the pros and cons from maggie-and-malone
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Osamu Dazai “Run, Melos!”

初めて筆者が買った横文字の本は、講談社internationalの文庫本、

Osamu Dazaiの“Run, Melos!”です。

まだ、PENGIN Classics も Oxford Classics もその存在を知る

前で、紀伊國屋書店は高島屋に主軸が移る前、なので、洋書売り場

は本店の6階にありました。

太宰治という文学者に関しては、色々思うところがあります。文学論

的なアプローチとなると長くなりそうなので、その人柄に就いて述べ

ますが、要は、敗戦後の東京で1年半――入水は昭和23年ですが、

敗戦後1年強、津軽に疎開していたから――生きられなかった人です。

この『歴史的事実』を吟味し、どう捉えるかで、その作品に対するスタン

スが 決まると思っています。


さて、講談社インターナショナルの文庫本、ですが、筆者が所持する

のは第三刷(でいいのかな? First edition,1988 / Third printing,

1994 と奥付に記載されています)。収録作品は“A Promisef Fuilled”

“One Hundred Views of Mount Fuji” “Schoolgirl” “Cherry Leaves

and the Whistler” “Run, Melos!” “Eight Scenes from Tokyo” “One

Snowy Night”の計7篇。大好きな『女生徒』と『富嶽百景』が収録されて

いるので買いました。また、目次を見た際、原題では同じ【景】の字で

あっても、その 内容で、“View”と“Scene”、訳語が変わってくるんだ

なあ、とそんな ことに目からウロコをこぼしつつ、帰りの中央特快の中で

ページを繰った のを覚えています(福生に居住していた頃なので)。


久方振りに、この文庫本を書棚から引っ張り出して、眺め返してみたら

(とてもじゃないが、『読んで』はいないです)、その書き込みの初々しさ

に驚きました。sterngthやimidiateryの意味が判らず、辞書を引いた

痕跡が 残っています。“Schoolgirl”のイントロ、“tany box”が含まれる

構文を見て、 Frank Zappaの“The Green Rosetta”が、一日中頭の中を

廻ったこともありました。大手電気機器メーカーの半導体工場で、24時間

体制のスパッタリングチームにいた時で、勤務形態は昼番を3日間連続

で勤務すると、3日間のOFF、次が夜番3日間の繰り返し。引継ぎを含む

ので、確か、13時間半の拘束でした。操作している装置が数億だと聞いて、

飽きるまで携わりました。


話を戻すと、収録作品の日本語原文では、『女生徒』、『富嶽百景』『葉桜と

魔笛』『満願』など好みなのですが――この文庫本で、一番真剣に読んだ

のは、“Eight Scenes from Tokyo”です。書き込みも一番多い。

この記事を作成するのにあたり、何年――3年か4年振り。前回は確か、

テレマブースにいた時、in待ちと呼ばれていた状況下、青空文庫で――

再読してみました。私が太宰作品で最も愛するのは、前述以外では、

『ロマネスク』、『八十八夜』、『駆込み訴え』、『きりぎりす』、『御伽草子-

カチカチ山』、『トカトントン』などの、尋常でない完成度の短篇です。

『東京――』は、どうも、それらとは一線を画した、思い出深い短篇に該当

するようです。多分、私が、東京でしか暮らしたことがない(『東京――』の

文中に【そのとしの初秋に東京市外、三鷹町に移住した。もはや、ここは

東京市ではない。】との一文がありますが、筆者が世田谷区以外で、唯一、

居住した街、【福生】はその三鷹より遥かに西であるにも係わらず、二十世

紀末は【東京都福生市】でしたから)。

この作品に関して思うところを述べると、それはそれで一項目くらいになり

そうなので、この記事の主題である、英訳に就いて記して、それは他日を

期することにします。

思いつくままに、

原文『蟷螂の斧』は英訳だと“Trying to empty the sea with a teacup”。

『歯がぼろぼろに欠けて来た』は“My teeth beganto decay and fall out”。

『酒のない夜は、塩せんべいをかじりながら探偵小説を読むのが、幽かに

楽しかった』が“In my room, on nights when I had nothing to drink, I

would teke a certain faint pleasure in muching on rice crackers and

reading detective stories”。

訳者のRalph F. McCARTHY氏の英訳は、概ね好感が持てる誠実な訳

ですが――最後の一文、“I must be up to something”は、三人称で、

“He must be up to something”にするのが適切だと、再読して思いました

(誤訳という訳ではなく、あくまでも、ニュアンスの問題です)。





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蛍光マーキングは殆どスキャニング出来てませんが、

最もマーキングの多いページ



