大河ドラマ『麒麟がくる』7 海と信長 | シネマの万華鏡

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映画記事は基本的にネタバレしていますので閲覧の際はご注意ください。

 

今日こそ信長登場で脱中だるみ?と思いきや、今日もまさかの薄い話で終わってしまいました。。。

信長登場も最後の最後に一瞬だけ、それも初登場をここまで引っ張ったわりに絵的なインパクトはかなり弱め。

この先どうなる? やや本格的に心配になってきましたが、戦国ファンとしてはのりかかった船、眼を見開いて一年見守っていきたいと思います。(なんて言いつつ、帰蝶パートではちょっと泣きました・・・)

 

『麒麟がくる』第7回「帰蝶の願い」あらすじ(ネタバレ)

京から美濃に戻った光秀を迎えたのは、尾張の織田家からの和議申し入れ、そして和議の証しとして道三が娘の帰蝶を尾張に輿入れさせるというウワサでした。

最初の夫・土岐頼純を父斉藤道三に殺され、今度は和議の道具として敵国尾張へ嫁がされることになった帰蝶は、従兄弟の光秀にこの縁組を取りやめてくれるよう父道三を説得してほしいと頼みますが、光秀には道三の意思を動かすことはできず。逆に帰蝶の説得を命じられます。

一方、道三の嫡男・義龍は、稲葉一鉄ら美濃の国人衆と帰蝶の輿入れ反対派を結成しており、そこに光秀を引き入れようとする。

道三対義龍、道三対帰蝶の間の板挟みになって困惑する光秀を見た帰蝶は、折衷案として、婚礼の話に応じるかどうかはうつけと評判の信長の人物を見極めてからにする、ついては光秀に信長を見てきてほしいと頼みます。

そんなわけでふたたび百姓の姿に身をやつし、尾張に潜入する光秀。熱田の市で菊丸に再会した光秀は、信長は漁に出て朝船で戻ってくるという話を聞き、浜で信長を待ちます。

 

1回目の潜入で気づいてねって話も・・・

今回かなりげんなりしてしまったのは、第4回に尾張に潜入した光秀がまたしても尾張に潜入するというテンポの悪い展開。しかも前回までは京に行っていて美濃に戻ったばかりだというのにまた尾張へ・・・光秀大忙し、まさに明智探偵状態です。どうせなら前回潜入した時にウワサのうつけ者・信長に会っておけば、動線にムダがなかったんですけどね。

 

尾張って豊かだね!とか、海のある都市の市は賑わいが違う!なんてことも、1回目の潜入の時に気づかなかったかな~。

相変わらず八方美人で優柔不断な態度と相俟って、ちょっと光秀が鈍い子に見えてしまった今回の放送でした。

 

う~ん、美濃パートの光秀はガキの使いである

京へ行くと俄然生き生きと行動している光秀ですが、どうも美濃では動きが緩慢。受け身。

それが何故かを考えてみるに、結局のところ美濃パートは道三中心に話が動いているからかなと。

実際光秀に関する史実と言える話は美濃時代にはないも同然、史実を描こうとすれば道三や義龍が中心にならざるをえません。でまた本木道三がめっぽう魅力的ときていて(クレジットもトリですしね)、余計に光秀の影が薄くなってしまいます。

まあそんなわけで、今のところ光秀がガキの使い状態なのは仕方がないんですが、それにしても、もう少し世の中に対して疑問とかオブジェクションとかあってもいいと思うんですよね。

帰蝶が父道三が夫土岐頼純を殺したことをどう思うかと尋ねても「やむをえない」としか答えなかったり、尾張に嫁に行きたくないという帰蝶のために道三に食い下がるかと思いきや、「海がほしい」という道三に反論できなかったり・・・流される主人公は魅力がない。光秀には早く自分のよりどころを見つけてほしいもんです。

 

信長と海

今日はイケメンの追加投入もなかったので、日本史与太話でも。

今回信長登場はラストの一瞬だけでセリフも何もなく、結局本格的な登場は次回にひっぱられた形だったんですが、ひとつ印象深かったのは、信長を明け方の海から登場させたということ。

