大島渚監督『戦場のメリークリスマス』は公開当時どう評価されていたのか? | シネマの万華鏡

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ついこの間、午前十時の映画祭でかかっていましたね。

今回は見逃しましたが、劇場観賞を含めて何度も観た大好きな作品です。(以前書いた記事はこちらです。)

大島渚の監督作の中ではマイ・ベスト、邦画の中でも私的ベストテンは固いですね。

 

今回ちょっとワケあって、戦メリが公開当時どう評価されていたのかを調べてみました。

参考にしたのは、例によってキネマ旬報です。

この映画に関しては当時のキネ旬でも大きく扱われていて、表紙に取り上げられているだけでなく、批評特集も。

「傑作か、失敗作か」というサブタイからしても、当時賛否両論があったことが伺えます。

 

評者として選ばれたのは、「証言者」としての文化人7人と、「批評家」3人の計10人。

■証言

・池野忠央:大学教員(元NHK職員)「映像の妖怪を垣間見た」

・大石芳野:報道写真家「あらためて問い直す「大東亜戦争」」

・雁屋哲:漫画原作者「燦然と輝く坂本龍一」

・川本三郎:評論家「見てはならないものを見てしまった」

・今野雄二:映画・音楽評論家「フラッシュバック・トゥ・ボウイ」

・佐木隆三:小説家・ノンフィクション作家「ビートたけしの凄味」

・横尾忠則:グラフィック・デザイナー「イメージのオリジナリティ」

 

■批評

・尾崎秀樹:「映画の計算を超えた迫力を持つ新しい実験」

・筑紫哲也:「やりきれなくも愛おしいたけしの笑顔」

・佐藤忠男:「戦争の犯罪者<国家>を追求する大島の視点」

 

まるで事前に申し合わせて分担したように、それぞれ違う角度からのバラエティに富んだ意見が出ていて、読み応えがありました。

 

戦メリで大島渚が描いたのは男の友情か?ホモセクシュアルか?

 

まず最初にたしかめたかったのは、これです。

というのは、以前書いた記事に対して、匿名の方から「男と女ではこうも見方が違うものか。男の友情というものがわかっていない。同性愛と決めつけるべきではない」というコメントを頂いたことがあって、この映画を今後ともホモセクシュアルな映画にカテゴライズしていいのかどうか、第三者の意見が知りたかったんです。

同じ大島作品でも『御法度』には明らかに男同士の絡みがありますが、『戦メリ』の場合はそれがないので、友情と捉える人がいてもおかしくないですしね。

 

ところが拍子抜けしてしまったことには、この件に関する10人の意見は、

「『真夜中のパーティ』の世界を軍隊の中でとらえたのがこの作品と言えそうだ」(大石)

「この映画の眼目は坂本龍一扮するヨノイとデヴィッド・ボウイ扮するセリアズとの恋愛ドラマだ」(雁屋)

「この映画は「戦場のホモセクシャル」という危険な主題に手を触れた実に意欲的な作品」(川本)

「ヨノイはセリアズに異常なほど魅せられ、それが同性愛的欲求になる」(佐藤)

など、同性愛を含んだ内容だとはっきりとコメントしている人が多いんです。

同性愛に触れていない人はいますが、少なくとも「同性愛ではなく友情だ」という意見はありませんでした。

 

ただ、この1カ月くらい同性愛ものをうんと観て、それぞれの作品の位置づけを考えてみた中で言うと、『戦メリ』や『御法度』は、他のLG映画とははっきりと性格が違う作品だという気がします。

どちらがいいという話じゃなくて、大島渚のゲイ映画は、社会問題としてのLGBTや、ひとつの恋愛の形としての同性愛を描いた作品ではなくて、社会の矛盾の切り口のひとつなんじゃないかと。

ゲイの目線に寄り添っているわけではなく観念的な構図で描いた作品だけに、自身ゲイである人には共感しにくい作品かもしれません。

 

『戦メリ』のテーマって?

