ふたご座流星群の夜。
「今夜、星見に行かない?」
誰が見ているわけでもない『あいのり』が流れているリビングのソファ、ようやく動きが緩くなった娘を膝に乗せながら僕は右手でメールを打った。
天体の年末行事であるふたご座流星群の活動は、今夜がピークらしい。夕方は曇がちだった空も少し前から切れ間が見えてきたようだし、もし30分以内に返事が来なかったら独りででも見に行こう。でもその前に、コイツを寝かしつけなきゃ。
そう思っていたら掌で振動が始まった。
「えぇ!?うそでしょ?」
抱きかかえる娘の背中越しで、即座に「ホント。」と返信する。肩の上で小さな頭が向きを替えた。
「何時に何処!?やっぱりうそでしょ?」
「25:00にTV塔の下、なんてのは?もちろん、迎えに行くんでもいいけど。」
「車で行くのは大丈夫だけど、本当に大丈夫なの?」
「ご心配なく。やっぱり、迎えに行くよ。たぶん25時前くらいに。着いたらメールする。それでいい?」
「寝不足で会社に遅刻したとか、家族から白い目で見られたとかは、ご褒美どころか一切の責任はお取りできませんが、それでもよろしければお待ちしております。」
あははは。了解。先刻承知だよ。僕は最後の安全装置を外す。あとは時限装置が冷徹な音を刻むだけ。左肩にのしかかる重みは僕の耳を小さな指でつまんだまま、寝息を立てている。錨は上がった。
メールでのほんの数分のやりとりで、僕らは今まで思いもよらなかった展開を始めようとしていた。
誰が見ているわけでもない『あいのり』が流れているリビングのソファ、ようやく動きが緩くなった娘を膝に乗せながら僕は右手でメールを打った。
天体の年末行事であるふたご座流星群の活動は、今夜がピークらしい。夕方は曇がちだった空も少し前から切れ間が見えてきたようだし、もし30分以内に返事が来なかったら独りででも見に行こう。でもその前に、コイツを寝かしつけなきゃ。
そう思っていたら掌で振動が始まった。
「えぇ!?うそでしょ?」
抱きかかえる娘の背中越しで、即座に「ホント。」と返信する。肩の上で小さな頭が向きを替えた。
「何時に何処!?やっぱりうそでしょ?」
「25:00にTV塔の下、なんてのは?もちろん、迎えに行くんでもいいけど。」
「車で行くのは大丈夫だけど、本当に大丈夫なの?」
「ご心配なく。やっぱり、迎えに行くよ。たぶん25時前くらいに。着いたらメールする。それでいい?」
「寝不足で会社に遅刻したとか、家族から白い目で見られたとかは、ご褒美どころか一切の責任はお取りできませんが、それでもよろしければお待ちしております。」
あははは。了解。先刻承知だよ。僕は最後の安全装置を外す。あとは時限装置が冷徹な音を刻むだけ。左肩にのしかかる重みは僕の耳を小さな指でつまんだまま、寝息を立てている。錨は上がった。
メールでのほんの数分のやりとりで、僕らは今まで思いもよらなかった展開を始めようとしていた。
告白、あるいは独りよがりの夜。
昼間の熱気がかすかに残る夕闇の中、Eと僕は、ただぼんやりと時折上がる音の無い花火を見つめていた。いつもは能弁な僕が黙り込んでいるのを、何も彼女が感じない筈は無い。それでも二人は動かない。静寂と緊張。
何分経ったのだろうか。いや、何十分かもしれない。Eはおもむろに後ろに倒れこむと芝生に仰向けになった。
「ああ、いい気持ち。今日は楽しかったね」
これ以上なくリラックスしてるという表情でEはそう言って、僕の目を見つめた。彼女の目が僕に、ほら、今だよ。と言ってるように聴こえる。風が、空気が、動きを止めた、気がした。
ずっと前からね、気になってたんだ、いや、気になってた、なんてレベルじゃないな、でね、この前、すっごい久しぶりにあの店で一緒に過ごして、いろんな話をして、今日、一緒にバイクに乗って、僕の好きなものを知ってもらって、感じてもらって、もうね、僕にとって、今の僕にとって、これ以上はないなって思うんだ、Eさんのこと、好きです、僕と、付き合ってもらいたい。
何度も息継ぎしながら、まっすぐにEを見つめて僕は想いを白状した。夜の薄闇の中、彼女の瞳はあのとき何を映していたのだろうか。
何分経ったのだろうか。いや、何十分かもしれない。Eはおもむろに後ろに倒れこむと芝生に仰向けになった。
「ああ、いい気持ち。今日は楽しかったね」
これ以上なくリラックスしてるという表情でEはそう言って、僕の目を見つめた。彼女の目が僕に、ほら、今だよ。と言ってるように聴こえる。風が、空気が、動きを止めた、気がした。
ずっと前からね、気になってたんだ、いや、気になってた、なんてレベルじゃないな、でね、この前、すっごい久しぶりにあの店で一緒に過ごして、いろんな話をして、今日、一緒にバイクに乗って、僕の好きなものを知ってもらって、感じてもらって、もうね、僕にとって、今の僕にとって、これ以上はないなって思うんだ、Eさんのこと、好きです、僕と、付き合ってもらいたい。
