をのばすだけだし。
最期の数日は何も食べられなくなり
水分も点滴。本当に樹が枯れるように
痩せていって亡くなった。
亡くなる日は朝から足の色がおかしかった。
そして、血圧が何度やってもエラーが出て
測れなくなった。
もしかしたらと思いながら取りあえず県外の姉の
職場に電話して実家に帰ってくるように言った。
朝の訪問看護の時は大丈夫だったけど、
姉が仕事上、血圧を測ったりオムツ替えも
出来るのでずっと血圧を測ったりしていたけれど
1日中血圧が測定不能。
夕方、訪問看護が来ている時に処置される母を
見ていたら何かいつもと違うと感じ
息がおかしいと見ていたらそのうち息の間隔が
なんかおかしくなり酸素投入したけど足りず。
最期はゆっくりと息をしなくなり 家族全員に
見守られてゆっくりと穏やかに天国に旅立った。
親はずっと強くて不死身だと思っていた。
やっぱりひとりの人間だった。
人間の最期ってこんな風に終わるのだなと。
母が苦労して建てた大好きな家で最期を
過ごせて良かったよ。
そして、急に亡くなったのではなかったから
母の余命を知り後悔の無いよう毎日会いに行き
誠心誠意で出来ることは全力でして、
心の整理も多少は出来たと思う。
これが何の前触れもなく事故とか急だったら
心残りばかりだっただろうと思う。
亡くなった母を見たらもう魂が抜けているのが
わかった。本当に砂漠にある枯れた樹のようで
母の顔ではなかったから。
母が選んだ人とは言え結婚して
苦労しかなかった母。
自営業で毎日朝から晩まで
一生懸命に働いていた母。
父は一度も一緒に病院には来ず。
介護もほぼせず。病気の母に
病気になっても母に怒ってばかり。
ほんと自己中で人じゃないと思った。
見たくない、聞きたくないは
わかるけれど、何も出来ないなら
手を握ったり嘘でも良いから優しい言葉を
かけてあげたりの思いやりは周りが
いくら言っても最期までなかった。
ちょっと隣に座って見といてと
言ってもその場を直ぐに離れたり。
リビングでテレビを見てばかりで
母の横で見れば良いのに母に
寄り付きもしなかった。
挙げ句喪主もしたくないと逃げて。
逃げてばっかりで家族はみんな呆れた。
人生を共にした人をボロ雑巾のように
使い捨て蔑ろにして。
母は最期までかわいそうだったなと。
人の死を何だと思っているのか。
最期の最期まであまりにも冷たくて
残酷な仕打ち。
だから私は父が亡くなっても何も
感情を抱かないと思う。
病気になって家族に見放されても
自業自得だと思う。
亡くなる母のそんな姿を見て
もし自分が病気になった時、
どうすれば良いか母の事を思い出し
心の準備もできるかなと。
色々学ばせてもらった。
病気になったり余命宣告をされたら
元気なうちにもう残りの人生振り切って
開き直るしかないと思った。
落ちるか上がるかは自分次第。
それを実行できるか出来ないかは
わからないけれど。
内容はどんどん書き換えていくにしろ
急に何も考えられなくなった時のために
エンディングノートがそろそろ必要かなと。
そう考えると母が亡くなる瞬間まで
見せてくれた母は偉大だなと思った。
医大に行くと待合室やら車椅子に
母と同じような年齢の人が座っているのを
みたり、ここで母と話したなぁとか
エントランスのところで兄嫁の車に乗せて
見送ったら母が毎回ありがとうって手を
振ってくれたなぁとか。
色々な事を思い出したらその時の事が
フラッシュバックして泣きそうになって
他事考えて涙を堪えて。
家に帰って思い出してはひとりで泣いて。
未だにすごく辛く悲しい
で、帰りに15時前に遅いランチ。
めちゃくちゃお腹空いたので
おいしい、おいしい!
二人で無言でガツガツ食べてw

友達がご馳走してくれた
付いていっただけなのに申し訳ない。
友達が心細くて不安だったらしく
一緒に行ってくれて心強かった
ありがとうって何回も感謝してくれる。
友達も私と同じ時期に両親を
次々に亡くして。独身でひとり暮らしで
毎日寂しいし不安いっぱいで生活していて。
その上、更年期障害やら自律神経やら
ふらつきやらの体調不良が1年以上続いていて。
一緒にランチに行ったり電話をかけたら
いつも喜んでくれるし。
私が出来る事はするし。
私もまたいつかお願いしなきゃいけないかもだし。
友達も病気を早く治していつか人の役に
たちたいって言ってて。
朝から大変だったけど
良い1日だったなぁ