差別を糾弾する者は差別者を差別している | ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

そこまで言って委員会NP|読売テレビ (ytv.co.jp)

6月18日は「名言(迷言)暴言大賞2023上半期」だったのだが、更迭された荒井勝喜元秘書官のオフレコ発言も取り上げられていた。性的マイノリティについて「見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」と言ったとされるものである。

 

私の知人には同性愛者もいるし、荒井氏が友人であればちょっとたしなめたいところだが、何を思おうと内心の自由である。そもそもオフレコ発言に言質をとってどうこう言うこと自体がルール違反なのだが、「正義」の前では許されるとする感覚に危険なものを感じていたのであった。

 

その意味で、宮家邦彦氏(内閣官房参与)の意見はほぼ同じでとても共感できた。ところが割って入ってきた大野裕之氏(劇作家)は「でもそれ以前の問題で、これはあり得ない話なんです。これはほんとにね、単に差別ですから」と切り捨てようとするのだ。私には大野氏が荒井氏を明白に差別していると映っているのだが、御当人は正義を敢行したと思っているのだろう。

 

いつも思うことなのだが、差別を糾弾しようとする者は、何故差別者を差別していることに気が付かないのか不思議なのだった。下手をすると、私自身がそんな彼等のダブルスタンダードに苛立たされて差別したくなるところである。

 

大野氏は日本チャップリン協会会長ということだが、このあたりにも性質の悪い勘違いが潜んでいる気がする。それはチャップリンが愛すべき人としてステレオタイプ化してしまっているからである。そして彼の批判した独裁者ヒトラーは憎むべき人としてステレオタイプ化している。これを差別というはずなのだが、ステレオタイプに気が付かない者にとっては「悪を悪だと言ってどこが間違っているんだ?」となるのだろう。

 

だがナチス時代のドイツではそうじゃなかったはずなのだ。「ヴェニスの商人」と同様に、ユダヤ人こそゲルマン民族の良識の通用しない胡散臭さを感じさせていただろうと思うのである。そんな中でユダヤ人を差別することは容易だったはずなのだ。悪を悪だと言ってどこが間違っているんだ?というぐらいに。それは現在ヒトラーを悪だと切り捨てるのと同じぐらいの容易さだったと思うのである。

 

言論人たる者は、せめて簡単で当り前なことには一歩立ち止まって、難しいことは何なのかを考えて欲しいと思う。それがクリティカルシンキングによる視点も教えてくれるだろうからである。