磁力線
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ラクダとインパラ。

 ラクダとインパラ


 さっきね。ほら、前に話してた電車のイベント。洸太郎が行きたがってたアレ。明日なのに、行くのかどうなのかはっきりしてなかったから聞いてみたの。そしたら、言うことがイイのよ。あ?ああ、行こうよ。お昼?お弁当。つくって持っていくよ。ですって。私もう絶句しちゃったわ。それってつくるヒトのセリフじゃないの?7時半には出なきゃいけないって言うのに、いったい誰が早起きしてつくってくれるの?ね。もうあきれちゃうでしょ。
 Eの配偶者は、相変わらず迷走発言を繰り返しているようだ。正直、なぜもっと彼女を大事に思ってあげられないのか理解に苦しむ。だからこそ僕の存在意義がある、などとは考えたくもないが。そんなことを思いながら、軽い口調で僕も答える日付の替わった深夜のメール。
 笑っていい?っていうか、それって笑い話なの?「ふーん、そうなの。頑張ってね」って応えてあげたらよかったのに!
 そっか。そういう手もあるんだ。昨日の内に教えてくれなきゃ!もう、今からお米の準備よ、まったく。子供たちが前に言ってたんだけど、私を動物に例えたらリスとか鼠ですって!忙しくコチョコチョ動いてるからだそうです。失礼しちゃうわ(笑)。
 Eを動物に?液晶の画面を見つめながら、僕はしばし黙考。イメージを頭に描き、携帯の小さなボタンで固定化する。
 鹿系かなぁ。「インパラ」とか?可愛くて優しそうなんだけど、草原で生き抜くだけあって、足が速くて、ちゃんとタフなの。
 インパラ!それって良いの?悪いの?タフなんだかどうだか。弱くてすぐにいじけて泣くのにね!
 いじけて泣いても、ちゃんと立ち直れる。動物園にいるヤツとはワケが違うよ(笑)。
 なんか変な誉め方。あんまり嬉しくない!っていじけるぞ!
 ゴメンゴメン。ちっとも悪い意味じゃないんだよ。たおやかそうなのに芯は強い、ていうか、優しくて弱々しい印象でもちゃんとしたたか、だとか。あー、ヤバイ。全然良いイメージで伝わらない(笑)。話し変えよう。で、僕は何か、っていうと…。なんだろう?
 なんか誤魔化された感じ(笑)。まあいいわ。***はね。えーっと。
 えーっと、何?

 ラクダ。


 携帯を片手に思わず噴出してしまう。らくだぁ?砂漠をぱっこぱっこ歩く、アレかぁ?!
 ラクダねぇ。で、どっちね?ヒトコブ?フタコブ?
 今度は彼女が笑う番だ。回線の向こう、家族が寝静まった深夜のリビングで、Eが声を殺して笑ってる姿が浮かぶ。約2分のインターバルを置いて、僕の携帯が振動を始めた。


 もちろん、フタコブよ!

黄金週間。

逢えない日々が続く。もう8日目。

春休みもそうだったが、あのときは子供たちが家にいるという理由だった。でも今回は。

Eの夫は10連休だという。最近バイクに乗り始めた。HONDAのスティード。納車のときに道の向かいから観た。彼女も来てたから。低いシートにまたがって嬉々として店員の説明を受ける彼。それを見守るE。なんでキミはそこに立ってるんだ?何を待ってるというのだ?まるでそれじゃ、恋人同士のように仲のいい夫婦じゃないか!

見なければ良かった、と思った。激しく動揺した。

2日の夕方、電話で話をした。「早くズボンに履き替えて。行くから」と言う彼の言葉に逆らえず、Eは彼女用のヘルメットを買いに連れ出されたらしい。

僕のバイクの他は、乗ったことも無いし乗りたくも無いと言ってたのに。

連休狭間の金曜日。今日は子供たちは学校でいない。朝からのメールにも返事は無い。彼の運転するバイクのタンデムシートにEは座っているのだろうか?