何度も息継ぎしながら、まっすぐにEを見つめて僕は想いを白状した。夜の薄闇の中、彼女の瞳はあのとき何を映していたのだろうか。
彼女の丘。
東京湾を挟んだ遠望の山渓に夕陽が沈むころ、僕らはフェリーの甲板に並んで内海を眺めていた。オートバイの感想を聞きたくてうずうずしていたのが正直なところ。だが、そんなことはおくびにも出さず、海運関連の会社に勤めるEの話の聞き役に廻っている。
「…社長の奥様というのが、またすごく素敵なヒトなのよ。お正月にご挨拶にお伺いしたら、あらEさんお召し物がお似合いね、なんて褒めてくれたりしたあとに、でも帯はこうするともっと良く映えるようになるわよ、って言うと私の後ろに廻ってするするって直しちゃうの。もうびっくりしちゃって…」
就職してから3ヶ月、横柄な顧客と不遜なデザイナー、こま鼠のような印刷会社や製版会社の営業サン、それらの人々に囲まれて過ごした短い経験の中には、手すりにもたれて楽しそうに彼女が語る社長秘書の世界は、まったくもって接点が無かった。、
たった40分間のクルージング。この間になんとか抱きしめることが出来ないかと画策していた自分が、ひどく卑小に見えてくる。Eの茶色がかった長い髪が風になぶられる様を見ながら、改めて僕はステージの違いを思い知らされていた。
久里浜に着いたとき、空はもう夕闇が勝っていた。徐行で下船しながら僕は、気持ちを切り替える必要を強く感じていた。それでも今の自分にはオートバイがあるし、このあとの大して長くない時間でもその素晴らしさを教えてあげることはできる、と。
とっぷりと暮れた初夏の宵のくち、二人を乗せたオートバイは埋め立てられてできた海浜公園に差し掛かっている。ここを抜ければ彼女の家までは目と鼻の先だ。目算もなしに、ただ時間を伸ばすことができたらなんとかなると思ったのか、僕は海沿いに向かう脇道に入っていった。
公園の端には芝生で覆われた小高い丘がある。海側の斜面の向こうにはヘリポートがオレンジ色の灯に照らされている。丘の一番上辺り、Eと僕は芝生に腰を下ろした。東京湾の向こうの方に、小さく花火が上がった。音は、聴こえない。
ディズニーランドだ、とE。
そうか。ここからだと浦安まで遮蔽物無しなのか。そんなどうでもいいことを思いながら、僕は今日一日の反芻と、このあとしようとしていることの確認をする。早期決着。それがここ数日、今日のツーリングの間中考えて出た答えだった。自分の意思を、ステディな関係になりたいという気持ちをきちんと伝えること。今日中に。ここで。
「…社長の奥様というのが、またすごく素敵なヒトなのよ。お正月にご挨拶にお伺いしたら、あらEさんお召し物がお似合いね、なんて褒めてくれたりしたあとに、でも帯はこうするともっと良く映えるようになるわよ、って言うと私の後ろに廻ってするするって直しちゃうの。もうびっくりしちゃって…」
就職してから3ヶ月、横柄な顧客と不遜なデザイナー、こま鼠のような印刷会社や製版会社の営業サン、それらの人々に囲まれて過ごした短い経験の中には、手すりにもたれて楽しそうに彼女が語る社長秘書の世界は、まったくもって接点が無かった。、
たった40分間のクルージング。この間になんとか抱きしめることが出来ないかと画策していた自分が、ひどく卑小に見えてくる。Eの茶色がかった長い髪が風になぶられる様を見ながら、改めて僕はステージの違いを思い知らされていた。
久里浜に着いたとき、空はもう夕闇が勝っていた。徐行で下船しながら僕は、気持ちを切り替える必要を強く感じていた。それでも今の自分にはオートバイがあるし、このあとの大して長くない時間でもその素晴らしさを教えてあげることはできる、と。
とっぷりと暮れた初夏の宵のくち、二人を乗せたオートバイは埋め立てられてできた海浜公園に差し掛かっている。ここを抜ければ彼女の家までは目と鼻の先だ。目算もなしに、ただ時間を伸ばすことができたらなんとかなると思ったのか、僕は海沿いに向かう脇道に入っていった。
公園の端には芝生で覆われた小高い丘がある。海側の斜面の向こうにはヘリポートがオレンジ色の灯に照らされている。丘の一番上辺り、Eと僕は芝生に腰を下ろした。東京湾の向こうの方に、小さく花火が上がった。音は、聴こえない。
ディズニーランドだ、とE。
そうか。ここからだと浦安まで遮蔽物無しなのか。そんなどうでもいいことを思いながら、僕は今日一日の反芻と、このあとしようとしていることの確認をする。早期決着。それがここ数日、今日のツーリングの間中考えて出た答えだった。自分の意思を、ステディな関係になりたいという気持ちをきちんと伝えること。今日中に。ここで。
彼のオートバイ。
