ふたご座流星群の夜。3
完全な暗闇を前にして、僕らは少しひるむ。新月の翌日、しかも曇がちの午前1時過ぎは、カップルで市民の森に入っていくには少し不似合いな時間帯だったようだ。
「さすがにちょっと、怖くない?」おどけてはいるが、実際引き気味なのが感じられる。車を降りてほんの1分程度なのに、着込んだダウンの隙間から冷気が忍び込んでくる。ポケットから取り出した手袋の右手をEに渡しながら、僕はそれでも促してみる。
「眼を凝らせば、ちょっとは見えるね。2mくらいだけどさ」
ありがと、と答えるEが右手を手袋で包み込むのを待ってから、彼女の左手を確保する。星影もまばらな曇り空の下、そうして僕らは手を繋ぎ森の中へ入っていった。
「夫といるとね、なぜかわからないんだけど緊張するのよ。そのときにもっとちゃんと話すればいいんでしょうけど、お互いそのまんま、放っといちゃうのよ、そういうのを…
「不思議よねぇ。昔からの知り合いだから、再会したときも友達みたいでなんともなかったのに、結婚した途端よそよそしくなっちゃったみたい…」
暗闇の中、僕はEの独白めいた打ち明け話を聞きながら枯葉の積もる山道に歩を進める。右の掌に感じるぬくもり以外に、この世界にもはやリアルなものは失われてしまったのかもしれない。それでも、いいな。そんなことを考えながら、自動機械のように相槌だけを返していた。
唐突に広場に出た。といっても入り口から100mそこそこだろうか。夏にもなれば昼間はひっきりなしにハイカーが行き来するほどのメジャーな散策道だから、ポイントとなるエリアはかなりキチンと整備されている。頭上の木々の密度も心なしか疎らになり、隙間から雲の切れ間の星空が覘ける。
「あ、この辺からなら見えるかもしれない」Eがはしゃいだ声をあげる。必要以上に大きい声が闇に包まれた不安を感じさせたりもするが、この状況を楽しんでくれていることも間違いあるまい。連れ出してきてよかった、と思う。
会話のペースが少し落ち着いたところで、僕は見晴らしのいいスペースを見つけ、Eの腕を引き寄せた。空気の密度が変わり、かすかな緊張がふたりの間を走る。あとは肩を抱き寄せるだけ。僕の脳幹は左手を伸ばす指令を発した。
その刹那、背後から場違いな声。全ての緊張と視線が後ろの東屋に集中する。と、そこのテーブル上に、光るふたつの青白い星があった。猫だ。どうやらそこは、彼(彼女?)の寝床だったようだ。星降る夜空もなんのその、底冷えする冬の夜をいつものようにぬくぬくとまるまってやり過ごそうとしていたところに、怪しげなで間抜けそうな闖入者約2名が現れてしまったという訳だ。
喉を鳴らして唸る彼(もしくは彼女)に向かい、僕は小さな声でごめんなさいを言い、Eの手を引いてその場から離れた。僕の気勢は、もう完全に殺がれてしまった。
「結局、ひとっつも見えなかったね」
指先が触れ合うくらいの間をあけて並んで歩きながら、Eはそう言った。今夜、彼女はやたらと明るい。やっぱり、予防線ってあるんだよな、当たり前だけど。胸の中だけで僕はつぶやく。そういう意味で、僕らの関係は、あの頃からこれっぽっちも進歩してないってことか。らしいって言えば、これほど「らしい」こともない。僕も。彼女も。
帰りの車中、それでも遠回りの悪あがきをする僕を相手にEは、徹頭徹尾、明朗に振舞った。もちろん僕だって、乗車の際のドアマンくらいはやってみせる余裕は見せたが、彼女の乗りは張るかに上手をいっていた。いつもより5割増の身振りを加え、時折髪をかき上げて、端々に昔の思い出を織り交ぜながら。
Eの子供たちが眠るマンションの前に辿り着いたのは3時前だった。15年前の僕らの夜間ドライブに比べれば随分と早いけれど、平日の、しかもお互い家庭のある身としては、こんなもんがいいところだろう。
「誘ってくれて、ありがとう。ホント、楽しかった」助手席のドアを開けてEは、この時間に似つかわしくない笑顔で言った。こちらこそ。僕は答え、ハンドルから離した左手を彼女の方に伸ばす。Eの右手の指先と一瞬、触れた。
走り出す車の運転手に向かって、Eは胸の辺りで小さく手を振った。助手席には、さっき寒風から彼女の右手を守ってくれた手袋が置いてある。僕は車から降りて、Eを抱きしめるべきだったんだろうか?