だんだんイヤなヤツになりそうだ。

春のデート。

ターミナルの駅ビルの花屋に注文していた花束を手に、僕はホームに立っていた。先日の福知山線での惨事が頭によぎり、立ち位置を目標よりもだいぶ後ろの5両目に移す。大丈夫。焦らなくても待ち合わせには充分間に合う。
目的の駅、改札正面に立つ柱の影で待つ僕は、時間丁度に階段を下りてくるEを見つける。白いスプリングコートの内側は、ピンク色の、たぶん半袖のニットTシャツと淡い柄をしつらえた薄い生地の膝丈のスカート。ストッキングに包まれた綺麗な脚の先には落ち着いた形のハイヒール。彼女はいつもと同様、婦人雑誌の表紙のようだ。
僕を見つける前にEの左の肘をそっと掴む。ちょっとだけ驚いた顔に、花束を差し出しながら僕は言う。誕生日、おめでとう。笑顔がこぼれた。

朝の風景

今朝は少し元気が無いの。という恋人からの携帯メールに、そのとき電車の中で読んでいた本の中からEDWINというジーンズの、ブランド名発祥の秘密を転載して返信した。ほどなく彼女からメールが届く。
「ヘーヘーヘーヘーヘーヘー。6ヘィです。まだ足りない。」
オフィスに着くまであと6分。次は何を書けばいいのだろうか。

アンダーグラウンド。

「お食事会が終わりました。今から電車に乗ってそちらの駅まで向かいます。」
 13:30。左の胸ポケットに入った携帯電話の振動が、メールの到着を知らせてくれた。待ちかねていたEからの連絡。デスクトップに開いたいくつかのウィンドウを整理すると、適当な封筒と上着を掴んで僕は席を立った。ホワイトボードには、「西口 15:00帰社」と殴り書き。いそいでエレベータを呼び出す。なかなかドアが開かない、もどかしい気持ち。
 小走りでエントランスを抜けながら、返信のメールを打つ。お疲れ様、歩道橋で待ってる。送信。どこか知らない遠くを経由して、Eのダウンの右ポケットを震わせてるはず。
 片側4車線の街道をまたいだ歩道橋までは、走って3分。ゆるい階段を駆け上がると、向こう岸から近づいてくる人影が見えてくる。高性能な僕らの目なら、互いを見間違うことは無い。開いた左手を少しだけ挙げるE。お返しに、僕も右手を上げた。彼女より少し高めに。
「早かったわね。汗かいてる」そうねぎらう彼女の腰に、僕は軽く手を廻す。同じ高さで繋がった百貨店の人気の少ない入り口を横目で見ながら、彼女のやってきた駅の方へと僕らは歩道橋を渡った。春一番の陽光は頭上の高速道路や高層ビルにはばまれ、僕らの足元に届かない。
「あのあと何人かのお母さん方がこっちの方に出てくるって言って私も誘われたんだけど、お断りしちゃった。おんなじ電車に乗ってたみたいなのにね」もしかして、逢っちゃうんじゃない?僕のセリフに、Eが悪戯っぽい笑顔で答える。
 駅から2分ほど離れたドトールは、今日も八分の入り。
「それほど便利がいい訳でもないのに、なんでいっつも混んでるのかしら?」僕たちみたいなのがいっぱいいるんじゃないの?軽くじゃれあいながら、僕らはいつものように、ブレンドのMサイズをふたつ注文する。
 地下の禁煙ルームの中央、10人くらいが座れる大きめのテーブルの一角に並んで腰掛けた。ここが、このところの僕らの指定席。左側に座るEの前に、僕がコーヒーをサーブする。
「そのお母さんたちがね、私のこと宇宙に行けちゃうって言うの。ね、なんのことだかわからないでしょ」彼女の話は、大抵いつも楽しげだ。どういうことなの?僕が振る。
「いっつも4時間くらいしか寝てないでしょ。でね、そのお母さんは、今日も8時間ぐっすり寝てきたから頭がスッキリしてますってね。それで、私」そんなに寝たら調子狂っちゃう、だろ。「そうなの。8時間寝たら、私ゼッタイ薬飲んじゃいます、頭痛薬。「あとね、その方も他に2年生のお子さんが居るらしいんだけど、年子だから二人目が生まれたばっかり頃はたいへんでたいへんで、なんてお話から、なぜか私の出産の時期の話になっちゃって。ホラ、ふたりとも向こうで産んだから誰にも見てもらえないじゃない。もうひとりのひとはなんにもしてくれないし。だからね。産んだ翌日にも、2ガロンだから7キロか、とにかくそんな荷物を両手に一つずつ持って3階の部屋まで運んでましたよって。「そんなハナシしてたら、いつの間にか、Eさんみたいに、私なんにも出来ないんですって雰囲気の細ぉいたおやかそうなくせに実はスゴイ力持ちで何でも出来ちゃうスーパーなヒトが、宇宙行ったりするのよ、きっと。なんてことになっちゃっててね。もう、ワケわかんないわよね」
 Eの小さな膝の上でその右手をもてあそびつつ、僕はにこにこして彼女が話す食事会での話題を聴いている。くるくるとよく動く茶色がかった瞳と目元の周りの細かい年輪、そして子供のようにつるつるした頬の素敵な手触りを思い出しながら。

