理利 ~FINAL~ その1 | ALPINE SKIER MAEDA SISTERS 公式ブログ 

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夢にときめけ 明日にきらめけ 目指せ世界一☆

 

 

◆上の記事は今から11年前。

小学1年生の理利を連れて、

初めて

朝里川温泉スキー場の

SLレースに

参戦したときの記事です。

 

先ずはぜひ、

上の記事を読んでください。

 

最後の一行に、

11年前の私が、

11年後の私、

今の自分に送っていた

温かいメッセージが

添えられていました…

 

 

◆令和3年2月13日~14日。

小樽市朝里川温泉スキー場。

 

英恋の今季初レースは、

今シーズンで

アルペンレーサーとしての

現役を終えることを

決意し、

今シーズン、

ほぼ全てのレースを消化した

理利が

「お手伝い」

として

朝里に帰って来た

レースでもありました。

 

 

◆前走で滑る理利の雄姿

 

 

◆11年前。

 

小学1年生の理利と

初めてここに来たとき、

周囲は

誰も知らない方ばかりで

とても不安でした。

 

小学1~2年生の部。

優勝 畠中ゆっきー

2位 松浦りお

3位 前田理利

 

4人中1名が途中棄権した

このレース。

ゴールした中では

最下位。

 

でも、この7年後、

中学生になった3人は

ゆっきー、りおと

一緒に

理利も全国大会に行く。

 

◆で、

昨日も久しぶりに

女子大生になってしまった

ユッキーに会えて

嬉しかった!

 

あの頃と同じ笑顔で

挨拶してくれたユッキー。

 

理利が中学2年生の

ユッキーと戦った

手稲のレースは

俺は一生忘れない。

 

ユッキー、

理利の分まで

頑張ってくれよ!

 

 

◆ときは2010年3月。

 

小学1年生の理利を

引き連れ、

誰も知らない朝里で

頼れるのは

当時、中学1年生の

弓野華緒

(チームピヤシリ)

カッコ良い

カオママだけでした。笑

 

不安いっぱいで

とりあえず

滑って来たrace。

 

◆レースを終えて

帰りの車の中で、

口を開けて爆睡する

理利の呑気な

寝顔を見ながら、

俺の一方的な

願望が叶い、

あと9年後、

理利が小樽へ

旅立ってしまったら…

 

◆沈む夕陽を見ながら、

そんなことを想像したら、

自然とポロポロと

涙が溢れて来る…

 

まだ35歳。

若い若い

父親としても

本当に未熟な

理利のお父さんがいました。

 

 

◆あれから11年後。

 

前田理利は北海道の、

いや、日本の

高校生ALPINESKI界では

知らない方がいないくらい

メジャー選手になれました。

 

この土曜日、日曜日と、

本当に大勢の方に囲まれて、

原田さんを筆頭に

あちこちから

「理利!理利!」

と、誰かに呼ばれる

声が聞こえました。

 

現役引退間際。

 

後に続く

後輩レーサーたちのために

理利の青春、雪春。

 

汗と涙が染み込んだ

朝里川温泉スキー場。

 

幸せそうに

お世話になった大好きな

朝里レッドを

コース整備する

理利の姿がありました。

 

◆まちがいなく、

理利にスキーを与えたのは

私です。

 

でも、そのSKI界で

今の立ち位置を

築いて行ったのは

間違いなく

理利本人の努力です。

 

幼稚園から小学6年生までは

名寄レーシングに所属しました。

塩見先生、桜庭先生に

指導を頂きました。

 

その後、

理利が中学1年生のときに

名寄レーシングは発展的解散し、

寺島ヘッドコーチが就任し、

名寄アルペンスキー少年団が

再結成されました。

 

 

◆寺島ヘッド、長野コーチ、

大山コーチ、泉谷コーチ、

塩見先生も残ってくれました。

 

新体制の若いコーチ陣の元、

寺島瑛介、前田理利は、

ガツガツ鍛え上げられ、

全国大会上位入賞の常連に!

 

その後に続く後輩も

結城圭哉、友兼涼輔、川島侑、

昨日は小学6年生の

宮田真采も見事に

ジュニオリ出場権を

獲得しました!

 

全国、全道の上位入賞。

 

◆結成3年を待たずして

数多くの選手が

全国大会表彰台に立ちました。

 

本当に素晴らしいチームに

所属させて頂き、

平成30年春、

前田理利は志を高く持ち、

玉川先生率いる

小樽双葉高校へ

進学をしました。

 

◆子供のころからの夢。

それは

オリンピックで金メダルを獲る!

 

本気でした。

 

◆糠平だったでしょうか?

 

理利が中学1年生のとき、

招集された

北海道スキー連盟の合宿でも

瀧下コーチから

「出るだけではダメ、

メダルを獲らなければ

意味がない!」

と、

強く言われていました。

 

本気でした。

 

日本のALPINESKI界の

歴史を変えたいと思っていました。

 

マスコミの注目度を

ジャンプでも

ノルディックでも

モーグルでもなく

アルペンスキーにしてやると

それは今でも思っています。

 

◆昨年の春、

コロナ禍で一ヵ月帰省したとき、

理利は自らの口で

私の前で

次の進路の決意と

アルペンスキー現役引退を

表明しました。

 

彼女の

キーパーソンとなる大人が

私しかいない中、

その言葉を口にすれば

即決で認められることは

承知していたと思います。

 