日本の近世の幕開けをいつと見るかは諸説ある中で、信長政権の登場をもって近世の幕開けとする見方があることを考えれば、今回の夜明けの海に信長が現れるシーンはまさに信長登場=新しい時代の幕開けを暗示したものじゃないでしょうか。

 

海と信長を結び付けたのは、道三の「(尾張の)海がほしい」という言葉にもつながっています。

信長(厳密にはまだ父親の信秀の時代ですが)は道三が持てなかった海=港を支配し、港から巨万の富を得ていました。劇中の話題にも出てきましたが、織田信秀は天皇が御所の塀の修理さえできずに困っていたところ、居並ぶ有力大名の中でも破格の修理費用を寄進して、経済力を見せつけています。

中世の闇に彗星のごとく現れる信長の、同時代人から抜きんでた政治・経済感覚は、父親の代から築き上げた富を背景にしたもの。そしてその富の源泉になったのが、海だったんですね。

 

もうひとつ、信長と海・船と言えば、すぐに思い出すのが、のちの石山本願寺攻めで海上からの攻撃に備えて信長が作った鉄甲船

淀川と大和川の河口デルタ地帯にあった石山本願寺は、寺というより巨大要塞。陸上で包囲しても海から毛利軍が兵糧を供給する、その上船で戦おうにも、毛利方の村上水軍の炮烙火矢に狙われたら木造船はすぐに燃え上がってしまう・・・ということで信長が九鬼水軍に作らせた、日本初の鉄の船です。

 

(石山本願寺合戦)

 

当時この船を見たポルトガルの宣教師オルガンチノの書簡にも「日本国中で最も大きく、また華麗で、ポルトガルの船に似ている。日本でこういうものが造られていることに驚いた」と書かれているそうです。

鉄船の造船という同時代の人が思いもよらない奇抜な発想も、信長が若い頃から船に親しみ、なおかつ情報の集まる港町で広い視野をはぐくんできたのだとしたら、納得できます。

 

織田弾正忠家の経済基盤

ところで、信長の父・信秀は、港湾からどんな形で巨万の富を得ていたのでしょうか?

当時の一般的な発想なら、海上に関所を設けるというのが1つの徴税手段。

『兵庫北関入船納帳』という有名な室町時代の史料があって、これは瀬戸内海を京都方面に向かう船舶に対して「兵庫北関」と呼ばれる関所で関銭を徴収した記録です。兵庫北関の関銭は東大寺の、兵庫南関の関銭は興福寺の収入になっていました。これを見ると、関銭は船の積荷の量に比例してかけられていたようです。だとしたら大きな船が出入りする港付近では、大変な関銭が入ることになります。

室町時代には京の入り口には膨大な数の関所が設けられていたと言いますが、海の上にも関所はたくさんあったんですね。港で停泊料や積荷に応じて税を取る「津料」と呼ばれる税もあったようです。

 

ただ、信長自身は関所を撤廃した人。同時に楽市・楽座で既存の座の特権を廃止し、自由に市に参加できるようにしたことでも知られています。

じゃあ彼は父親と違って富を吸い上げなかったのか?

関所も撤廃し、市の出店者から何の税も徴収しなければ、信長は物流や市の繁栄から利益を得られないどころか行政コストも出ない・・・それでは政権として旨味がありません。

当然のことですが、信長は慈善事業家ではないわけで、関所撤廃・楽市楽座とも、商業を振興してそこから信長政権が一元的に税を徴収するための仕組みだったと考えたほうが、その意味がはっきりと見えてくる気がします。つまり、税の軽減だけでなく信長政権以外の者に関所や特権的な座を設けることを禁止することで、徴税権を掌握することが一番の目的だったのではないかと。

それでこそ、彼は父同様に、それどころか父親をはるかに超える巨万の富を築けたのです。

(これは推測にすぎませんので、詳しい方がいらっしゃったらレクチャーお願いします。)

 

大河に一番期待できないのは経済的な切り口なんですが、最近は磯田道史の『武士の家計簿』など歴史✕経済という切り口もウケているので、信長の資金源についても描写があればいいなとちょっとだけ期待しています。