オキシトシンがお盛んですね | ひらめさんのブログ

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差別を糾弾する者は差別者を差別している | ひらめさんのブログ (ameblo.jp)

前回は差別を糾弾する者が差別者に対してとる差別的対応について書いた。差別した者に対しては、論を待たずに切り捨てて構わないとするような不当な扱いについてである。

 

人によってはこれを支持する向きもあるだろう。”目には目を”という応報的な意味としてだ。私は必ずしもこれを否定しないが、俯瞰的視点を保った上でものを言いたい者として支持はしない。調整型の私は、たとえ差別者であろうと対立することに意味を感じないからだ。

 

現在の多くの言論人は扇動的であることをマイナス要因と認識しているだろう。これは私と同じスタンスである。にもかかわらず感情に任せて悪者をやっつけて正義の快感に酔うのは違うだろうとの思いから批判したのであった。

 

だが、これはクリティカルシンキングの問題だけでは無さそうなことに気付いた。それはNHKスペシャル「ヒューマンエイジ」におけるオキシトシンの働きによって思いついた。人間と戦争の意外な原点として、幸せホルモンとして周知されつつあるオキシトシンのもうひとつの面が語られていたからだ。

 

ヒューマンエイジ 人間の時代 第2集 戦争 なぜ殺し合うのか - NHKスペシャル - NHK

 

オキシトシンは、親子のような”守るべき関係”においては互いを思いやる働きをするが、それとは一線を画した相手には”守るべき関係”を侵害するものとして攻撃性を生むのだ。これが価値観の違う者という外側の人間に対しても発揮されることになる。極めて進化心理学的な問題なのだ。

 

この価値観の違う外側の相手への攻撃性によって、反差別思想に囚われた者は差別者への問答無用な否定をしてしまうのだ。このとき自らが差別者を”差別”していることなど眼中に無いのは当然のことだ。それは差別者がやはり価値観の違いで差別していたことと同じオキシトシンの働きによる言動(差別)だからである。

 

なかなか困ったものである。人間固有の感情の在り方なのだから。だが、進化心理学の基本スタンスである”そうあることはそうあるべきことではない”のだ。少なくとも言論を扱う者は”そうあること”に安住してはならない。だが、理性を押しのけて遺伝的特質が前面に出てしまうこともあるだろう。

 

そんなとき、件の相手にこう助言してあげてはどうだろうか? ”オキシトシンがお盛んですね”と。言われた相手は若干の恥ずかしさを覚えるだろうが、それも必要なことに思える。