20世紀美少年図鑑(2)『太陽と月に背いて』のレオナルド・ディカプリオ  | シネマの万華鏡

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何故かあまり語られないディカプリオの衝撃作

本当はこの映画が撮影された時ディカプリオはもう20歳すぎていて、厳密には少年ではないんですが・・・そこは彼が演じているアルチュール・ランボーが10代(終盤まで)ということで、ひとつ大目に見てやってください(笑)

 

 19世紀のフランス象徴主義の代表的詩人、アルチュール・ランボーとポール・ヴェルレーヌの軌跡を描いた人間ドラマ。物語は、若く美しく才気溢れるランボーと、酒に溺れ狂暴な感情の爆発と内気な優しさという矛盾を孕むヴェルレーヌの奇跡的な出会いから、2年間に渡る同性愛の日々、その果てに来る別離と破滅、そしてランボーがアフリカを初めとする放浪の旅に出て孤独な死を迎えるまでを、壮大なスケールで描いてゆく。

(allcinema ONLINEより引用)

 

原作・脚本はイギリスの劇作家クリストファー・ハンプトン。

原作小説が発表されたのは1968年ということですから、イギリス(全土ではない)でソドミー法が廃止された翌年なんですよね。

そして監督は、アンジェイ・ワイダの映画ユニットに所属していたこともあるポーランド出身の女性監督のアニエスカ・ホランド。

監督が社会派出身というところが面白いんですが、考えてみれば、1995年当時の同性愛描写を含む作品というのは、セクシュアリティが同じ人が手掛けるか、社会派的視点かどちらかだったのかもしれません。

なんと、『ブリキの太鼓』のフォルカー・シュレンドルフが監督するという話もあったそうです。

 

異端児ランボーと、デカダンスを地で行くヴェルレーヌの生涯

1870年、16歳で家出し、パリへ向かったランボー。

当時すでに著名な詩人だったヴェルレーヌに出会い、詩作の才能を開花させるとともに、妻帯者のヴェルレーヌと激しい恋に落ちます。

映画では(ヴェルレーヌの頭部の後退度のせいか?)2人の間には相当な年齢差があるように見えますが、実際の2人の年齢差は10歳だったんですね。

 

ランボーが凄いのは、20歳までに普通の詩人の一生分の詩を書き、21歳になるかならないかで絶筆してしまったこと。つまり、この人生の始まりの時期に書いた作品だけでフランスを代表する詩人と言われるまでの評価を得、世界中で彼の詩が読まれ続けているということなんです。

 

絶筆したのはヴェルレーヌと別れて2年後。それからは兵士や翻訳家・貿易商など職を転々としながらヨーロッパから中東を放浪し、武器商人としてエチオピアに滞在していた時に骨肉腫を患い、帰国後に亡くなったそうです。享年37歳。

何故世界の詩人を心酔させるほどの才能がありながら、絶筆してしまったのか・・・誰もが惜しみ、不思議に思うんじゃないでしょうか。

 

下は17歳のランボーらしいんですが・・・

 

アルチュール・ランボー(1854-1891)

 

本人も美少年だったんですね(///▽///)

 

 

ヴェルレーヌの写真はあまりいいものが残っていないのですが、丁度いい遠目のやつがあったので・・・左がヴェルレーヌ、右がランボーです。

距離ちか~いキラキラ

 

映画では、プチブルの娘で若く美しい妻と結婚して守りに入っていたところにランボーに出会い、人生を破壊されたように見えるヴェルレーヌですが、実際のヴェルレーヌは多分ランボーに出会わずともミスター・デカダンス

彼はランボーと別れて教職に就いていた時、今度は生徒の美少年と恋に落ちます。当然学校はクビ。

その後ランボーの時と同じく少年と2人でイギリスへ渡ったり、その間あろうことか妻と和解をはかろうとしたり(妻には無視されたようですが)、またこの恋人が夭折した後には、女性に回帰して、彼女に逃げられたりヨリを戻したり・・・男と女の間をぐるぐる、ループ。

刑務所には少なくとも2回入っています。

最期は娼婦に看取られ、51歳で死去。

今ではヴェルレーヌと言えば世界で知らない人はいないほどの人なのに、生前は貧困にあえいでいたと言います。

それでも、死ぬまで恋人だけは絶やさなかった! 酒に女に男に暴力に・・・何故こんなやりたい放題の男についていく人がいるのかと思ってしまいますが、当時詩人ってモテたんですかねえ。

 

激突する剥き出しの愛のエネルギー

 

私はヴェルレーヌの詩というと太宰治の『葉』で引用された

「撰ばれてあることの  恍惚と不安と 二つわれにあり」

くらいしか知りません。この一節からはナルシスティックな一面しか感じられませんが、太宰治のデカダン師匠の1人だったんですね。

太宰が真似できなかったのはバイセクシュアル。

本作では、ランボーとヴェルレーヌ、そしてヴェルレーヌの妻のマチルダとの三角関係が赤裸々に描かれていますが、まあヴェルレーヌ、身勝手すぎ。

妻を殴る・蹴る、かと思えばランボーには「妻の体を愛してる」と言い放つ。

こんな男を若く美しい男女が何故必死に取り合うのか、不思議に思えるほど・・・ヴェルレーヌの魅力の分かりにくさがそのままこの作品の分かりにくさになっている気がします。

 

ただ、作中のヴェルレーヌは嘘はつかない。

妻もランボーもどっちも取りたいご都合主義、身勝手上等。これが本音だから始末に負えないんです。

一方、ランボーも全力でヴェルレーヌに向かって来る。彼もまた剥き出しの、抜き身のナイフのような少年です。

お互い剥き出しどうしの、全力のぶつかり合い。まるで闘牛のような愛?(笑)