JAZZバーの一夜から2週間ほど経った日曜の朝、僕らの乗ったオートバイは東京湾沿いに伸びる国道を時計回りに走っていた。もうじき訪れる熱い夏を予感させる陽射しが、サングラスの隙間から右眼にまぶしい。
あの夜、僕はなんども、オートバイの素晴らしさとそこでしか感じられない風の肌合いを、そして今の自分がいかにそれらと不可分であるかをEに語った。その感覚を是非味あわせてあげたい、とも。彼女はミネラルウォーターで薄めたバーボンを口に含みながら、若造の暑苦しい語りに相槌さえ打ってくれていた。
でもだからといって、まさか、こんなにもあっさり快諾してくれるなんて夢にも思わなかった。翌週にかけたお礼の電話の際に僕が提案したツーリングの誘いを、はたしてEは、拍子抜けするくらいあっさりと了承してくれたのだ。それからの数日間、普段は乗りっ放しの僕が愛車のタイヤの空気圧を調整やオイルをチェックしたうえに、隅々まで磨き上げたことは言うまでもない。
「千葉に行こう。きっと気持ちいいよ。そして帰りにはフェリーに乗るんだ」
マンションの玄関口で色違いの赤いヘルメット手渡しながら僕が計画を簡潔に伝えた。
東京湾一周ね。楽しそう。薄いブルゾンを羽織った彼女が笑顔でそれに答える。黒く傷だらけのヘルメットをかぶりサングラスを装着すると、僕はキックスターターを蹴り下ろした。
カワサキZ400LTD。その時点ですでに10年選手になっていた4ストローク2気筒のアメリカンバイクは、僕と彼女を乗せて、初夏の房総半島を軽快に走っていった。
「思ったよりずっとラクなのね。オートバイってもっとちゃんとしがみつかなきゃいけないのかって思ってた」
背もたれが付いてるからね。風に負けないように大声で、僕は答える。2年前に付けたオプションは、ここでも大いに役に立ってる。己の先見に、若造はほんの少しだけほくそえんだ。
タンデムツーリングに会話は要らない。もっと正確に言うなら、デリケートな会話は成立しないのだ。ただひたすら、同じ風を受け、同じ陽射しの、同じ影の中を移動し続ける。時折廻されるEの両手が唯一の物理的接点。だがそれ以上に、外界とはまったく隔絶された二人だけの共有空間が、コミュニケーションから無駄な要素を剥ぎ取って、よりシンプルなものへと昇華させてくれる。二人だけが乗った外宇宙へのロケットみたいだ。ライダーズ・ハイでぼうっとしたアタマが、そんなことを考える。
爽やかな風を切り裂きながら、そうして僕らのオートバイは緩やかな林道を登っていった。
あの夜、僕はなんども、オートバイの素晴らしさとそこでしか感じられない風の肌合いを、そして今の自分がいかにそれらと不可分であるかをEに語った。その感覚を是非味あわせてあげたい、とも。彼女はミネラルウォーターで薄めたバーボンを口に含みながら、若造の暑苦しい語りに相槌さえ打ってくれていた。
でもだからといって、まさか、こんなにもあっさり快諾してくれるなんて夢にも思わなかった。翌週にかけたお礼の電話の際に僕が提案したツーリングの誘いを、はたしてEは、拍子抜けするくらいあっさりと了承してくれたのだ。それからの数日間、普段は乗りっ放しの僕が愛車のタイヤの空気圧を調整やオイルをチェックしたうえに、隅々まで磨き上げたことは言うまでもない。
「千葉に行こう。きっと気持ちいいよ。そして帰りにはフェリーに乗るんだ」
マンションの玄関口で色違いの赤いヘルメット手渡しながら僕が計画を簡潔に伝えた。
東京湾一周ね。楽しそう。薄いブルゾンを羽織った彼女が笑顔でそれに答える。黒く傷だらけのヘルメットをかぶりサングラスを装着すると、僕はキックスターターを蹴り下ろした。
カワサキZ400LTD。その時点ですでに10年選手になっていた4ストローク2気筒のアメリカンバイクは、僕と彼女を乗せて、初夏の房総半島を軽快に走っていった。
「思ったよりずっとラクなのね。オートバイってもっとちゃんとしがみつかなきゃいけないのかって思ってた」
背もたれが付いてるからね。風に負けないように大声で、僕は答える。2年前に付けたオプションは、ここでも大いに役に立ってる。己の先見に、若造はほんの少しだけほくそえんだ。
タンデムツーリングに会話は要らない。もっと正確に言うなら、デリケートな会話は成立しないのだ。ただひたすら、同じ風を受け、同じ陽射しの、同じ影の中を移動し続ける。時折廻されるEの両手が唯一の物理的接点。だがそれ以上に、外界とはまったく隔絶された二人だけの共有空間が、コミュニケーションから無駄な要素を剥ぎ取って、よりシンプルなものへと昇華させてくれる。二人だけが乗った外宇宙へのロケットみたいだ。ライダーズ・ハイでぼうっとしたアタマが、そんなことを考える。
爽やかな風を切り裂きながら、そうして僕らのオートバイは緩やかな林道を登っていった。
help me.
