『きみの鳥はうたえる』 水のように生きる「僕」の孤独 | シネマの万華鏡

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函館三部作のシネマアイリス発

石橋静河は日本の若手女優の中で一番好き。なんならお母さんの原田美枝子よりも好き。

タイトルとキャスティングを見た時点で、これは観なきゃと思いました。

映画館発の映画・函館三部作と同じく函館のシネマアイリス(代表:菅原和博氏)が製作した作品なんですね。

原作も函館三部作と同じ佐藤泰志。

公開が丁度旅行と重なって封切館では観られなかったんですが、ユジク阿佐ヶ谷まで来てくれたのでようやく観賞。
あ、この間発表された報知映画賞ノミネート作にも作品賞候補で入ってましたね。

「そこのみにて光輝く」などで知られる作家・佐藤泰志の同名小説を、柄本佑、染谷将太、石橋静河ら若手実力派俳優の共演で映画化した青春ドラマ。原作の舞台を東京から函館へ移して大胆に翻案し、「Playback」などの新鋭・三宅唱監督がメガホンをとった。

函館郊外の書店で働く“僕”と、一緒に暮らす失業中の静雄、“僕”の同僚である佐知子の3人は、夜通し酒を飲み、踊り、笑い合う。微妙なバランスの中で成り立つ彼らの幸福な日々は、いつも終わりの予感とともにあった。主人公“僕”を柄本、友人・静雄を染谷、ふたりの男の間で揺れ動くヒロイン・佐知子を「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」で注目された石橋がそれぞれ演じる。

(映画.comより引用)

 

函館に原作の舞台が重なる

 

今年観た新作邦画の中では一番好きな映画です。もしかしたら私のオールタイム・ベスト入りするかも。

直感的に、私が日本映画を好きだった時代の映画みたいな雰囲気を持った映画に思えました。

1987年の市川準の「BU・SU」とか?

監督は30代前半で、みんなスマホでLINEやってて今が舞台なのに・・・ああなるほど、原作が1982年の作品だからなのか。

ちゃんと昭和の匂いがする。80年代か・・・いや、多分もっと前。

この強烈な原作臭

面白いもんです。

 

それからこの映画に出てくる居酒屋とかクラブとか弁当屋とか本屋とか、全てが、まるで自分の記憶の中にある光景をスクリーンに映し出されたかのような懐かしさ。

その理由も原作に由来しているということが後で分かりました。

映画の舞台は函館ですが、原作の舞台(多分佐知子が住んでいる)は、東京の、私が学生時代に住んでいた街でした。そして監督も、学生時代同じ街で過ごしていた。

何故あの街を撮っているわけでもないのに、たしかにあの場所の空気を感じるのか・・・そのことに驚きと興奮を感じました。

多分、20代のはじめにあの街に住んだことがある人なら、私と同じことを感じるんじゃないでしょうか。

おかしいな、あの街と同じ匂いがするぞって。

 

そういう個人的な経験が重なって、私の中でこの映画の「好き」が出来あがっている部分もあるということ。

それを差し引いたら、どうでしょう?・・・多分それでも、「好き」が枯渇することはない気がします。

映画の中で好きだった、彼らが住んでいる街の坂道のゆるやかな傾斜・・・あの坂道の角度は、記憶の中の光景にはないから。

直感的で無責任な言い方をすれば、とても文学に歩み寄った映画だと思うんです。そこがたまらなく好き。

 

水のように生きる「僕」の孤独

どこか浮遊感がある冒頭のシーン、それが後々じわじわと効いてくる構成。だんだんと登場人物それぞれの痛みが見えて来る・・・そのズキズキ感がいい。

 

本屋のバイトをサボって同居人の静雄と映画に行った「僕」は、静雄と別れた帰り道で店長と同僚の佐知子に出くわします。

店長に小言を言われた後、別れ際に佐知子が静雄の肘をつねっていく・・・

その佐知子の行動に何かを感じ取った「僕」は、120数える間に彼女が戻って来なければ立ち去ろうと、数を数え始めます。

1、2、3、4、5・・・115、116・・・

すると本当に、息を切らしながら「僕」を見上げる佐知子が目の前に。

「今夜、会いたいわ」

「いいよ」

普通ならそこへ辿り着くのに必要ないくつものプロセスを飛び越えて、2人は約束を交わします。

でも、「僕」が約束の場所に現れることはない・・・

 

原作通りのこの導入部の中に、これから始まる2人の関係の全てが凝縮されている気がします。

2人の関係に静雄が絡むようになってからも、「僕」と佐知子の距離感は変わらないように見える。

「僕」がモノローグで語らない言葉の中に、「僕」と佐知子のいびつな関係の中に、「僕」のやさしさ、敏感すぎる心、そして孤独の痛みに静かに耐え続ける彼の姿が、あります。

 