そういえば結局、彼女はダウンジャケットを脱がなかったな。
「さすがにちょっと、怖くない?」おどけてはいるが、実際引き気味なのが感じられる。車を降りてほんの1分程度なのに、着込んだダウンの隙間から冷気が忍び込んでくる。ポケットから取り出した手袋の右手をEに渡しながら、僕はそれでも促してみる。
「眼を凝らせば、ちょっとは見えるね。2mくらいだけどさ」
ありがと、と答えるEが右手を手袋で包み込むのを待ってから、彼女の左手を確保する。星影もまばらな曇り空の下、そうして僕らは手を繋ぎ森の中へ入っていった。
「夫といるとね、なぜかわからないんだけど緊張するのよ。そのときにもっとちゃんと話すればいいんでしょうけど、お互いそのまんま、放っといちゃうのよ、そういうのを…
「不思議よねぇ。昔からの知り合いだから、再会したときも友達みたいでなんともなかったのに、結婚した途端よそよそしくなっちゃったみたい…」
暗闇の中、僕はEの独白めいた打ち明け話を聞きながら枯葉の積もる山道に歩を進める。右の掌に感じるぬくもり以外に、この世界にもはやリアルなものは失われてしまったのかもしれない。それでも、いいな。そんなことを考えながら、自動機械のように相槌だけを返していた。
唐突に広場に出た。といっても入り口から100mそこそこだろうか。夏にもなれば昼間はひっきりなしにハイカーが行き来するほどのメジャーな散策道だから、ポイントとなるエリアはかなりキチンと整備されている。頭上の木々の密度も心なしか疎らになり、隙間から雲の切れ間の星空が覘ける。
「あ、この辺からなら見えるかもしれない」Eがはしゃいだ声をあげる。必要以上に大きい声が闇に包まれた不安を感じさせたりもするが、この状況を楽しんでくれていることも間違いあるまい。連れ出してきてよかった、と思う。
会話のペースが少し落ち着いたところで、僕は見晴らしのいいスペースを見つけ、Eの腕を引き寄せた。空気の密度が変わり、かすかな緊張がふたりの間を走る。あとは肩を抱き寄せるだけ。僕の脳幹は左手を伸ばす指令を発した。
その刹那、背後から場違いな声。全ての緊張と視線が後ろの東屋に集中する。と、そこのテーブル上に、光るふたつの青白い星があった。猫だ。どうやらそこは、彼(彼女?)の寝床だったようだ。星降る夜空もなんのその、底冷えする冬の夜をいつものようにぬくぬくとまるまってやり過ごそうとしていたところに、怪しげなで間抜けそうな闖入者約2名が現れてしまったという訳だ。
喉を鳴らして唸る彼(もしくは彼女)に向かい、僕は小さな声でごめんなさいを言い、Eの手を引いてその場から離れた。僕の気勢は、もう完全に殺がれてしまった。
「結局、ひとっつも見えなかったね」
指先が触れ合うくらいの間をあけて並んで歩きながら、Eはそう言った。今夜、彼女はやたらと明るい。やっぱり、予防線ってあるんだよな、当たり前だけど。胸の中だけで僕はつぶやく。そういう意味で、僕らの関係は、あの頃からこれっぽっちも進歩してないってことか。らしいって言えば、これほど「らしい」こともない。僕も。彼女も。
帰りの車中、それでも遠回りの悪あがきをする僕を相手にEは、徹頭徹尾、明朗に振舞った。もちろん僕だって、乗車の際のドアマンくらいはやってみせる余裕は見せたが、彼女の乗りは張るかに上手をいっていた。いつもより5割増の身振りを加え、時折髪をかき上げて、端々に昔の思い出を織り交ぜながら。
Eの子供たちが眠るマンションの前に辿り着いたのは3時前だった。15年前の僕らの夜間ドライブに比べれば随分と早いけれど、平日の、しかもお互い家庭のある身としては、こんなもんがいいところだろう。
「誘ってくれて、ありがとう。ホント、楽しかった」助手席のドアを開けてEは、この時間に似つかわしくない笑顔で言った。こちらこそ。僕は答え、ハンドルから離した左手を彼女の方に伸ばす。Eの右手の指先と一瞬、触れた。
走り出す車の運転手に向かって、Eは胸の辺りで小さく手を振った。助手席には、さっき寒風から彼女の右手を守ってくれた手袋が置いてある。僕は車から降りて、Eを抱きしめるべきだったんだろうか?
そういえば結局、彼女はダウンジャケットを脱がなかったな。