映画を観る、ということ

暫く前、何故、映画を観るのか、ということに関し、割り合い、

真剣に考えてみたことがあります。

筆者にとって、映画とは、『ページ自動送りの絵本』です。

絵本が読みたくて、絵本を繰るように、私は映画を観ている

ようです(絵に多少なりとも深くかかわった挙げ句、もし、本当

に絵本が読みたくなったら、茂田井武さんやら、武井武雄さん

クラスの、絵柄へ共感が得られない限り、まず、読み通すこと

が出来なくなりました。悪い言い方をすれば、映画はその代替

品です)。
この認識に至ったのは、溝口健二(巨匠過ぎて却って敬称を
つけられない)の生涯を描いた、新藤兼人監督の『ある映画
監督の生涯』を観た時です。溝口監督は、映画を絵巻物と
して捉えており(確か、依田さんの証言)、最初の1コマから
最後の1コマまで、一本の絵巻物を観るように鑑賞するのが、
正しい映画鑑賞の作法なんだろうなあ、と思いつつ、VTRで
観ることが多いので巻き戻しの機能は使用してしまいますが
(溝口監督には怒られそうです)。
旧い映画人が、映画のことを『シャシン』と呼ぶように、私に
とっても、映画の1コマは1枚の写真です。写真本なんて
日本語にはないから、上記では絵本としましたが、もう少し
詳しく定義付けると、『複数の写真が連続して映写されることに
より、そこに展開される世界、登場人物たちの行動、ストーリ
を堪能する表現様式』。だから、登場人物たちの心理描写に
ばらつきがあったり、筋が通っていなかったりする映画は筆者
には必要でないようです。


何故、現在――リアルタイムで公開される――映画に関心を
示さないのか、と批判されることがよくありますが、現行の
テクノロジーが進化(?)した延長線上で製作される映画からは
この、1コマが1枚の写真であるとの印象が全く得られないの
です。友だちから観るように薦められた、『三丁目――』も、最初
の数秒で、もうダメ、でした。詳しい時代設定は知りませんが、
昭和30年代初頭とのことだったら、まず、天然色での映像が

極端に少ない筈ですし、市井や陋巷を撮影した実写フィルム

に至っては、殆ど、残されている可能性はないでしょう。なので、
あまりにも鮮明な昭和30年代頭の庶民の風景は、それだけで
作為的に感じられ、作品を鑑賞することが出来ませんでした。
(何故、モノクロで撮影するなり、画質を荒らすなり、当時のカラー
フィルムを使用するなりの、工夫をしなかったのか、不思議で
仕方ありません。あの、『質感』は、おそらく、CGで再現すること

は不可能だと思います)。


そういう映画の観方は偏屈過ぎて拡がりがない、と思われるかも

しれません。併しながら、中平康監督の『あいつと私』を観た時は、

劇中の60年安保0615のカラー映像に何の違和感も覚えずに、

最後まで観ることが出来ましたから(60年安保のカラー映像は

残っているのかもしれませんが、見たことないし、ましてや、その

デモ隊の中に、裕次郎やいずみ様や小沢昭一さんがいる訳が

ない)、これは、油絵で云うところのヴァルールに近い感覚がある。

タブローでヴァルールが狂っている、というのは、要は、画面の

中に描かれた事物が、一定の空間を形成する上で、適切な色彩・

光量で描かれておらず、そこの部分だけ歪んで見えることです。

一つの世界を描くためには、世界観の統一がなければなりません。

最初の1コマからラスト・カットまで、そこに、一つの法則・規律・

筋道・采配がなければならない。

テクノロジー的な進歩によって生じた諧謔を逆手に取ったのは、

30年以上前のハイパー・リアリズムですが、その絵画を観ても感動

を得ることが難しいのと同等に(あれは、恐らくジョーク、人を笑わせ

るためのものでしょう。アンドリュー・ワイエスは、ハイパー・リアリズム

とは無関係です)、コンピューターで作成された、建設途中の東京

タワーの映像は、いかに遠近法の計算が正確でも、空虚なだけで、

重量がまるでなく、空間に溶け込んで見えないため、欺瞞に満ち

溢れていて、その作為性しか訴えてくるものがありません。第一に、

それ(CG)が含まれた映像の中には空気がない。空気がない世界に

ヒトが住める訳がない。生きるのも無理だ。ラスコーリニコフは、複数

の周囲の人物から、再三、『あなたには空気が必要なんです』と指摘

されています。

絵画が人類のdutyでなくなるのは、CGが空気のある世界を描ける

ようになった時、です。――自分に云い聞かせている訳ではありま

せんが、今はまだ、その時期ではありません。


何か、話が逸れた気がしますが、何故映画を観るのか、ということに

関するまとめ。下図、河出のグリーンの世界文学全集『チェーホフ』

で、解説の佐々木基一さんが記しているチェーホフの言葉に、いたく、

感銘を受け、自分自身を鑑みてみたところ、一定の世界観など、かけら

もありはしませんでした。絵を描く時、画面の中の世界が歪まないよう

細心の注意は払いますが、私事となると、てんで、ダメ。チェーホフ

の言葉に戻ると、世界観の一定がないのですから、意識的生活など

出来る訳がありません。それを、チェーホフは、生活ではなく『重荷』

であり『恐怖』だと、定義付けている。

映画を観ている間だけ、その中の一定の世界観で制御され展開する

物語に、意識的に身を委ねることが出来るからなのです。




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河出の文学全集第28巻『チェーホフ』

佐々木基一さんの解説。引用部分には

蛍光マーカーが――



『驟雨』(1956年)