「どぉつながるのかなぁ、コレ」
5歳の幼稚園児が棚の前で合体ロボットの部品を手にしながら唸っている横で、2歳になる娘は宣伝用に置いてある小型のTVに見入っている。平日の午前中、まだ客足は少ない衛星都市の駅前百貨店玩具売り場。
息子と一緒になって商品のパッケージを見ながら合体具合を検討していると、背後に気配がした。いつ来たのか、僕らのすぐ斜め後ろに黒いコートに包まれたEが、にこにこしながらしゃがんでいる。子供たちは無論気付いていない。僕と目を合わせた彼女は唇に人差し指を立てて、声を出さずに微笑んだ。
所要で出掛ける妻の代わりに仕事を休んで一日子供たちと一緒に過ごすことは、だいぶ前から決まっていた。普段は中途半端な時間しか会うことが出来ないから、せっかくのこのタイミングに近場のドライブでも、と午前中のデートを誘ったのだ。2歳児だけなら同行しても問題あるまいと。だから、前の週末にあったお遊戯発表会の振替で幼稚園が休みになるというのはちょっとした、いや、かなりの計算外だった。取り止めるかどうするか、決行するとしたらどこへ行けばいいのか。出掛ける直前まで大いに悩んだのだが…。
「男の子のオモチャ、好きなのね、やっぱり」戦隊モノのビデオ映像に完全に意識を奪われている娘を見ながら、僕にだけ聞こえるちいさな声でEはそう言った。なんだかねぇ。まるで店員さんに話しかけてるような口調で僕も答える。
「さっきからずっと見てたんだけど、どっち似なのかな?お兄ちゃんの方がパパ似?」
そうね。そう言われることは、結構あるかも。苦笑する僕。何かを察したのか、息子が彼女に視線をやった。自分の知らない社会の関係性に思考が追いついていないようだ。口数が減る。娘の方はといえば、まったくお構いなしだ。
「よかったら屋上でも行ってみる?」展開に苦慮した僕に、Eは助け舟を出してくれた。
折からの強風にコートの前を掻き合わせながら、僕らは並んで子供たちの走り回るのを眺めていた。
「いいパパしてる」
かきあげてもかきあげても煽られ続ける乱れ髪をあきらめたEは、前を向いたままでそう言った。そんなことない。と答えようと思ったが、客観的に考えたらそういう感想が普通だと思うし、ここで否定したらそれこそ謙遜が過ぎて嫌味っぽく聞こえそうだから、笑った表情だけにしておく。
「2歳児ってこんな感じだったのね。少し前のことなのにすっかり忘れてたわ」
まぶしそうに目を細めながら、Eの視線は僕の娘のあぶなっかしい足取りを追っている。ちょっと雰囲気が違うと感じたのは髪を少し短くしたせいだったんだ、と僕は気付いた。
「S女学院って知ってる?」Eの問いに僕は頷く。子供たちは機関車の形をした遊具で遊んでいる。車掌の席の窓から息子がこちらを見ていた。手を振ってやったら笑い返してきた。
「先週願書発行されたんで行ってみたのよ。この前のところとは別に。そうしたら、募集人数がね、ゼロだっていうのよ。ね。笑っちゃうでしょ。
「F女学校は校風が。ていうか、通ってる子たちが、なんていうか、すごく前に出てくる感じなの。なんでも『私できます』って感じでね。それはそれで悪くないことだと思うのよ。
「でもね。うちの娘のこととか考えると少し、ううん、だいぶ違う気がするのよ。だからあそこは無理かなって思ってたからねぇ。ちょっとショック」
要するにS女学院の来年度の編入枠は、現段階で一人もいないということらしい。だったら募集するなよ、と言いたいが、万が一途中で辞められる子女が出たときの補欠人員として入試があるというのだ。いろいろたいへんだな。僕には相槌くらいしか打てない。彼女の教育への熱心さの何割かは、夫婦生活の乾きに起因するんだろうと想像しながら。
3人+1人という変則的なパーティ構成のままドーナツ屋で昼食をとり、ほどなく僕らは別れた。子連れ、それもそれなりに自意識を持ちはじめる年齢になった子供のナイーヴさを考えたら、それ以上の時間を共有することは出来なかったのだ。僕はいい。子供たちがいるから。でも、Eは。あのあと一人で電車に乗って帰っていった彼女のことを想うと、切なくなってくる。
翌朝の携帯にメールが届いていた。
「昨夜はなんだか久しぶりに虚しい気持ちになってしまいました。あなたは子供たちに目を向けているし、夫は目もくれないし、子供たちは言うことを聞かないし、おまけに私は忙しいし。そんなことを考えながら食卓でぼうっとしてて気付いたら、朝の4時半でした。せっかくサプリメントとか気にしてるのに、こんなんじゃ意味無いです。help me」
いったい僕に、なにができるのだろうか。
5歳の幼稚園児が棚の前で合体ロボットの部品を手にしながら唸っている横で、2歳になる娘は宣伝用に置いてある小型のTVに見入っている。平日の午前中、まだ客足は少ない衛星都市の駅前百貨店玩具売り場。
息子と一緒になって商品のパッケージを見ながら合体具合を検討していると、背後に気配がした。いつ来たのか、僕らのすぐ斜め後ろに黒いコートに包まれたEが、にこにこしながらしゃがんでいる。子供たちは無論気付いていない。僕と目を合わせた彼女は唇に人差し指を立てて、声を出さずに微笑んだ。
所要で出掛ける妻の代わりに仕事を休んで一日子供たちと一緒に過ごすことは、だいぶ前から決まっていた。普段は中途半端な時間しか会うことが出来ないから、せっかくのこのタイミングに近場のドライブでも、と午前中のデートを誘ったのだ。2歳児だけなら同行しても問題あるまいと。だから、前の週末にあったお遊戯発表会の振替で幼稚園が休みになるというのはちょっとした、いや、かなりの計算外だった。取り止めるかどうするか、決行するとしたらどこへ行けばいいのか。出掛ける直前まで大いに悩んだのだが…。
