強度行動障害 読み取れない身体言語 | ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

鍵をあける 虐待からの再出発 - ETV特集 - NHK

俗に”パワー系”と呼ばれている、自他に対する暴力的な行動が見られる障害者のことを強度行動障害と呼ぶことを初めて知った(疾患名ではない)。自分の顔面を叩き続けて場合によっては失明することもあるらしい。垣間見ることはあっても、身近に接したことのなかった私にとっては問題がどこにあるのかということを推察出来ただけでも有益ではあった。

 

知的障害者施設・神奈川県立中井やまゆり園は、虐待や不適切な支援を指摘され外部の専門家にアドバイスを求めるためにありのままを公開した。それに密着取材したのが当番組である。当施設には民間施設では”対応しきれない”と断られることが多い強度行動障害の利用者が多いのである。

 

名前を聞いて連想された通り、2016年に起きた相模原市の県立津久井やまゆり園での殺傷事件を契機に実態把握が行われたらしい。だが、犯人で元職員の植松聖の言葉”意思疎通できない障害者は不幸しか作らない”を引用しておきながら、異常者の歪んだ考えと捉えていたことが人権思想の限界と感じたのも事実だ。

 

いや、人権思想に批判的な私だって植松の行動は100%罰せられるべきものだと思っている。だが”意思疎通できない障害者”という認識は、努力不足の可能性はあっても”歪んだ考え”だとは思わない。社会的には間違ってはいてもヒューリスティックな判断としては間違ってはいないのだ。植松自身の精神を守るために必要なことではあったのだ。

 

だからと言って人を殺してよい訳が無い。植松にはこの仕事への適応力が欠けているとして転職すれば良かっただけの話なのだ。そんな差別的な考えを内心に持っている者なんて、私も含めて人口の殆どだ。恐らく”意思疎通できない障害者”同士でもお互いに排除したくなるだろう。意思疎通とはそれぐらい重要なものである。逆に適応できていた職員というのは意思疎通を二の次に考えていたとも思える。

 

こう思わせたのは、私には番組でアドバイスを与える側の専門家ですら意思疎通ができているとは思えなかったからである。考えてみて欲しい。ひたすら顔面を叩き続ける行為はどんな意思を表しているのかを。恐らく何か不快なことがあるぐらいの想像は出来るだろう。だが、何が不快なのか、何故不快なのかが分からないのだ。

 

専門家と呼ばれる人であってもその不快の延長線上にあるだけで、我々が日常的にしている意思疎通とは比較にならないレベルでしかない。だが、トライ&エラーでなんとか近似値を求めようとする作業無しでは次のステップにも行けない。それ故に彼らへの敬意を惜しむことはないつもりでもある。

 

だが、相手の気持ちを分かりたいという意思疎通の出発点にはお互いの信頼が不可欠だが、職業として一定の距離を取って向き合うことがそれを満たさぬ理由にもなっていそうにも感じた。

 

事務的なことならともかく、”俺の人生お終いだ””人間に生まれたくなんかなかった”なんて切実な言葉を発したひろしさん(仮名)。それに対して”人間楽しもうぜ””人間だからいろいろできるじゃん”などという友好性を勘違いしたポジショントークの職員に信頼関係が築ける訳が無いではないか。

 

彼らに心理士の素養があるのかどうかは知らないが、そこが一番欠けていると思えた。心理士なら心理士としての守秘義務も生じる。番組ではこんな場面に複数の職員が対応している映像が見られた。これは情報を共有しようという意味なのだろうが、利用者の本心は信頼のおけるたった一人に対してしか話せないという想像には至っていないようだった。以前のブログで心理カウンセラーの守秘義務を扱ったものを下記リンクに貼っておく。

心理カウンセラーと報連相 | ひらめさんのブログ (ameblo.jp)