不可逆反応。

通勤電車を待つ列の最後尾に並ぶと、僕は胸ポケットから携帯電話を取り出しメールをチェックする。どうやらバスに揺られている間に1件届いたらしい。Eからだ。疑うべくも無い。新しい携帯にしてから約1ヶ月。この間に受発信した500件近くの書簡のうち9割以上がEとのやりとりなのだから。

「帰り路は自信を持って運転できました。ありがとう。返信しなくて、心配かけてごめんなさい。
今朝、お坊ちゃまくんを遅刻させそうになりました。あぁー危ないところ。寝不足を理由にできませんね・・・。
周りの人たちには迷惑をかけてはいけないのに。***は大丈夫?
でも、***に逢いたい、一秒でも長く一緒いたいと、どんどん気持ちが惹かれていく自分に驚いています。どうしよう!
***愛してます  」

能面の表情を保つのに苦労しつつ、携帯をたたんで満員電車に乗り込む。なんと返信すべきなのかを思案しながら、僕の頭の別の部分は、昨夜彼女の車の中で僕の耳元に囁いたEの言葉を思い出していた。私たち、逢っちゃいけなかったのかもしれない。
とめどなく繰り返される接吻の合間のひとコマ。それでも僕はひるんだりはしない。なぜならその問いは、僕の中で既に何十回と繰り返されてきた質問なのだから。
そうかもしれない。あの夏の終わり、キミが僕に電話してこなければ、9月の初め、僕がキミに逢おうと言い出さなければ、逢えない時間をこんなにも切なく感じることなど無かったに違いない。でも、僕らはもう逢ってしまった。僕らはもう半年前の僕らとは別のモノになってしまった。人生観も、倫理観も。だからそんな疑問は、12年前のことを後悔するのと同じくらいナンセンスなんだ、と。
僕らはもう、磁化してしまった鉄クギなのだから。

きみに読む物語

日曜日、朝のメールが届く。
彼女を残して家族は出掛けたという。どうやら前日にもまた、彼女と彼女の夫との間で深刻なコミュニケーション・ブレイクダウンが生じたらしい。

長女の最後の編入試験を済ませたのが昨日、娘がペーパーテストを受けている間、保護者たちが黙々と待つ教室で彼女もひとり本を読んで過ごす。大きな文字で平易に書かれたそのハードカヴァーを、彼女は娘の帰りを待つ数時間で読了した。タイトルは『きみに読む物語』。昨年末に日本版が出版されたニコラス・スパークスの処女作だ。
ハイティーン時代に本当の愛に満ちたひと夏を過ごしたふたりが、立場の違いを越えて14年後に再会し、再び恋に落ちた2日間を過ごす。そしてさらに50年後…。というラヴ・ストーリィ。想い出と言う亡霊と折り合いをつけながら悠々自適に過ごす男と社交界の令嬢として有能で毛並みの良い弁護士と婚約中の女。彼らによる現代のロミオ&ジュリエットである。
暖房もロクに入らない教室で、彼女がヒロインのアリーにシンパシィを感じたのは想像に難くない。仕事に没頭し、一番言って欲しい言葉を何一つ口にしてくれない婚約者は、自らの今の夫婦生活をそのまま当てはめたことだろう。アリーが決断を迫られたシーンは、彼女自身を13年前の決断の場に立ち返らせたに違いなう。
あなたに逢いたくなりました」土曜の午後、彼女はそうメールして寄越した。

その夜、彼女と家族の間にどのような確執が生じたのか、僕にはわからない。ただ、今朝着いたメールの結びのひとこと「今日一日が無事に過ごせますように」に、漠然とした不安が感じられたのだ。
だから夕方の彼女の落ち込みぶりイジケぶりは、ある意味想像は出来た。とにかくケアは必要だった。食材の買い物という口実で家を出た僕は、そのまま彼女の住む街に車を走らせた。信号待ちで素早くメールを打つ。「今向かってる」と。
ほんの1時間に満たない邂逅に、果たして彼女は何の意味を見出してくれるか。むしろ、共に居ることのできない現実を目の当たりにし、より一層深い谷に沈んでしまうのではないのだろうか。

長く重い暗雲の到来を、予感する。

夜の街へ。

「超能力者のEさんです。ボーナスで携帯とサンタさんにお願いするプレゼントを買いにカメラ屋さんへ行きましたね?携帯の色はシルバーかしら?
冗談はさておいて、21or22日〓しませんか?」

