ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

2025年12月21日(日)の放送 | MBSドキュメンタリー 映像’25 | MBS 毎日放送

映像'25「家族を罪に問う~家庭内性被害の告白~」を観た。以前ニュースでも取り上げられていた、実父からの性被害を実名顔出しで訴えた福山里帆さん(25歳)のドキュメンタリーである。

 

里帆さんは中学2年の夏から高校2年の夏まで、10度に及ぶ性被害を実父・大門広治被告から受けてきた。児童相談所の介入によって一時保護、父親の別居によって性被害は無くなったものの心の傷が癒えることはない。

 

当時の面接記録にはその葛藤が刻まれている。父親を訴えたり処罰を受けさせたい気持ちがあるかについて、「ママが望まないと思う」「周りの人に知られたくはない。いろいろ聞かれるのは嫌だから」「パパが出て行って、今まで通りの生活を送りたい」と述べている。

 

そんな里帆さんが2023年23歳の時、一年半の交際を経て夫となった佳樹さんの応援のもと告訴したのである。それは決して”今まで通りの生活を送りたい”が実現できなかったことに後押しされてのことだろう。だが、その時の家族(父の母である祖母)の反応はこうであった。

 

里帆さん「パパから私は中学2年生から高校2年の間まで計10回、実の親なんだけどレイプされてた」    

祖母「ああ…そうかい…でもいまは何もないんだろう? それを全部新聞とかに出す予定でいるの?」

里帆さん「別にやりたくはないけどパパが反省の色を見せなければやらざるを得ない」

祖母「頼む お金ならいくらでもあるから」

里帆さん「お金じゃないよ、ばあちゃん」

祖母「家族を売って気持ちいいの?」

里帆さん「気持ちよくはないよ」

祖母「私ここにおられんくなるよね この家も全部売ってしまうよ 今も被害があるなら別だけどそれでいいわけ?」

佳樹さん「ご自身の話だけですか 彼女のことを心配してくださいよ」

祖母「しとる…きちっとしている息子だったからね 絶対にそんなこと…」

里帆さん「だからしたんだって」

 

第三者からすれば随分ひどい発言だが、私には自分を保っていられる精一杯の言葉にも感じた。また里帆さんを可愛がっていたという親族の男性もこう反応している。

 

親族「馬鹿なことを考えるな」

里帆さん「私が訴えるのは駄目なことってこと?」

親族「そうだよ いまお前が考えてることは駄目なことだよ 裁判なんかして決して良いことじゃないだろ」

里帆さん「何で?」

親族「何でってあるかい 親子間で裁判を起こして良いわけない もうちょっと考え方があるやろ」

 

また、里帆さんの成人式に別居中の父親が現れたが、それを知っていて黙認した母親はこう言った。「別にいいでしょ パパはそういうことせんから。私の方がつらいのよ 娘がこんな目に遭って旦那に裏切られたんだから」

 

里帆さんは血縁者間において四面楚歌的状況にある。だが、家族はもちろん、加害者である父親に対してだって幸せな思い出がきっとあるのだろう。だから憎み切れないのだ。味方であって欲しい人たちを敵にせざるを得ない状況にあるのだが、敵だと切り捨てられないのである。

 

これは性被害に関する問題だけでは無いだろう。例えば、安部元首相銃撃事件の宗教二世である山上被告についても言えるのではないだろうか。彼からすれば間違った選択をしたのは彼の母親である。だから本当は母親を敵として親子の縁を切ってしまえば解決した問題だった。しかし、それが出来なかったのだ。間違った選択をした”敵”と、本能的な情愛に根差した”味方”が同一人物で、不可分のものだったからである。

 

里帆さんには判決(懲役8年)を契機として(父親側は控訴しているようだが)親族を含め、可能な限り距離を取ることを勧めたい。山上被告に対しても、拘置所での生活も含め裁判が母親との関係性を変えてくれることを待って欲しいと思う。

JOBK100年 小さき声に向き合う 障害者と放送~過去から未来へ~ | NHK大阪

NHK大阪放送局が出来てから100年らしい。福祉分野の番組に注力してきた(現在のEテレ「toi-toi」とか)その過去の番組から、それぞれの時代のの障害者観を振り返ってみようという企画である。尚、私は鬱による精神障害で年金を頂いている身だ。

