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鎌田洋次(漫画家)のブログ

作品紹介、草野球など諸々。

  筋力の低下は意思力の低下を招く。人間は頭だでは生きられないんだ....と分かっていても、寒くなると外に出たくなくなります。

それじゃあ、家の中でと思って、深く、ゆっくりとしたスクワットを20回ほどやったら、2日後に腰に違和感が...

この痛みはぎっくり腰に似ている...  寝てから起きる時が一番辛く、角度をいろいろ変えて起きないと背骨付近がビクンとします。

 ああ、たった20回なのに...失敗しました。

 

 コロナ禍前まではスキーに行くために、なんとかトレーニングを続けていられましたが三年も行ってないとその意欲も無くなります。

老は筋力低下からやってくる、頭も同様。なんとかしなければなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 誰が正確にイメージできるんだろう? ジャイアンツ関係の人だけ?

マスコミも、こう言っておいたら、安心だろうと思って使っているんじゃなの?

さすがに物の大きさを比べるのにタバコの箱を置いた写真は見なくなったけど....

 

 ああ、あと「バールのようなもので... 」だ。

今、一般人が何人バールの映像を思い浮かべられるだろうか?

そう言えば、立川志の輔が「バールのようなもの」という落語をやってましたね。

 

 私は、始め、京都の町屋に下宿しました。そこのおばさんとウマが合わず、ケンカして、一回生の9月には引っ越しをしました。

たまたま、同じクラスのY山君が近くの、その「学生寮」に住んでおり、向かいの部屋が空いていると言うので、即刻決断した訳です。

 荷物は布団と電気ポットとラジオだけだったので、歩って2回往復して終わりです。(当時はまだ、田舎から高校通学時の自転車を送ってもらっていなかった)

  

 この寮は民間の運営で、いろんな大学や専門学校の学生が学年、回生もごちゃ混ぜに入っていました。不思議な寮でした。

 

 中庭を挟んで南側と北側の二棟があり、私は南側の中庭側(北向きで常に日陰)の一階、寮の出入り口のそば。

中庭に向いた窓の外には洗濯機が2台あり、常に誰かがガーガー洗濯していました。別に気にもなりませんでした。むしろ自分が使う時は、窓を開けてポイッと洗濯物を放り込むだけですから便利だったな。順番待ちもしなくていいし。

 京間の3畳だと言うので少し広いと言うことでしたが、部屋の中を有効活用するためにドア付近に物を置きますから、入室するときは体を横にして入らなければなりません。それでもこの部屋に8人入って、酒を飲んで、モクモクとタバコを吸って、一晩中過ごしたこともありました。今考えてもどういうふうに座っていたのか思い出せません。立っていたヤツもいたかも知れません。

 

 洗面所、トイレ、炊事場は共同。風呂は無し。一軒飛ばしたところが銭湯で、そのまた一軒飛ばしたところにコインランドリーがありました。当時銭湯は半径100メートル以内に3件あったと記憶しています。銭湯代は、セブン・スターと同じ120円から徐々に上がっていきました。それでも東京のように洗髪すると別料金を取られることはありませんでした。

 

 何にもない白壁の3畳でしたが、やがて私は奮発してソニーのステレオ・ラジカセを買いました。本当は低音の効く本物のステレオが欲しかったのですがそんなものには手が出ません。

 当時はステレオ・ブームで寮の中でも高級なセットを持っている人がいたようです(3畳なのに)。一番奥のD大学の先輩は、いつもドアを開け放して、スティービー・ワンダーの『サー・デューク』とか『 Isn't she lovely』を大音量でかけていました。多分『key of Life』のLPを持っていたのでしょう。

 一度、私がテープに落としたビリー・ジョエルの『Just the way you are』を音量あげて聴いていたら、彼が「うるせえ!」って怒鳴り込んできたことがありました。私が「すいません」と謝ると、すぐに帰って行きました。 「なんだよぉ」と思いましたが、卒論で気が立っていたのでしょう。すまないことをしたと思っています。

 

 以前にもブログでかきましたが、寮の廊下に夜になるとに油井正一のFMラジオの『アスペクト・イン・ジャズ』が流れていたのを思い出します。 不思議な寮でしたが、たのしい思い出がたくさんあります。また思い出したら書こうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 以前このブログでも書いたのですが、この上賀茂警察署は 今は京都北警察署と言うらしいです。

私は学生時代、この警察署のすぐ近くの民間の学生寮に住んでいました。一部屋が三畳で、畳のベットと小さな机が備え付けられていました。モルタルの白壁で、まるで古い病院の個室のような部屋でした。光熱費込みで、9000円だったかな? 

 

 私たちはテレビも冷蔵庫も電話もない生活をしていましたが、少ないお金を出し合ってよくコンパをしました。漫研のコンパ、クラスのコンパ、2000円から3000円の会費で河原町あたりに繰り出すこともありました。当時はウイスキー全盛の時代で、サントリーオールド(2500円)が3500円ぐらのボトルキープで飲めた時代でした。私たちはそんな高いお酒は飲めません。せいぜいホワイト(1000円)が関の山です。寮で飲む時はレッドの大瓶でしたから。

  

 さんざん飲んだ後は帰らなければなりません。ご存知のように京都市内は碁盤の目の様になっています。縦、横、縦、横を何回か繰り返せば必ず寮に帰れます。バスの時間も無くなって、(今のように地下鉄もありません)2時間から3時間ぐらいかかって歩いて帰ったことがなん度もありました。それが普通だと思っていました。みんな貧乏だったので当たり前だと思っていました。

 

 それでも、ベロンベロンによって、さすがに歩って帰るには辛すぎる、早く帰って横になりたい、というときもあり、その時は割り勘でタクシーを拾いました。大抵、私は運転手さんの隣の席です。

 運転手さんが『どこまで?』と尋ねると、私が『上賀茂警察署まで』と答えるのです。この時、運転手さんの表情が一瞬、変わるのをよく覚えています。『すぐ近くなんで... 』と誤解を解くのですが.....

 

   これがなんか面白かったなあ。