◆私に人並みの、

大人としての

経済力があり、

4年間、理利の競技人生を

サポートできるだけの

資金力が無かったこと、

更には

理利の後には

これまた世界を夢見て

高い志で

アルペンスキーに取り組む

元気いっぱいの英恋が

控えていること。

 

彼女なりに、

色々悩み抜いての

答えだとわかりました。

 

◆3年前、

理利を小樽へ送り出したとき

「世界で戦う選手になろう!」

 

そんな夢を持って

小樽に旅立ちました。

 

◆でも、

勝負の世界の現実は

それほど

甘くありませんでした。

 

言い訳は用意しません。

 

私もこんな

チャランポランな

父親ですが、

理利が履く弱音、

妥協、

そこだけは厳しい姿勢で

一切受け付けませんでした。

 

◆小さいころからの夢、

それが世界で勝つ、

オリンピックで金メダルを獲る、

 

残りの現役生活の時間と、

今の自分が置かれている現状、

繰り返される不甲斐ない成績。

 

それが

絶対に叶わない夢となった

現実を受け入れるとき、

理利はきっぱりと

引退を決意したのだと思います。

 

◆これを書いたら、

世の中の、

特にお母さん方に

よく怒られましたが、

子供のころから

理利は本当に

スキーの才能なんて

ほとんど無い子供でした。

 

スピードが怖い、

急斜面が怖い、

寒いのが嫌い、

スキーは嫌い、

 

板を横にして横にして、

安全運転で滑って来る、

ブレーキだけが上手な、

教えても教えても

まるで理解できない、

そんな子供でした。

 

◆人には生まれ持った

才能というものがあります。

 

その才能が

ずば抜けて

優れている人のことを

「天才」

と呼びます。

 

◆昭和58年1月6日(晴れ)

 

小学2年生の私は

この日、

家の前で

生まれて初めて

「ゲレンデスキー」

なるものに試乗し、

ビンディングの

踏み方だけを教わり

父が運転する

タバコ臭い(エコー)

車に乗せられて

美深スキー場に

連れて行かれました。

 

午前10時。

 

父の準一は

シーズン券を買い与えてくれて

「じゃ、4時に迎えに来るからな」

と言って、

私をスキー場において

Uターンして

帰って行きました。

 

さ、どうしましょうか?

 

◆ブレーキもターンもできない、

それどころか

昭和丸出しのシュールな

リフトにすら乗れない私。

 

それでも3,000円もする

高価なシーズン券を

買い与えてくれた

父のためにも、

私は何とかして

スキーに乗ろう、

必至でした。

 

昼飯も食わず、

必至で滑りました。

ターンも

ブレーキもできないので、

危ない時は転んで、

前方との

安全を確保しました。

 

かもい岳の

高速ロープみたいな

リフトに乗りながら

上手い人の真似をして、

必死で滑りました、

っていうか

転びました。

 

で、

リフトが止まる

4時に

本当にオヤジは

迎えに来ました。

 

これは奇跡でした。

本当に嬉しかったです。

 

◆日曜日なんか、

家に帰ると

いつも夕方には酒を飲んで

大声出して暴れている

北野菊次郎が

本当に迎えに来たのです!

 

10時に約束した約束を

16時まで覚えてくれた、

8歳の小学2年生は

本当にうれしかった。

 

だから最後の一本だけ、

上から下まで一度も

転ばないで滑れました。

 

◆才能

 

小学3年生になった翌年、

学校でスキー大会がありました。

 

サラエボオリンピックの年です。

 

初めてテレビで

アルペンスキーを見ました。

 

このわけのわからない

赤と青のつまようじを

すり抜けて来る

スキーの大会が

小学校で

あるらしいのです。

 

スキー少年団の奴らは

調子こいていました。

カッコ付けてました。

 

運動会やマラソン大会では

一度も負けたことが無い俺も

こんな赤と青の棒を

スイスイ滑るアルペンスキーは

初めての経験でした。

 

◆スキー授業で2~3回だけ

練習した記憶があります。

 

スキー大会本番。

 

優勝しました。

 

その後、

2月11日(祝)開催の

美深ジュニアアルペンスキー大会で

昭和の悪ガキ

50人が出ていた

3~4年生の部で

一学年上に混ざって

3位に!

始めてもらった銅メダル。

 

本当に嬉しかった!

 

◆ポール練習未経験の

雪山滑走小僧。

 

美深の山では負けなしの

絶対王者になりました。

 

小学5年生になって

母親から

ようやくスキー少年団への

入団が認められました。

 

粋って

和寒の大会に行きました。

 

優勝はできなくても

6位入賞くらいは

出来ると思いました。

 

◆そこで旭川から来た

川口城二という

とんでもない

スーパースターに、

あの小さな和寒の山で

10秒以上離されて

20番後半でした。

限りなく下位でした。

 

そこで自分の限界と

現実を知りました。

 

あれから30年以上が経過し、

理利のお陰で、

あの日のスーパースター、

旭川明成高校

川口城二先生とは

今、ようやく普通に

会話できるようになりました。笑

 

いつしかの4月2日に、

確か阿寒で

城二先生にお会いしたとき

「誕生日おめでとう!」

って言われました。笑

嬉しかった!笑

 

城二先生と私は

昭和49年4月2日生、

牡羊座。

 

◆あの日、

俺たちみんなの

スーパースター☆

ジョージ

との

不思議な御縁を感じました!

 

 

※張り切って書いていたら

文字数オーバー

2回に分けて書きます。

 

続き~

 

その2もぜひ、

お付き合いください。