「男の子のオモチャ、好きなのね、やっぱり」戦隊モノのビデオ映像に完全に意識を奪われている娘を見ながら、僕にだけ聞こえるちいさな声でEはそう言った。なんだかねぇ。まるで店員さんに話しかけてるような口調で僕も答える。
「さっきからずっと見てたんだけど、どっち似なのかな?お兄ちゃんの方がパパ似?」
そうね。そう言われることは、結構あるかも。苦笑する僕。何かを察したのか、息子が彼女に視線をやった。自分の知らない社会の関係性に思考が追いついていないようだ。口数が減る。娘の方はといえば、まったくお構いなしだ。
「よかったら屋上でも行ってみる?」展開に苦慮した僕に、Eは助け舟を出してくれた。
折からの強風にコートの前を掻き合わせながら、僕らは並んで子供たちの走り回るのを眺めていた。
「いいパパしてる」
かきあげてもかきあげても煽られ続ける乱れ髪をあきらめたEは、前を向いたままでそう言った。そんなことない。と答えようと思ったが、客観的に考えたらそういう感想が普通だと思うし、ここで否定したらそれこそ謙遜が過ぎて嫌味っぽく聞こえそうだから、笑った表情だけにしておく。
「2歳児ってこんな感じだったのね。少し前のことなのにすっかり忘れてたわ」
まぶしそうに目を細めながら、Eの視線は僕の娘のあぶなっかしい足取りを追っている。ちょっと雰囲気が違うと感じたのは髪を少し短くしたせいだったんだ、と僕は気付いた。
「S女学院って知ってる?」Eの問いに僕は頷く。子供たちは機関車の形をした遊具で遊んでいる。車掌の席の窓から息子がこちらを見ていた。手を振ってやったら笑い返してきた。
「先週願書発行されたんで行ってみたのよ。この前のところとは別に。そうしたら、募集人数がね、ゼロだっていうのよ。ね。笑っちゃうでしょ。
「F女学校は校風が。ていうか、通ってる子たちが、なんていうか、すごく前に出てくる感じなの。なんでも『私できます』って感じでね。それはそれで悪くないことだと思うのよ。
「でもね。うちの娘のこととか考えると少し、ううん、だいぶ違う気がするのよ。だからあそこは無理かなって思ってたからねぇ。ちょっとショック」
要するにS女学院の来年度の編入枠は、現段階で一人もいないということらしい。だったら募集するなよ、と言いたいが、万が一途中で辞められる子女が出たときの補欠人員として入試があるというのだ。いろいろたいへんだな。僕には相槌くらいしか打てない。彼女の教育への熱心さの何割かは、夫婦生活の乾きに起因するんだろうと想像しながら。
3人+1人という変則的なパーティ構成のままドーナツ屋で昼食をとり、ほどなく僕らは別れた。子連れ、それもそれなりに自意識を持ちはじめる年齢になった子供のナイーヴさを考えたら、それ以上の時間を共有することは出来なかったのだ。僕はいい。子供たちがいるから。でも、Eは。あのあと一人で電車に乗って帰っていった彼女のことを想うと、切なくなってくる。
翌朝の携帯にメールが届いていた。
「昨夜はなんだか久しぶりに虚しい気持ちになってしまいました。あなたは子供たちに目を向けているし、夫は目もくれないし、子供たちは言うことを聞かないし、おまけに私は忙しいし。そんなことを考えながら食卓でぼうっとしてて気付いたら、朝の4時半でした。せっかくサプリメントとか気にしてるのに、こんなんじゃ意味無いです。help me」
いったい僕に、なにができるのだろうか。
午後のデート。
ねぇ。手、つなごっか?
崖の斜面にある旧い公園へと続く坂道の手前、若いカップルとすれ違ったすぐあとに、横を歩くEに向かって僕は言ってみた。意表を突かれたのか、彼女は大袈裟に驚き、何言い出すのと軽くいなす。だってさ。天気もいいし。
「そぉね。坂道だし、あぶないから、手、つないでもらおっかな」
そう言ってEは、左手を僕の右手に絡めてきた。細くてしなやかな指。薬指の指輪は気にならない。
昼前に駅で待ち合わせた僕らは、10年前にはこんなに綺麗じゃなかった歩道を抜けて中華街へと入っていった。
再会してから5回目か6回目のデート。どうしてこんなに話すことがあるのかと思う。まるで付き合い始めたころのようだ。むろん、その内容は当時とは大きく異なり、家事の話や日用品の買い物、子供のことが中心だが。
「今日は何時まで大丈夫なの?」
「ん。今日はね。も、いいの。ほら。先週の土曜日、電話しただろ。あのとき出社して書類を仕上げちゃったから、今日はもう出番は無いんだ」
その店自慢の炒飯と焼売、五目焼そば、それにビールを注文しながら僕は答える。
「もう。完全に仕事戻る気ないのね」
苦笑いするE。
昼時の混雑の中、相席を想定する店の指示で、狭いテーブルに向かって並んで座った僕らは、いささかの屈託も無いカップルのように楽しげに食事する。向かいに案内されてきたグルメ巡りらしい若い女性の二人組からは、いったいどんな風に見られてるのだろうか?堅い仕事には見えないラフなジャケットの中年男と年輪を重ねてはいるが充分に美しく優雅な立ち振る舞いの女性。夫婦か?それにしては話の内容に生活感が無いし、だからといって落ち着き過ぎ。会社の上司と部下って感じでも無いし。彼女たちの仮想の視線を想像して自分たち二人を眺めてみる。なんだ。あの頃とぜんぜん変わってないじゃん。
「時間があるんなら、今日はヘンなとこ付き合ってもらっちゃおっかな」
僕のコップにビールを注ぎながら、Eは悪戯っぽく笑った。
坂道を登りきるとふたりとも軽く息があがっていた。日陰ばかり歩いてきたというのに背中にじんわりと汗がにじんでいるのが判る。信号が止まれと合図している横断歩道の前で繋いだ手を自然に離した彼女は、道の向こうの建物を指して目配せした。なるほど。地元では有名なお嬢様学校だ。
「ごめんね。つき合わせちゃって。願書をね、もらっておこうかなって思ってね」
そういえば以前、娘さんに編入学をさせたいとかなんとか話していたっけ。
どうする?ネクタイでもしようか?