買い換えたばかりの新しい携帯電話に届いていたメールに気付いたのは、ふたご座流星から1週間近く経った夜、すっかり寝る準備を済ませベッドに入った直後だった。
「〓」ってなんだぁ!?隣で寝息を立てる娘、さらにはその向こうに並んで眠っているはずの妻や子たちに気取られないよう気をつけながら、僕は身じろぎもせず驚いた。キャリアの違う僕らの携帯電話では、メールでの絵文字が正しく変換されない。だがそのことは、以前ちゃんと説明しておいたはず。ということは今回の「〓」、Eの確信犯に違いない。
普通に考えれば「食事」のアイコンが入ってるのだろうが、誤解の余地があるのも彼女自身十二分に理解してる。つまりこれは遊び、なのだ。そういえば昔、付き合いが馴染んできた頃にも、Eはこんなような際どい言葉遊びを仕掛けてきたことがあったっけ。思うにこれは、安心の段階が上がったことへの彼女特有の甘えなのだろう。ここまでもたれかかってみせても、変わりなく自分を大事に扱ってもらえる。そういう全人的信頼感。困ったもんだ。
2時間ほど前に受けていたそのメールに、僕は布団の中から返信する。
「もしかして、見てた?ていうか、色は黒だけど。
21or22日〓するのはOKです。って、何しよっか?」
10分も待たず、右手の先に握った黒い塊が低周波で震えだした。
「〓って何?決ってるでしょう!〓よ!
ところでどうしてこんな時間に起きてるの?ダメじゃない」
暗闇の中、僕は笑いを噛み殺すのに必死になる。言葉の匂いが変わってきた。Eが僕に近づいているのが判る。羽織っていた淡い色使いのカーディガンを脱ぎ、思いのほか衿ぐりの深いカットソーから白い首筋が露わになった。そんな感じ。
未明のやりとりの後に決まった22日夕方からの逢瀬。再会後初めてのアルコールのある展開は、僕らに新しい局面を見せてくれるのだろうか。

ふたご座流星群の夜。3

完全な暗闇を前にして、僕らは少しひるむ。新月の翌日、しかも曇がちの午前1時過ぎは、カップルで市民の森に入っていくには少し不似合いな時間帯だったようだ。
「さすがにちょっと、怖くない?」おどけてはいるが、実際引き気味なのが感じられる。車を降りてほんの1分程度なのに、着込んだダウンの隙間から冷気が忍び込んでくる。ポケットから取り出した手袋の右手をEに渡しながら、僕はそれでも促してみる。
「眼を凝らせば、ちょっとは見えるね。2mくらいだけどさ」
ありがと、と答えるEが右手を手袋で包み込むのを待ってから、彼女の左手を確保する。星影もまばらな曇り空の下、そうして僕らは手を繋ぎ森の中へ入っていった。

「夫といるとね、なぜかわからないんだけど緊張するのよ。そのときにもっとちゃんと話すればいいんでしょうけど、お互いそのまんま、放っといちゃうのよ、そういうのを…
「不思議よねぇ。昔からの知り合いだから、再会したときも友達みたいでなんともなかったのに、結婚した途端よそよそしくなっちゃったみたい…」
暗闇の中、僕はEの独白めいた打ち明け話を聞きながら枯葉の積もる山道に歩を進める。右の掌に感じるぬくもり以外に、この世界にもはやリアルなものは失われてしまったのかもしれない。それでも、いいな。そんなことを考えながら、自動機械のように相槌だけを返していた。

唐突に広場に出た。といっても入り口から100mそこそこだろうか。夏にもなれば昼間はひっきりなしにハイカーが行き来するほどのメジャーな散策道だから、ポイントとなるエリアはかなりキチンと整備されている。頭上の木々の密度も心なしか疎らになり、隙間から雲の切れ間の星空が覘ける。
「あ、この辺からなら見えるかもしれない」Eがはしゃいだ声をあげる。必要以上に大きい声が闇に包まれた不安を感じさせたりもするが、この状況を楽しんでくれていることも間違いあるまい。連れ出してきてよかった、と思う。
会話のペースが少し落ち着いたところで、僕は見晴らしのいいスペースを見つけ、Eの腕を引き寄せた。空気の密度が変わり、かすかな緊張がふたりの間を走る。あとは肩を抱き寄せるだけ。僕の脳幹は左手を伸ばす指令を発した。
その刹那、背後から場違いな声。全ての緊張と視線が後ろの東屋に集中する。と、そこのテーブル上に、光るふたつの青白い星があった。猫だ。どうやらそこは、彼(彼女?)の寝床だったようだ。星降る夜空もなんのその、底冷えする冬の夜をいつものようにぬくぬくとまるまってやり過ごそうとしていたところに、怪しげなで間抜けそうな闖入者約2名が現れてしまったという訳だ。
喉を鳴らして唸る彼(もしくは彼女)に向かい、僕は小さな声でごめんなさいを言い、Eの手を引いてその場から離れた。僕の気勢は、もう完全に殺がれてしまった。

