『黒猫・白猫』 セルビアの抑圧された社会とひまわり | シネマの万華鏡

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待望のエミール・クストリッツァ特集

いつも絶対観たくなる特集をやってくれるミニシアター・ユジク阿佐ヶ谷で開催中のエミール・クストリッツァ特集で『黒猫・白猫』(1998年)を観てきました。

『ジプシーのとき』(1989年)も観ましたよ。

あとは『アンダーグラウンド』(1995年)を観賞予定です。

 

エミール・クストリッツァの映画は、今年公開された『オン・ザ・ミルキー・ロード』が面白かったので、その後『ライフ・イズ・ミラクル』など何本か観たんですが、舞台になっている旧ユーゴスラビア諸国の近現代史や文化が分かるともっと突っ込んだ見方ができるんだろうなぁ・・・という思いもあって、記事にできずにいました。

でもついに見切り発車(笑)

 

(今年公開の『オン・ザ・ミルキー・ロード』では監督自身が主演を務め、モニカ・ベルッチと共演)

 

クストリッツァ本人はサラエヴォ(現在はボスニア・ヘルツェゴビナ)の出身。

サラエヴォというと第一次世界大戦の引き金になったオーストリア皇太子暗殺事件で知られていますが、歴史上ものすごくいろんな国になった都市でもあるんですね。

19世紀以降だけでも、オスマントルコからオーストリア=ハンガリー帝国へ、そしてユーゴスラビア、その後クロアチアとなり、再びユーゴスラビアになって、1992年にユーゴから独立した後もモメにもめて何度か体制が変わっているという。

 

社会主義体制の重石がはずれると途端に民族紛争が勃発、という予想された通りのコースを辿ったユーゴは、結局跡形もないまでに小国に分裂してしまいました。

西の人間から見れば社会主義体制は悪・資本主義こそ善ですが、必ずしもそうなのか?

そういう問いかけも、この作品は投げかけている気がします。 

 

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ただ、そんな複雑なお国事情を背景に描きつつも、エミール・クストリッツァの映画には小難しい話は一切なし!

人間の騒動に動物たちも参加してくる楽しさ、ファンタジー風味の奇想天外なストーリーは、現代のお伽話のような独特の味わいで、中毒性があります。

 

『黒猫・白猫』は、セルビア東部のドナウ河畔に住むロマ(ジプシー)の男三代の家族が主役。

一家の大黒柱のはずのマトゥコはバクチ好きで、マフィア(皮肉をこめて「愛国的実業家」と呼ばれている)のダダンに全財産を奪われるていたらく。

マトゥコは名付け親のグルガ(こちらもマフィア)に助けを求めます。

しかし、ダダンが厄介者扱いしている妹と、彼女の婿として白羽の矢を立てられたマトゥコの息子ザーレとの結婚話は、有無を言わせず進行中。

ザーレにはイダという将来を誓った恋人がいるのに!

2人の恋はこのまま引き裂かれてしまうのか――――

 

(グルガ(左)とマトゥコ(右)。BLみたいなことしてますが、グルガはマトゥコの父親の親友)

 

闇に牛耳られた閉塞的な社会を、突き抜けたコメディ・タッチで

『オン・ザ・ミルキー・ロード』にも『ライフ・イズ・ミラクル』にもマフィア風の地域のフィクサーと白い粉が登場しましたが、『黒猫・白猫』にもマフィア&白い粉の出番がたっぷり。

マフィアと麻薬や政治との結びつきは、旧ユーゴ地域の一面でもあるんでしょうか?

本作に登場するマフィア・ダダンも「愛国的実業家」として羽振りをきかせ、王者のように振る舞っています。

彼に何もかも奪われながらもへいこらしているマトゥコの情けないこと!