それにしても、当時誰もこんな映画を観たことがなかったんじゃないでしょうか。

少なくとも型通りの作品じゃないことは、キネ旬の証言者・評者の方々の見方もそれぞれ全然違う、というところに如実に表れています。

その中には、私にとっては違和感があったものから、自分の感覚にピッタリくるものまで。

 

私が一番違和感を感じたのは、上にも書いた雁屋哲氏の「この映画の眼目は坂本龍一扮するヨノイとデヴィッド・ボウイ扮するセリアズとの恋愛ドラマだ」という意見。

え?おまえの言ってることそのままじゃないか、と言われそうですが、それが主題ではないし、ヨノイとセリアズは物語の中心というよりも美しきシンボルで、もっと具体的に物語のテーマを表現しているのは、ハラとローレンスのほうなんじゃないかという気がしています。

なお、雁屋氏の意見はこう続きます。

「ヒステリーのオカマ(ヨノイ)と自閉症の男(セリアズ)の恋愛などという物が面白いドラマになるはずもなく(中略)、それほど卑小な肉付けしか与えられていないのに、坂本龍一は燦然と輝いている」

 

筑紫哲也氏が試写の後のインタビューで「口走ってしまった」と自嘲気味に語っている「もしかしたらこれは日本人による反日映画かもしれない」というのも、なんとなく違和感が。

たしかにこの映画には日本人の暴虐も描かれていますが、その反面、日本人の清冽で美しい一面も描かれています。

そして、その両極端をどちらも演じているのがたけし扮するハラ軍曹だということ。

ラストシーンでも圧巻の存在感を示すハラ。たけしがハマリ役だというだけでなく、ハラはこの作品にとってすごく重要な役柄なんですよね。

 

逆に、私が感じていたことを書いてくれていたのが、川本氏。

「監督は坂本龍一(ヨノイ)を国家の犠牲者として追悼しようとしているのか、国家を超える契機をホモセクシャルで逆説的につかんだ、日本を超えた個人として追悼しようとしているのか。ここでもまた国家か個人かの二律背反に悩まされる。」(川本)

 

 

ちょっとまわりくどい表現ですが、要は本作は国家の意思と個人の意思のせめぎあいをテーマにした話だと思うんです。

国家の意思を遂行していた軍人が、同性愛という個人の意思に目覚めてしまった時、戦争の論理が崩れてしまう。そういう角度からの、反戦映画なんじゃないかと。

だから、友情ではなく、同性愛じゃないとダメなんです。

友情よりももっと衝動的で、もっと個人的な感情じゃないと・・・

 

 

ただ、『葉隠』にも同性愛に係る記述があるように、日本の文化の中では、同性愛は敵ではなく味方どうしの間なら、男同士の絆を深める行為でもあります。

『戦メリ』にも、ヨノイの部下で、彼のために割腹自殺する男が登場しますが、この男の存在は同性愛がホモソーシャルな組織において両刃の剣として作用する事実を象徴しているんじゃないでしょうか。

同性愛のそういう一面を切り出したのが『御法度』なんだと思います。

 

ハラとローレンスの関係をどう見るか

 

キネ旬の証言者・評者はだいたいヨノイのセリアズに対する感情を同性愛と認識しているんですが、ハラのローレンスに対する感情を同性愛だと書いている人はいません。

唯一、今野氏が「ボウイ及び(中略)坂本の<死>のカップルと、トム・コンティとビートたけしの<生>のカップルの対比」という言葉を使っているくらい。

その今野氏も、その「対比」がどんな効果を生んでいるのか、ということには触れていないんです。

 

個人的には、ハラのローレンスに対する感情も同性愛だと思っています。

ハラの言葉の端々にそれが匂わされているというだけでなく、もしこの作品のテーマが上に書いたとおり「国家の意思と個人の意思」ということだとしたら、ヨノイ&セリアズとハラ&ローレンスという2組の関係で同性愛と友情とを対比させる意味はありません。

ちなみに今野氏は2組を「生」と「死」の対比だとされていますが、実際はハラも死にゆく人間で、そういう対比でもない気がします。

 