莫迦ね。そう言いながら僕の腕を軽く促す。信号は変わっていた。
崖の斜面にある旧い公園へと続く坂道の手前、若いカップルとすれ違ったすぐあとに、横を歩くEに向かって僕は言ってみた。意表を突かれたのか、彼女は大袈裟に驚き、何言い出すのと軽くいなす。だってさ。天気もいいし。
「そぉね。坂道だし、あぶないから、手、つないでもらおっかな」
そう言ってEは、左手を僕の右手に絡めてきた。細くてしなやかな指。薬指の指輪は気にならない。
昼前に駅で待ち合わせた僕らは、10年前にはこんなに綺麗じゃなかった歩道を抜けて中華街へと入っていった。
再会してから5回目か6回目のデート。どうしてこんなに話すことがあるのかと思う。まるで付き合い始めたころのようだ。むろん、その内容は当時とは大きく異なり、家事の話や日用品の買い物、子供のことが中心だが。
「今日は何時まで大丈夫なの?」
「ん。今日はね。も、いいの。ほら。先週の土曜日、電話しただろ。あのとき出社して書類を仕上げちゃったから、今日はもう出番は無いんだ」
その店自慢の炒飯と焼売、五目焼そば、それにビールを注文しながら僕は答える。
「もう。完全に仕事戻る気ないのね」
苦笑いするE。
昼時の混雑の中、相席を想定する店の指示で、狭いテーブルに向かって並んで座った僕らは、いささかの屈託も無いカップルのように楽しげに食事する。向かいに案内されてきたグルメ巡りらしい若い女性の二人組からは、いったいどんな風に見られてるのだろうか?堅い仕事には見えないラフなジャケットの中年男と年輪を重ねてはいるが充分に美しく優雅な立ち振る舞いの女性。夫婦か?それにしては話の内容に生活感が無いし、だからといって落ち着き過ぎ。会社の上司と部下って感じでも無いし。彼女たちの仮想の視線を想像して自分たち二人を眺めてみる。なんだ。あの頃とぜんぜん変わってないじゃん。
「時間があるんなら、今日はヘンなとこ付き合ってもらっちゃおっかな」
僕のコップにビールを注ぎながら、Eは悪戯っぽく笑った。
坂道を登りきるとふたりとも軽く息があがっていた。日陰ばかり歩いてきたというのに背中にじんわりと汗がにじんでいるのが判る。信号が止まれと合図している横断歩道の前で繋いだ手を自然に離した彼女は、道の向こうの建物を指して目配せした。なるほど。地元では有名なお嬢様学校だ。
「ごめんね。つき合わせちゃって。願書をね、もらっておこうかなって思ってね」
そういえば以前、娘さんに編入学をさせたいとかなんとか話していたっけ。
どうする?ネクタイでもしようか?
莫迦ね。そう言いながら僕の腕を軽く促す。信号は変わっていた。
朱夏のはじまり
人混みに巻かれながら階段を下りていくと改札を正面にみる柱の前に、きみがいた。こちらに気づき右手を腰の高さでひらひらさせている。
「ごめんね。忙しいのに呼び出しちゃって」ほんのわずかだけスーツの腕に触れた右手で前髪をかき上げながら、きみは上目遣いに僕を見た。大丈夫。普段ちゃんと仕事してるからね。なるべく恩着せがましくならないよう、努めて普通に受け答えをする。
秋晴れには程遠い曇り空の下、僕らは古く由緒ある商店街へと歩き出した。僕がデイバッグを左肩に掛け直すのと同じタイミングで、きみもトートバッグを右に移す。
「普段運動してないから駅まで歩くのに汗かいちゃった」白いタートルネックのサマーセーターと膝丈の白いスカート、そして右手には淡い色のスプリングコート。その口調も姿勢の手本のような背中のラインからも、10年の歳月は感じられない。
「月曜日だとお休みが多いの、忘れてたね」とりあえずの目標とした紅茶専門店のシャッターを見上げながらきみはそう言った。そういえばそんな会話、したこともあったね。
ブティックの2階にある無難な感じの喫茶店に腰を落ち着かせる。久しぶり。「ホントに」でもぜんぜん変わってないよ。「嘘、すごいおばさんになっちゃったでしょ」それはこっちのことさ。僕らは一番仲良しだったころのように微笑み合い、語り合う。他愛の無いやり取りで失われた時間を大急ぎで繋ぐかのように。
軽い肩慣らしを終えた若手のピッチャーみたいに、注文した飲み物が届くのも待ちきれずきみは話しはじめた。今の住まいのこと、子供たちのお受験のこと、町内会の理事を引き受けさせられたこと。合間に僕も自分の生活や子供の話を織り交ぜ相槌を打つ。そんな軽快なリズムが、ご主人の話題になったところで変調した。
「浮気、してるの、もう何年も」やっぱり、ね。僕は胸の中でつぶやく。便りの無いのは良い知らせ。あるとすれば金の無心か相談事。10年ぶりに昔の恋人に連絡を寄越すとすれば、それはあまりにも在りがちな筋書きだろう。
僕の目の前で瞳を潤ませながら訥々と語るきみを見つめながら、ああ、それでもきみの目の前に座るこの男は、きみのために出来る事ならなんでもしてやると決めてるんだな、と思う。
「ごめんね。忙しいのに呼び出しちゃって」ほんのわずかだけスーツの腕に触れた右手で前髪をかき上げながら、きみは上目遣いに僕を見た。大丈夫。普段ちゃんと仕事してるからね。なるべく恩着せがましくならないよう、努めて普通に受け答えをする。