この小説が書かれた頃、「モラトリアム人間の時代」という本が出て、この言葉が流行しました。モラトリアム人間とは「年齢では大人の仲間入りをするべき時に達していながら、精神的にはまだ自己形成の途上にあり、大人社会に同化できずにいる人間」。

まさに、フリーターであり続ける「僕」そのものに見えるし、当時も今も、「僕」はモラトリアム人間と受け止められているのかもしれません。

 

ただ、100%否定はしませんが、それは少し違う気がしています。

「僕」は時々怒って、人を殴る。

「僕」には確固とした「僕」があるんです。

彼が前に進まないように見えるのは、いろんな人の想いが見えすぎてしまうから・・・私にはそう思えます。

佐知子の想いも、静雄の想いも、分かるから、「僕」はそれを受け止める水や空気になろうとした。

 

映画では、そう見える部分とそう見えない部分がありますが、きっと原作の「僕」はそうなんだろうと思ったし、小説を読んでみて、多分、はずれてはいないという確信を持ちました。

だから、私に言わせれば、映画版で付け加えられたあのラストシーンは迷走としか受け止められません。

 

ついでに言えば、「僕」に柄本祐はミスキャストだと思う・・・少なくとも、ラストシーンを除いて、彼はどこか「僕」とシンクロしていない気がしてしまうんです。

そもそも彼は本屋でアルバイトーーパン屋でアルバイトする人がパン好きだったり、引越し屋でアルバイトする人が引越し好きなんてことはないけれど、本屋でアルバイトする人は本が好きですよねーーなんかしそうに見えないし(笑)

 

「僕」は明らかに原作者の佐藤泰志で、41歳で自らの命を絶った、この世に生きにくい人。

生きていくためにはもっと人と争ったり傷つけたりしなきゃいけない、ラストシーンの「僕」のように。

映画としてはとても座りのいいラストシーンなんだけれど、あのせいで「僕」はそれまでの「僕」とは分離してしまったような気がしました。

そこは、「僕」ははじめから「僕」の尺度(社会では全く認められないけど)で誠実な人間で、本当の意味での誠実さ、そうあろうとする「僕」の生きにくさを原作は伝えたかったのではないかと思っている私と、彼に脱皮させたいと思った監督の、感覚の違いなのかもしれませんけどね。

 

北海道の短い夏

 

『そこのみにて光輝く』もそうですが、この映画も季節は夏。

雪深い函館を舞台にした映画だとは、映画の中で駅が出てくるまで、分かりません。

でも、短い夏の後に来る雪の季節の気配を感じるだけで、この物語の情感が深まります。

「ねえ、若さって、なくなっちゃうものなのかな?」

という佐知子の言葉(これは原作にはない)とも、響き合っている気がします。

 

そう、若さって、あぶくみたいに消えてなくなっちゃうものなんです。

まだ答えを知らない(知ってはいても自分の身に起きるとは信じられない、と言うほうが正しいかな)佐知子の若さゆえの傲慢さも、短い夏の輝きに重なって、せつなく胸に刺さります。

 

20世紀へのノスタルジーを引きずった21世紀

柄本祐、石橋静河、染谷将太というキャスティングは、いかにも過ぎるところはあるけれど、やっぱり魅力的。結果として柄本祐は「僕」には合わないと私は思いましたが、石橋静河と染谷将太は役にもハマっていましたしね。

 

上にも書いたとおりこの映画には21世紀を舞台にしながら20世紀的な匂いがすごくしていて、そこが、新しくも見えればレトロな世界観にもハマるこの3人の持ち味に合っている気がするんです。

それと、完成されてるのに未完成であり続けるオーラ、かな。

 

宣材画像では分かりにくいですが、映像の色調はセピア系。そして雨がしきりに降る・・・作品のトーンからして、とてもノスタルジックなんですよね。

監督インタビューにもある通り、この作品は原作を「今の函館の空気の中で」捉えなおしたもの。

そう言いつつ、20世紀的なものを残した部分が多々あるのは何故なのか、その疑問の答えは最後までよく分かりませんでした。

もしかしたらこの3人の関係性は、20世紀の空気の中でしか生きてこないものなのかもしれない・・・そんな気もしています。

私はこの作品の「20世紀を切り捨てられない逡巡」も好きなんですが、人によっては中途半端に感じるかもしれません。

 

全部肯定はできない。この手のセンシティブな文芸映画にありがちな、無印良品のテーマ曲みたいな音楽も、いい加減脱皮してほしい。邦画って音楽がおざなりだといつも思います。

でも、あれこれ言いたくなってしまうのも、この作品が好きだから。

あれこれ言っておいて「オールタイム・ベスト入りかも」なんて矛盾しているようですが、私の中では1ミリの矛盾もありません(笑)

 

シネマアイリスの函館映画はこれで一区切りだそう。

またこういう高感度な企画が出てきてほしいですね。