「結局、ひとっつも見えなかったね」
指先が触れ合うくらいの間をあけて並んで歩きながら、Eはそう言った。今夜、彼女はやたらと明るい。やっぱり、予防線ってあるんだよな、当たり前だけど。胸の中だけで僕はつぶやく。そういう意味で、僕らの関係は、あの頃からこれっぽっちも進歩してないってことか。らしいって言えば、これほど「らしい」こともない。僕も。彼女も。

帰りの車中、それでも遠回りの悪あがきをする僕を相手にEは、徹頭徹尾、明朗に振舞った。もちろん僕だって、乗車の際のドアマンくらいはやってみせる余裕は見せたが、彼女の乗りは張るかに上手をいっていた。いつもより5割増の身振りを加え、時折髪をかき上げて、端々に昔の思い出を織り交ぜながら。
Eの子供たちが眠るマンションの前に辿り着いたのは3時前だった。15年前の僕らの夜間ドライブに比べれば随分と早いけれど、平日の、しかもお互い家庭のある身としては、こんなもんがいいところだろう。
「誘ってくれて、ありがとう。ホント、楽しかった」助手席のドアを開けてEは、この時間に似つかわしくない笑顔で言った。こちらこそ。僕は答え、ハンドルから離した左手を彼女の方に伸ばす。Eの右手の指先と一瞬、触れた。
走り出す車の運転手に向かって、Eは胸の辺りで小さく手を振った。助手席には、さっき寒風から彼女の右手を守ってくれた手袋が置いてある。僕は車から降りて、Eを抱きしめるべきだったんだろうか?
そういえば結局、彼女はダウンジャケットを脱がなかったな。

ふたご座流星群の夜。2

助手席の窓をトントンと叩く音がした。真っ黒いダウンを着込んだEがガラス越しに顔をのぞかせている。もちろん、気付いていた。向こうを歩いてくるところから、ずっと。
「入ってもいいですかぁ」
僕はにっこり笑って、左手で歓待を示す。しなやかな獣のように、彼女はするりと助手席に収まった。それでも小規模の寒風は車内に滑り込む。
こんばんは、と笑いかける僕にEは、「昔は外からドア開けてくれたのにねぇ」と、これぽっちも批難してるようには見えない笑顔で応じた。
だって外、寒いじゃん。そ知らぬ顔で答える僕。暖気の効いた車内は、彼女と共に侵入してきた冷気の塊などすぐに無力化し、まるでこの心地良い空間がずっとずっと前から僕らだけのために存在し続けていた錯覚さえ感じさせてくれる。何度も何度でも憶えのある、この感覚。深夜の住宅地、車はゆっくりと走り出した。

「ホントに、知らないんだから」
この話題はこれで最後、とでも言うように明るく言い放つとEは、間を置かず、僕のメールが届いたときにいかにびっくりしたかということを勢い込んで話し始めた。
「…ちょうどお風呂から上がったところだったのよ。そしたら美奈子が、あ、娘ね。お母さんメールが来たよ、ってにやにやしながら携帯もってくるじゃない。もう、見せてもらえるつもりで、誰から誰から?って。あんな時間に出張先からメールしてくるはずないし、今ちょっと忙しいからあとでね、って。たいへんだったのよ、ホントに」
対向車もまばらな夜の国道を走る車内で、Eは10年、いやもっと以前の、僕らが一番うまくいっていた頃のまま、実に楽しげに話し続ける。僕はそれこそあの頃と同じように、ところどころで冗談交じりの合いの手を入れてやればいいだけだった。
「…だから、おっかしいのあの子。なんかね。普通じゃないものが見えちゃったりするんだって。違うのよ、ホントなのよ。でね、美奈子ちゃんそれってお休みしてるときのことなの?って聞くとね、ううん、起きてるとき、って、それはもうちゃあんと答えるの。ね、ヘンでしょ?」
彼女の饒舌は僕らの車がTV塔の前に着くまで、留まることなく続いていた。まるで何かの空白を埋めるように。まるで空白に何か別のものが入り込むのを恐れるように。