人間の条件を満たしていない人たちの想いを想像する | ひらめさんのブログ

ひらめさんのブログ

メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

鍵をあける 虐待からの再出発 - ETV特集 - NHK

強度行動障害 読み取れない身体言語 | ひらめさんのブログ (ameblo.jp)

前回取り上げた番組だが、思うところあって再度取り上げたい。前回にも書いた強度行動障害のひろしさん(仮名)の言葉”人間に生まれたくなんかなかった”に心動かされたからだ。いや、たまたま切り取られた言葉なのかもしれないし、私の勝手な妄想、誤解なのかもしれないことはお断りしておく。

 

白状しておくが、強度行動障害という理解しにくい行動をとってしまう知的障害を伴う人から、こんな哲学的な言葉が発せられるとは想像していなかった。これは私の偏見である。だが”人間に生まれたくなんかなかった”は自傷行為(つまり自己否定)に直結する動機だとすればどうだろう。とてもストレートな自己表現に思えてきたのである。

 

それに気付きにくかったのは、痛みという生命維持のためのアラームに反しての行動だったからだろうか。だが、アラームに反して自殺までしてしまうのが人間という動物だ。だとすれば強度行動障害というのは極めて人間的な、人間にしかない行動と言えるのかもしれない。

 

”人間に生まれたくなんかなかった”は、例えば”サルに生まれていればこんな辛い思いをせずに済んだのに”という言外の気持ちを含むだろう。人間としての条件を満たしていない自分が、人間として扱われていることの居心地の悪さ(それが不快を伴う環境であったとしてもだ)を感じているように私には思えたのだ。

 

人間としての条件を満たしていない自分が、人間扱いをされる居心地の悪さにNOと叫ぶ、そのあまりにも人間的な心情を思うと苦しくなってくるのだ。

 

一方、施設職員や改善アドバイスを与える立場の専門家の意識は、閉じ込めておくという人権に配慮しなかった体質への反省がまずあって、そこを改善することで利用者の満足に繋がると考えているように思える。そこではひろしさんの切実な思いは置いてけぼりにされていないだろうか? 人権とは誰のためのものだろうか? このあたりに私の人権思想批判の理由と重なるものがある。

 

適切な支援はもちろんすべきである。安全という事なかれ主義で個室に閉じ込められることは改善されるに越したことはない。だが、もし強度行動障害が自己否定の意思表示であったとすれば、その原因にこそ目を向けなければならないのではないか? 人間として生まれてきたことを、それなりにでも良かったと思えるようにだ。

 

彼らの心は劣等感に埋め尽くされているのではないだろうか? だとすればあまりにも苦しい。唐突かもしれないが、私はスポーツがまるで駄目だった。小学校から大学まで体育の時間がどれだけ苦痛だったことか。しかし私は美大に合格できる程度に絵が上手だった。そのプラスがあるからマイナスを相殺して人並みに生きていられたのだ。

 

もし私の人生が体育の時間だけだったら、みんなが野球に興じる中でひとり何も出来ずにいる時間だけだったとしたらどうなるだろう。そして優しいみんなは私を仲間はずれにはさせてくれないとしたら…。

 

”人間楽しもうぜ””人間だからいろいろできるじゃん”とひろしさんに言い放った職員、専門家は、私の妄想をあり得ないことだと断言できるのだろうか? ひろしさんの部屋の鍵を開けて納得しているのは、人権に配慮できている自分を守っているだけではないと言い切れるだろうか? これが私の誤解であることをただただ願うばかりだ。