私は2組の対比は、ヨノイ=エリート将校とハラ=特別な教養も身分もない一介の兵士との、愛の示し方の違いにあると思っています。

ヨノイは自己崩壊=戦争の秩序の崩壊を恐れてセリアズを殺してしまう。

一方、ハラはローレンスに「おまえが死んだら俺はもっとおまえを好きになる」と言いながら、いざとなると身の危険をおかしてもローレンスを助けています。

どちらも愛に根差した行為だからこそ、この対比が際立つと思うんです。

ヨノイは最後まで、国家の意思から逃れられなかった。ハラとの対比によって、そこにエリートの限界が見えてきます。

ラストシーンの意味

明日は絞首刑になろうというハラが、留置場に面会に来たローレンスとしばし昔話を楽しみ、別れ際に告げる言葉「メリークリスマス、ミスター・ローレンス」

あまりにも有名なラストシーンです。

この映画には解釈に悩むシーンが多いんですが、とりわけインパクトが強いあのラストシーンをどう解釈するべきか?

これは、本作を観た人誰もが関心をもつ問題じゃないでしょうか?

 

公開リアルタイムでの映画雑誌ということでさすがにラストシーンに触れることははばかられたのか、残念ながらキネ旬の特集であのシーンの解釈に詳しく触れた人はいませんでした。

ただ、たけしの顔を「あれこそ日本人の顔だ」と見る意見は一致していて、彼を日本人全体に重ねる意見や、彼の圧巻の存在感を絶賛する声が多かったですね。

 

面白いのは、あのラストについて

「木に竹をついだフィナーレ」(池野)

「醒めたいい方をしてしまえば、ハラの最後のロレンスへの呼びかけも「西欧人の見た「日本人の西欧コンプレックス」に見えてしまうのだ」(川本)

という意見があること。

実は、私も昔観た時は川本氏と同じように、たけしの言葉に何か卑屈な印象を持っていました。

ただ、3年前に観直した時、あのラストシーンは中盤たけしが同じ言葉をロレンスに言うシーンとつながっているということに気づいたんです。

処刑される運命にあったロレンスを助けた後、したたかに酒に酔ったハラが初めて英語を口にする。しかも、彼なりに精一杯の与える愛の言葉を・・・それが、「メリー・クリスマス」なんですよね。

最後の最後にもう一度「メリークリスマス」。

たしかに「木に竹をついだ」ような唐突な感じはしますが、戦争で多くの人を殺し、明日は処刑されようとするハラの中に実は芽生えていた、個人の意思としての与える愛の感情は、ハラにとって人生の意味そのものだったのではないでしょうか。

彼の最期の言葉に、これ以上なくふさわしい一言だと思えてなりません。

 

ハラの笑顔の余韻の中で始まるエンディングのテーマ曲は、誰の上にもわけへだてなく降り積もる雪を想像させる、ピアノの調べ。

大いなるものに抱かれるような深い深い感銘へといざなわれるエンディングです。

30年早かった

この映画が突き付けてくる戦争と同性愛というテーマは、川本氏も書かれているように「危険な主題」です。

何故危険かというと、あまりにも本質的な問題だから。

この問題と向き合うと、かつて世界で同性愛を禁じていたさまざまな法律(「ソドミー法」と総称されます)の多くが、禁止の対象を男性同性愛に限定していた事実にも、何か(今となっては否定されるべき)男性中心の伝統的な社会秩序の根幹にかかわる理由があるのでは?と思えてきます。

 

この映画が公開された1983年には、まだ同性愛を正面から捉えてこの作品を議論することがはばかられた時代でした。

でも、上にも書いたとおり、この作品にとって同性愛は、「友情」では代替できない、もっとも重要な要素です。

同性愛を正面から語れる時代になった今こそ、もう一度考え直す価値がある映画じゃないでしょうか。

そう考えると、作られるのが30年早すぎたんですかね。

 

キネ旬の中で横尾忠則氏が、「自分はテーマやストーリーは映画にとって重要じゃないと思っている。映画を観る時にはその監督のイメージのオリジナリティを重視する」とした上で、「大島さんは日本で唯一ぼくの期待する監督だ」と書かれています。

私にとって映画はテーマが重要で、観終わった後にくっきりとテーマが見えてくる作品が好きなんですが、大島渚の映画はまさにそれ。それが大島映画が好きな一番の理由です。

まあ強引にまとめると、いろんな価値基準や捉え方があることを前提にしても、大島渚はやっぱり凄い!ということでしょうか。

観ていない作品も多いので、これを機会にコンプしたいですね。