秋晴れには程遠い曇り空の下、僕らは古く由緒ある商店街へと歩き出した。僕がデイバッグを左肩に掛け直すのと同じタイミングで、きみもトートバッグを右に移す。
「普段運動してないから駅まで歩くのに汗かいちゃった」白いタートルネックのサマーセーターと膝丈の白いスカート、そして右手には淡い色のスプリングコート。その口調も姿勢の手本のような背中のラインからも、10年の歳月は感じられない。
「月曜日だとお休みが多いの、忘れてたね」とりあえずの目標とした紅茶専門店のシャッターを見上げながらきみはそう言った。そういえばそんな会話、したこともあったね。
ブティックの2階にある無難な感じの喫茶店に腰を落ち着かせる。久しぶり。「ホントに」でもぜんぜん変わってないよ。「嘘、すごいおばさんになっちゃったでしょ」それはこっちのことさ。僕らは一番仲良しだったころのように微笑み合い、語り合う。他愛の無いやり取りで失われた時間を大急ぎで繋ぐかのように。
軽い肩慣らしを終えた若手のピッチャーみたいに、注文した飲み物が届くのも待ちきれずきみは話しはじめた。今の住まいのこと、子供たちのお受験のこと、町内会の理事を引き受けさせられたこと。合間に僕も自分の生活や子供の話を織り交ぜ相槌を打つ。そんな軽快なリズムが、ご主人の話題になったところで変調した。
「浮気、してるの、もう何年も」やっぱり、ね。僕は胸の中でつぶやく。便りの無いのは良い知らせ。あるとすれば金の無心か相談事。10年ぶりに昔の恋人に連絡を寄越すとすれば、それはあまりにも在りがちな筋書きだろう。
僕の目の前で瞳を潤ませながら訥々と語るきみを見つめながら、ああ、それでもきみの目の前に座るこの男は、きみのために出来る事ならなんでもしてやると決めてるんだな、と思う。
納得。
過去ログを読み返してみて気がついた。
Eも同じだったのだ。見知らぬ街で丸4年かけて積み上げてきた周囲とのさまざまな関係をを清算し、再びこの街に戻ってきたあのときの僕と。連続していない時間はひととひととを疎遠にしていく。まして彼女は二人の子供を持つ家庭の主婦。黙っていてもやってくる雑事は生活をルーティンな円環に閉じ込め、自ら思考し行動するという外に向かっての強い気力を萎えさせる。新たな関係をゼロから築きあげるのは至難の業かもしれない。
だからこそ、僕なのだ。新たな関係ではないが、その分、無駄になるかもしれない努力をする必要はない。そのくらいはよく知っているはず。僕のこと、僕の自分への想いののこと、そして僕が自分に示す表現の仕方も。
彼女がこの10年、もしくはこの街に帰ってきてからの5年、僕のことをかたときも忘れなかったなんてことは有り得まい。僕だって、むろんそうだ。そんなことばかり考えていたら、日々の生活なんて出来やしない。少なくとも、子供なんて育てられない、絶対。
だから、そんなことはもう、いいのだ。問題は、今彼女が、ひとりしょい込むにはちょっとばかりつらい屈託を抱えてるって ことなのだから。そして、その荷物をほんのちょっとの間支えてもらうための相手に、僕を選んでくれたのだから。
いいじゃないか。そういうの、昔から得意だし。なにひとつ疑問もなく永遠に仲良しでいられると思っていた頃のように、気楽に受け答えをしてやれば。
Eも同じだったのだ。見知らぬ街で丸4年かけて積み上げてきた周囲とのさまざまな関係をを清算し、再びこの街に戻ってきたあのときの僕と。連続していない時間はひととひととを疎遠にしていく。まして彼女は二人の子供を持つ家庭の主婦。黙っていてもやってくる雑事は生活をルーティンな円環に閉じ込め、自ら思考し行動するという外に向かっての強い気力を萎えさせる。新たな関係をゼロから築きあげるのは至難の業かもしれない。
だからこそ、僕なのだ。新たな関係ではないが、その分、無駄になるかもしれない努力をする必要はない。そのくらいはよく知っているはず。僕のこと、僕の自分への想いののこと、そして僕が自分に示す表現の仕方も。
彼女がこの10年、もしくはこの街に帰ってきてからの5年、僕のことをかたときも忘れなかったなんてことは有り得まい。僕だって、むろんそうだ。そんなことばかり考えていたら、日々の生活なんて出来やしない。少なくとも、子供なんて育てられない、絶対。
だから、そんなことはもう、いいのだ。問題は、今彼女が、ひとりしょい込むにはちょっとばかりつらい屈託を抱えてるって ことなのだから。そして、その荷物をほんのちょっとの間支えてもらうための相手に、僕を選んでくれたのだから。
いいじゃないか。そういうの、昔から得意だし。なにひとつ疑問もなく永遠に仲良しでいられると思っていた頃のように、気楽に受け答えをしてやれば。
夏への扉。
EXCELをいじってたら内線で呼び出しを受けた。外からの電話だと言う。聞き覚えのある苗字だがタイムリーではないし、誰かとも思ったが断る理由も見つからないので繋いでもらった。
「こんにちは」
これっぽっちも予感はなかった。このようにして人生はターンしていくのか。ここがどこなのか、今がいつなのか。その瞬間、自分の位置を失った。10年分の時間を飛び越える懐かしいイントネーション。彼女の声が耳に届く。変わりはありませんか?