この魂の激突の中でランボーの一生分の詩が生まれたということ、そしてヴェルレーヌと別れた2年後にすべてを出し尽くしたランボーが絶筆したことも、納得できる気がしてきます。

 

ランボーに「愛してると言ってくれ」と懇願するヴェルレーヌに、ランボーが、

「じゃあ、手をテーブルの上に置いて」

と言うなりヴェルレーヌの掌に思い切りナイフを突き立てるシーンは壮絶。

血が流れ、泣き叫ぶヴェルレーヌ・・・

これも、けして憎しみ合っているわけじゃないんです。これが、ランボーの愛。ヴェルレーヌの愛。

ここが2人の愛が最高潮に達したシーンだと、私は理解しています。

 

・・・なんだかBLのノリになってきましたね(笑)

勿論、原作・脚本ともクリストファー・ハンプトンですから、この作品自体はやおいじゃないんですが。

それにしても、男同士の愛にしばしばナイフが登場し、血が流れるほどに愛が深まるのは何故なんでしょうか。

流れる血の量が多ければ多いほど純粋・・・何かそういう図式がある気がします。

 

この、手にナイフを突き立てるシーンは創作だと思いますが、ランボーとヴェルレーヌがその後別れ話のもつれで喧嘩になり、ヴェルレーヌが持っていた拳銃でランボーの手を撃ったのは史実。

これも、愛しすぎていたからこそ・・・と思うわけです。2人の愛は文字通り命がけです。

 

あの頃、ディカプリオには羽根があった

 

実は私、ディカプリオって写真ではあまり美しいと思ったことがないんです。

富士額と筆で描いたような眉は綺麗だけど、ちょっと寸詰まりな顔。瞼も重たげ。口角が下がっていて不敵な口元は男としては悪くないんでしょうけど・・・う~ん。

ところが、この人はスクリーンの中で動き出すと途端に輝き始めるんですよね。

歯を見せて笑った瞬間、彼を取り囲むイルミネーションに電源が入って、ピカピカし始めるような・・・キメ顔とナチュラルな表情のギャップもいい。まさに映画仕様の人です。

 

この映画では、ヴェルレーヌに、

「一緒だよ」

顔を寄せて囁くシーンの甘えた表情が最高・・・彼の背中に羽根が見えた。

16歳の天才詩人にこんなイノセントな顔を見せられたら、誰だってセクシュアリティも変わろうってもんです。(まあ、ヴェルレーヌの場合は最初からウェルカムだった可能性が高いですが)

ディカプリオの顔は少女漫画的な輪郭だと思うんですが、この作品では同性愛展開やリボン付きの衣裳も手伝って、特にこの人をホーフツとさせます。

 

 

 

ジルベール!!

この人みたいに屈折はしてませんが、どこか似てませんか? 似てますよね?(///▽///)

 

イカロスとアブサン

羽根と言えば、『太陽と月に背いて』ではランボーをイカロスに見立てたシーンがあります。

終盤、白い大きな羽根をしょった彼が、太陽に向かって草原を歩いていく。

同じ羽根を持った存在でも天使じゃないのは、ランボーは異端者だから

でもそれだけじゃなく、太陽にも立ち向かうほどのランボーの爆発的なエネルギー、神をおそれぬ不遜さ、謎の絶筆・・・まさにイカロスの化身のように生き、燃え尽きた人だからでしょうか。

 

それと、この映画にはもう一つ印象的なメタファーが登場します。

それは、アブサン

度数の高い緑色の酒で、飲む時にはグラスの上に角砂糖を置いたスプーンを渡し、角砂糖を少しアブサンで湿らせてから、火をつけます。溶けた砂糖を酒に落として飲む・・・おいしそうですが、したたかに酔いそうですね。

ヴェルレーヌがランボーに教えた、この甘く酩酊する酒の味は、退廃的なヴェルレーヌの世界そのもの。

そしてランボーはその味をあじわい尽くすと、ヴェルレーヌのもとから飛び立っていってしまいます。

抜け殻になったヴェルレーヌが1人アブサンを飲むラストシーン。

お互いに与えあい、奪い尽くした2人、別れた後の人生は全て余生だったのかもしれない・・・と思わせるような締めくくり。

本当の2人は、どうだったんでしょうか。

 

もしヴェルレーヌの髪があと30%多ければ・・・

ランボーとヴェルレーヌという偉大な詩人カップルの、世紀のラブロマンス。

同性愛が社会的に受け容れられてきた今、この作品が再評価されてもいいと思うんですが、そういう気配が全くないのは何故なんでしょうか?

しかもディカプリオとデヴィッド・シューリスという大物同士のキャスティングなのに。

 

ただ、欲を言えばデヴィッド・シューリスのヴェルレーヌは老けすぎだったかな。

この役を演じた時、デヴィッド・シューリスは30代前半だったはずなんですが、ヴェルレーヌの額の後退に合わせておでこを剃り上げた結果、実年齢よりだいぶ老けてしまってるんですよね。

デヴィッド・シューリスほどの二枚目が、変態デカダンおじさんにしか見えない。

ヴェルレーヌに合わせすぎた? でも、ヴェルレーヌだってランボーとつきあっていた頃は20代だったんですよね。。。

 

もしヴェルレーヌの髪がフサフサで、デヴィッド・シューリスが素で彼を演じていたとしたら、今頃DVDが再販売されていたのでは・・・と思うんですが、でも、ランボーはあのレーニンみたいなおでこのヴェルレーヌに惚れてしまったんだから、仕方ないですよね。。。