成瀬巳喜男監督の『驟雨『』(1956年)を観ました。成瀬監督の

映画は、『石中先生行状記』(1950年-オムニバス3話の中の一

つ)、『稲妻』(1952年)、『あにいもうと』(1953年)、『浮雲』(1955年)、

『秋立ちぬ』(1960年)、『夜の流れ』(1960年-川島雄三との共同

監督)、『乱れ雲』(1967年)と、数えてみたところ、8本目でした。


正直なところを申しますと、成瀬さんが巨匠であることは知って

いたので、日専で特集が組まれることを知った際は、全作品を

フォローしてやろ、くらいの勢いがあったのですが、映画鑑賞と

いうものはままならないもので(単に自分が怠惰なだけですが)、

上記のように、まだ2桁台にも到達していない有様。と、もう一つ

何か、掴めない監督さんだなあ、というのが正直なとこでした。

なので、今回、きちんと、VTRに録画したのは、水木洋子さんの

名前に惹かれたからです。その上、原作が、ひいき筋の久生の

師匠、岸田國士さんですから、成瀬作品を鑑賞する、とのスタンス

でなかったことだけは確かです。でも、この作品には、完全に

参りました。――心理劇だったのです。


どうも、私には、二種類の映画があるようです。一つは、登場人物

の行動の必然性など、一切気にしないまま、プロットとストーリー

を追って最後まで一気通貫に観てしまうもの。これは、この先どう

なるのか、この謎をどう合理化するのかへの興味で最後まで観ら

れます。もう一つは特に派手なストーリー展開がなくても、そこで

繰り広げられる心理戦が、最終的にはどう収斂されるのかへの

筋道を追って行く鑑賞。この場合、何よりも重要なのは、登場人物

たちの心理がいかに正確に描かれているか(心理のデッサンの緻密・

正確さ→copyright坂口安吾)が、その映画に対する評価に直結

します。最高クラスで、谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』(映画では

なく、原作の方)で、日記の記述者が、孫に『オジイチャン、ウデガ、

イタムノ?』と聞かれ、ベッドに寝たまま不覚にも涙をこぼし、それを

見つかるまいと反対側に顔を向けたら、余計に涙が出た、とのくだ

りを読んだ時に感じた気持ち。水木さんの登場人物の性格付け、

そして、心理の足跡の正確さは、瞠目するものがありました。


具体例を挙げたらきりがないので、この映画での香川京子さんに

関して記します。素晴らしいです。瑞々しくって、健康そのもので、

品の良い蓮っ葉な言葉(この表現は矛盾していないと思うのですが)

を鉄砲玉のように口に出し、今まで観た香川さんの演じたキャラクター

中で、いきなり最高位に就きました。明朗闊達と云う言葉を目に見せ

てくれているかのよう。特に、何回か披露する物まねでの芸達者振り

は必見。その前後の芝居も本当に上手い。その上、店やものの、

うどんを前にして、割り箸を振り廻しながら自説を力弁する姿のcuteな

こと! あまりに輝き過ぎている(この映画で香川さんの登場は、1シーン

だけです)ので、それ以降が少し中だるみして感じられたほど。原節子

さん、中北千枝子さん、根岸のあけみんたちが、それぞれの役割を

適切に演じているので――この映画には、魅力のある男性は登場

しません。特に原さんの夫役は、その人格風評通りの性格(に観える

芝居をしています、とフォロー)――最後まで観られましたが、ちゃんと

観て本当に良かった。

水木洋子さんのクレジットは『脚色』となっています。wikipediaに拠る

と、岸田國士さんの複数の戯曲をmix-upしているらしい。その才気

には畏れ入りました。

そればかりか、映画の舞台となっているのが、筆者が現在、従事し

ている職場の最寄駅(O線U駅)であることをwikiで知り、腰が抜けそう

になりました(郊外っていわれてるし)。明らかに木造の駅舎が映り、

『ヶ』の字だけ、読み取れたので、幡ヶ谷かなあ、と思っていたのです。




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達者な物真似芸の内一つ、

頭を掻く夫のマネを披露する香川さん

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