「久しぶり。変わりなんか、あるような無いような」
我ながら芸のない答え。動揺は隠せない。こんな日を夢見ていたことさえ忘れていたというのに。
前に憶えていたオフィスの番号は引越し前のものだったので直通番号が判らず、同窓会の連絡と偽って代表番号にかけたのだという。まあ、同窓会といっても嘘にはなるまい。
かけちゃいけないとは思ってたんですけど、男のひとはどういうふうに考えるのかって相談したくて。と彼女の言葉は続いた。
「帰ってたのよ、5年位前にね。だけど、電話しちゃね、やっぱりいけないかなって。でも、駅の近く行くたびに、この辺で仕事してるのかなって思い出してたりしてたのよ
「子供のこととかいろいろ忙しくってぜんぜん外にも出てなくて
「なにしろ長いことこっちにいなかったから、相談したりできるお友達もいなくって」
意図が見えない。いや、たぶん言葉どおりなんだろう。駆け引きとかいうのじゃなくて、常識的判断からほんの少し踏み出した、旧友に対する甘えみたいなものなんだろう、きっと。どっちにしたって、声を聞いてしまった僕は、彼女の望みを無碍にできるはずもない。
オフィスの電話ということもあったので、あとからかける約束をして、早々に切った。
いや正直に言おう。もっともっと長く話していたかったと。だが、それ以上に今は、うろたえきった自分の足場を建て直し、青天の霹靂である彼女、Eとの新しいスタンスを模索する必要があると感じたのだ。これがしがらみというヤツか。
夕方はこちらから電話した。これで少なくとも互いのチャンネルが開いたことになる。元気な声ではあったが、話す相手もいない普段などは、自分がこんなにも暗かったのかと気づかされたなどと言う。電話できたんで元気が出たのかも、とも。そういえばこんな関係のときもあった気がする。
近いうちにランチでも誘ってくれるらしい。またキリキリする時間が始まるのだろうか。できるだけ意識しないようにしたいとは思うが。
果たして僕は、この10年でいくらかでも成長しただろうか?
「こんにちは」
これっぽっちも予感はなかった。このようにして人生はターンしていくのか。ここがどこなのか、今がいつなのか。その瞬間、自分の位置を失った。10年分の時間を飛び越える懐かしいイントネーション。彼女の声が耳に届く。変わりはありませんか?
「久しぶり。変わりなんか、あるような無いような」
我ながら芸のない答え。動揺は隠せない。こんな日を夢見ていたことさえ忘れていたというのに。
前に憶えていたオフィスの番号は引越し前のものだったので直通番号が判らず、同窓会の連絡と偽って代表番号にかけたのだという。まあ、同窓会といっても嘘にはなるまい。
かけちゃいけないとは思ってたんですけど、男のひとはどういうふうに考えるのかって相談したくて。と彼女の言葉は続いた。
「帰ってたのよ、5年位前にね。だけど、電話しちゃね、やっぱりいけないかなって。でも、駅の近く行くたびに、この辺で仕事してるのかなって思い出してたりしてたのよ
「子供のこととかいろいろ忙しくってぜんぜん外にも出てなくて
「なにしろ長いことこっちにいなかったから、相談したりできるお友達もいなくって」
意図が見えない。いや、たぶん言葉どおりなんだろう。駆け引きとかいうのじゃなくて、常識的判断からほんの少し踏み出した、旧友に対する甘えみたいなものなんだろう、きっと。どっちにしたって、声を聞いてしまった僕は、彼女の望みを無碍にできるはずもない。
オフィスの電話ということもあったので、あとからかける約束をして、早々に切った。
いや正直に言おう。もっともっと長く話していたかったと。だが、それ以上に今は、うろたえきった自分の足場を建て直し、青天の霹靂である彼女、Eとの新しいスタンスを模索する必要があると感じたのだ。これがしがらみというヤツか。
夕方はこちらから電話した。これで少なくとも互いのチャンネルが開いたことになる。元気な声ではあったが、話す相手もいない普段などは、自分がこんなにも暗かったのかと気づかされたなどと言う。電話できたんで元気が出たのかも、とも。そういえばこんな関係のときもあった気がする。
近いうちにランチでも誘ってくれるらしい。またキリキリする時間が始まるのだろうか。できるだけ意識しないようにしたいとは思うが。
果たして僕は、この10年でいくらかでも成長しただろうか?
性的感動。
手を繋ぐということがこんなにも至福を伴うものだとは、僕は知らなかった。Eの左手の細い指から直接僕の右手に流れ込む熱は、瞬時に僕の脳を沸騰させた。全身で表された僕の衝撃を、Eは気づかないはずがない。が、彼女の手はそんなものはお構いなしに、弱すぎず強すぎず自然なままでつながっている。
右を向くことは、できない。緊張で首が回らない。ただそっと、ギクシャクしないことだけを気をつけて、僕は繋いだ右手でEの左手を包み、応じた。血流がアタマと右手に集中する。
意図を確認することもできない。なにひとつ話すことさえできない。ただ右を歩いているはずのEの息遣いと、それに倍する自分の動悸だけが響いていた。
刹那、どちらからともなく動きがあった。接触を解かずに静かに指先を伸ばし、相手の指と指の間に自分の指を絡めこむ。まさにエロティシズムの極み。
あれから様々な経験を積んだ今の僕でも、あのときを超える性的感動を覚えたことはない。初めてのキスやセックス、いかなるアブノーマルな性体験をもってしても、あのときEと繋がれた手以上に感じることはないだろう。
どこでその手を離したのか、いつまで繋いでいたのか、僕は憶えていない。でもあの日彼女を自宅まで送っていった後、当面の僕の人生目標が確定していたことだけは、憶えている。
右を向くことは、できない。緊張で首が回らない。ただそっと、ギクシャクしないことだけを気をつけて、僕は繋いだ右手でEの左手を包み、応じた。血流がアタマと右手に集中する。
意図を確認することもできない。なにひとつ話すことさえできない。ただ右を歩いているはずのEの息遣いと、それに倍する自分の動悸だけが響いていた。
刹那、どちらからともなく動きがあった。接触を解かずに静かに指先を伸ばし、相手の指と指の間に自分の指を絡めこむ。まさにエロティシズムの極み。
あれから様々な経験を積んだ今の僕でも、あのときを超える性的感動を覚えたことはない。初めてのキスやセックス、いかなるアブノーマルな性体験をもってしても、あのときEと繋がれた手以上に感じることはないだろう。
どこでその手を離したのか、いつまで繋いでいたのか、僕は憶えていない。でもあの日彼女を自宅まで送っていった後、当面の僕の人生目標が確定していたことだけは、憶えている。