でも、現実にダダンみたいな人間に逆らうことは死を意味するんでしょうね。

劇中で何度もダダンが叫ぶ、

「自由万歳!」

という言葉も、本当は自由じゃない社会でしか耳にしない、抑圧の象徴みたいなものです。

 

しかしマトゥコの息子ザーレは、父親と違ってどうにかして他人に支配されない自分の人生を掴もうとします。

世の中に逆らえない父親と閉塞的な社会に突破口を見出そうとする息子の軋轢、町の実質的な独裁者ダダンの暴力との戦いが、お伽話のような陽気さとナンセンスタッチで描かれていくのはエミール・クストリッツァの作品に共通するトーン。

このクストリッツァの作風は、他の追随を許さないものがあります。

共産主義に民族紛争に闇社会支配にと、時代に社会に翻弄され尽くしたバルカン人の作品だからこそ、悲壮感を突き破った明るさが心に沁みるんじゃないかという気がします。

 

(タイトルの意味が分かる白い花嫁と黒い花婿の姿。猫は自由の象徴でしょうか。)

 

ミクロ視点の時は人間で、マクロ視点はガチョウで表現。

動物園ものかというくらい動物の登場シーンが多いのもクストリッツァ作品の楽しさですよね。

特に、毎回のように登場するガチョウと、その印象的な使い方には脱帽です。

 

戦場となった村が舞台の『オン・ザ・ミルキー・ロード』では、ガチョウたちが屠殺された豚の血を溜めた桶(多分血も何かに使うんでしょう)で水浴びして血まみれになる映像にド肝を抜かれ、社会の底辺から這い上がれないロマの生涯を描いた『ジプシーのとき』では、飛べないガチョウの羽ばたきに切なさが募る。

ガチョウは首をそらしてトテトテと歩きまわる姿を眺めるだけでも画面におかしみを添えてくれる名バイプレイヤーですが、クストリッツァのガチョウは、抑圧された国家に飼われている人間たちのメタファーとしても使われているように思えます。

滑稽で可愛くて、そして哀しい、飛べない鳥たち。

コメディと悲劇の両面が共存しているクストリッツァ作品に、ガチョウほどふさわしい動物はいないんじゃないでしょうか?

本作でもガチョウ大活躍で、便所(どっぽん式)に付き落とされたダダンがガチョウで体を拭くシーンはガチョウが気の毒すぎ・・・と思いつつも、つい笑ってしまいます。

 

社会主義体制の残骸を食い尽くす資本主義の豚

昔の東欧世界の映画には、暗に社会体制を批判するメタファーが忍ばされていたり、何か独特の政治色があるものが多かったですよね。

あまり尖ったムードはないクストリッツァ作品ですが、風刺的な要素はそこかしこに散りばめられていて、本作には道端に捨てられた自動車を食い尽くす豚というパンチの効いたメタファーが挿入されています。

豚が食べている車は、旧東ドイツで生産されていたTrabant。まさに社会主義時代の象徴です。

豚は資本主義か、資本主義に乗じて台頭してきたダダンのようなならず者でしょうか?

観終わってみれば明るさのほうが後に残る作品ながら、根底には社会への怒りが深く沈殿していることを覗かせてくれるシーン。それでいて、絵ヅラがなんとものどかで、ここでもまたクスッと笑わせてくれる・・・この柔軟さが長く愛され映画であり続ける所以なんでしょうか。

 

(おいしそうです)

 

わざわざ「ハッピーエンド」と書かれたラストシーン、しかし、この社会に対する深い絶望感は色濃くたちこめています。

「ここには太陽がない」

というザーレの祖父の言葉が、太陽に埋め尽くされたようなひまわり畑の光景との対比で心に刻まれた映画。

第二次世界大戦からユーゴ内戦までの激動のユーゴスラビアを描いた『アンダーグラウンド』もすごく楽しみです。

 

余談:「ヘルプマーク」って知ってますか?

 

闘病しながらお仕事も続けていらっしゃるブロ友さんが「多くの人に知ってほしい」と拡散を希望されていましたので、ヘルプマークのご紹介。

実際に闘病中の方には、切実な問題だと思います。病気は誰もが遅かれ早かれ経験する問題でもありますし。

それにしても、こんなマークあったんですね!! 私も初めて知りました。

義足や人工関節を使用している方、内部障害や難病の方、妊娠初期の方など、援助や配慮を必要としている方を対象に、駅などで配布しているようです。

このマークを付けている人を見かけたら、乗り物では席を譲る、災害時などは安全に避難できるよう手助けしてあげてくださいとのことです。

詳しくは自治体のホームページなどで確認できると思いますが、東京都の場合にはこちらに案内があります。