アラン・ロブ=グリエ特集 「終わりなき反逆と遊戯の果て」・・・たしかに。 | シネマの万華鏡

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エロチシズムはロブ=グリエのキーワードですが・・・

シアター・イメージフォーラムで「アランロブ=グリエレトロスペクティブ」開催中。

日本初公開のロブ=グリエ作品6作を上映するそうです。

ブロ友さんがお知らせしてくださっていたので行ってみました。

 

ロブ=グリエは、アラン・レネの『去年マリエンバートで』の脚本家としてなら知っているという方が多いかもしれませんね。

 

 

私がロブ=グリエ作品と出会ったのは、この春、この記事を書くためにエロチックなフランス映画を探していた時。

たまたまその頃TSUTAYAの発掘良品でロブ=グリエ監督作の『危険な戯れ』(1975年)がピックアップされていたんですよね。

 

 

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こんな↑作品。

とある令嬢が拉致されて娼館に幽閉されるという設定ですから、当時私が求めていた内容、つまり危険で倒錯的なエロスが詰まった作品であることは間違いありません。

縄!?

犬!?

など、詳しいお話はできない類いの危ういアイテムが登場いたしますキラキラ

『エマニュエル夫人』のシルヴィア・クリステルはじめ、登場する女性たちがまた美しいんです。

 

しかしくれぐれも、『エマニュエル夫人』みたいな――根っこは社会派でありつつ魅惑的昼メロという――観賞者の手をとってやさしく奥の院まで導いてくれる作品を想像しないでください。

即物的な鑑賞者の眼を突き放すかのように注ぎ込まれるコメディ要素や不条理展開・・・じらしプレイ? いやいや、エロチックな絵が並ぶ迷路美術館をグルグル巡らされ、ナンセンスな徒労感を味わうのが本作の遊び方ですので、探しても奥の院は見つかりません。

遊び心を解さない俗物はAVでもごらんあそばせ、ぴしゃん。と鼻先で扉を締められたような感覚・・・観る側の期待にこたえるどころか、招き入れる人間を物凄く厳選してくる、会員制変態クラブみたいな映画(褒めてます)です。

アンチ・ロマンと呼ばれる実験的小説の代表作家でもあるロブ=グリエ、俗人を拒む作風は映画でも変わりません。

 

でも、このフランス語で愚弄される感覚がマゾッ子映画ファンにはたまらない!

・・・というわけでは全くないと思います(たぶん、私だけです)が、イメージフォーラムの『アラン・ロブ=グリエレトロスペクティブ』、24日は結構混みあっていました。

下の2作だけ観たので、簡単に感想を。

 

『不滅の女』(1963年・モノクロ)

休暇を過ごすためにイスタンブールを訪れた男(教師・中年)が、そこで若い美女に出会い、イスタンブールを「偽の街」と言う謎めいた女に執着を持ち始めるが、親しくなったところで彼女は忽然と姿を消す。

女を探し始める男。しかし、彼女を知っているという人間を紹介され、次々にたらいまわしにされた挙句に女は見つからない・・・ストーリーがあるとしたらそんな話です。

 

そもそも女は実在したのか、それともたまたま船で見かけた女のイメージを男が膨らませた妄想の世界の住人なのか・・・そうこうするうち、イスタンブールという街自体の存在も怪しくなってきます。

その「存在の怪しさ」が、イスタンブールが持つ(たぶん西洋人から見ると)いかがわしい魅力、異国で人に騙されたり、言葉が通じない不安と絶妙に重なり合っているのが面白い。

異国情緒たっぷりの迷宮を夢うつつの麻痺した意識の中で(実際睡魔がw)楽しむ感覚です。

 

人物を静的に捉えたカメラワークもとても独特。

印象に残ったのは、目を見開いた女の顔のアップ、それも同じカットが何度も挿入されること。マネキンのような貼りついた表情で、生気を感じない。

そこに男の思い入れは全く投影されていないし、女に対する執着よりもむしろトラウマめいたものを感じました。

パンフレットによればロブ=グリエは「視線派」とも呼ばれているそうですが、視線=視界と存在の関連について思いをめぐらせる端緒としても面白いかも。

ただし、あまり美しい映像だと思えないのは、彼がとことん様式美を嫌悪しているからでしょうか。

 

『ヨーロッパ横断特急』(1966年・モノクロ)

ジャン=ルイ・トランティニャン演じる男が、或る組織の指令でパリからアントワープまで麻薬を運ぶため、ヨーロッパ横断特急に乗る。

彼を監視しているかのような何人もの謎の男女の視線を浴びながら着いたアントワープで、娼婦のエヴァとSMプレイ。しかし彼女も警察に内通していて――

一方、この運び屋の物語と平行して、列車の中で映画監督とプロデューサー・脚本家が、運び屋を主人公とした映画を構想している場面が進行します。

 

運び屋の男のシーンは、まるで映画監督たちの構想を映像化したもののようでもあり、全く独立に進行しているようにも見えます。

『不滅の女』は、実在と妄想の境界の曖昧さを楽しむような作品でしたが、こちらも、どこまでが劇中劇なのかが分からないもどかしさを、コミカルなテイストで味わう類いの作品。

クライマックスの、運び屋の男の抱える罪悪感を赤裸々に明るみに引き出した絵ヅラに、ロブ=グリエの強烈なブラック・ユーモアのセンスを感じました。

 

劇中、中をくりぬいて拳銃を隠した本から銃を取り出すシーンで、開いたページの上部に『マーニー』という文字が映し出されるんですが(本の表紙には『恐怖』という表題が見えます)、ここはパンフレットによるとヒッチコックの『マーニー』に対する批判。

ロブ=グリエいわく「俗流心理学に満ちた極めて出来の悪い映画」=『マーニー』に、「一種のフロイト的冗談」として拳銃をしのばせたのだそうです。

フロイト心理学での拳銃の意味・・・お分かりですよね?

つまり『マーニー』製作当時主演のティッピ・ヘドレンにヒッチコックが抱いていた下心を嗤った・・・という手厳しいもの? その事実は知らなかったけれど、なんとなく作品に漂う違和感を嗅ぎとっていたということでしょうか?

 

こういう隠しモチーフは言われなければ分かりませんが、要はこのテの「遊び心」も盛り込まれた映画だということ。

なかなか疲れますが、疲れる映画もたまに観るといい刺激になりますね。