 

まず、時代ごとのテーマを俯瞰して次のようにまとめている。

  • 障害は克服すべきもの?(1925年~)
  • 障害のある人は不幸?(1950~1970年)
  • 障害のある人は頑張らないといけない?(1980年~)
この疑問形の文言からも想像できるように、これら過去の認識を間違った考え方であったとしている。そして、現在の自分たちはもっと優れた価値判断が出来ているという進歩史観を持っているようだが、そこに私は危うさを感じるのである。
 
”障害は克服すべきもの?”に対しては、社会の環境にこそ障害(例えば、車いすユーザーにとってのスロープやエレベーターが無かったこと)があって、みんなが暮らしやすい環境になれば障害を克服しなくてもよくなるとの「正解」を持っている。
 
”障害のある人は不幸?”に対しては、そんな不幸を生まないための制度であった旧優生保護法は、ナチズムのような優生思想という間違った考え方であり、それを批判することこそが人権を大切にする上での「正解」としている。
 
”障害のある人は頑張らないといけない?”に対しては、”役に立たない人はいらない”という意見を代表させる事件として、相模原市の障害者施設で起きた殺傷事件の犯人を、マイノリティーの権利を侵す者として否定することを「正解」にしている。
 
彼等の言う「正解」は彼等の中では正解としてもいいのかもしれない。だが、一歩外に出れば、それは不正解=間違いでもあることには留意しておくべきことだろう。
 
身体的に健康な人にとってはスロープやエレベーターの設置は無駄なコストになろう。無駄なものへの支払いは誰しもしたくないものだ。ならば、”みんな”ではなくその受益者である環境不適応者である障害者こそが、それを負担すべきだとした方が合理的と言えるかもしれない。
 
優生思想の色濃い”出生前診断における中絶”を前時代的なものと批判することは正しいかもしれないが、それは中絶を選択した9割もの人を”正しくない”と認定したことにもなるのではないか。
 
そして、まとめとしてインクルーシブ教育という「正解」に即して”一緒に暮らすとは排除しないこと”だと訴えるのだが、ここにも大いなる矛盾が生じている。
 
それは相模原市殺傷事件の犯人を明確に”排除”していることである。いや、私は彼、植松聖を支持する者では決してない。罰せられるのは仕方の無いことだとは思う。だが、植松の言葉「障害者は不幸を作ることしかできない」「意思疎通のできない人間には生きる価値が無い」をあまりにも一面的にしか捉えていないのは明確な差別だと断じている。
 
植松は他の職員とは違って、障害当事者の気持ちを汲み取ろうとした可能性を私は感じるのだ。意思疎通が困難な当事者の気持ちを空想したのだ。もちろんそこには誤読もあるだろう。だが、障害当事者に「こんなに辛いなら生きていたくない」という思いがあったとしたらどうだろう? 
 
法的に許されることではないが、その思いに応えてやるには自殺幇助しかない。もちろん植松にそこまでの感情移入があったとは思えない。だが、ルーティーン作業を繰り返すだけの他の職員に比べれば、自分の能力の枠を超えてそれをしようとしていたのではないかと思えるのだ。
 
いま”能力の枠を超える”という表現をしたが、これは私の持論である脳のメモリの有限性に着目することである。人は日々様々なタスクをこなすために脳内のメモリはフル稼働している。その有限性を意識せずに容量オーバーすることで判断ミスも起こるのだ。
 
植松も然り。また、「排除しないこと」を訴えながら植松を排除してしまう人々も然りである。そして、障害者を理解していないかのような多くの人々もそうなのだ。彼等はそんなことよりも、日々の生活(その中には社会の発展に寄与する生産的なものも多い)に忙しい。彼等に思いやりが欠けているのではない。恐らく目の前に困った人が現れれば進んで助けようとするだろう。
 
だが、そうでない日常では日々の個人の実益のためにメモリは使われるのだ。インクルーシブ(包括的)などと大風呂敷を広げる前に”個々人のメモリの小ささ(有限性)を思うこと”が、結果として目指すことには近づけるのではないだろうか?
 
私が本論において俯瞰的な視点を持ち得たのは、もちろん私が優れた脳を持っているからではない。他に何も生産的なことをしていないからだ。これのみをメモリに注ぎ込めたから可能だったのだろう。尚、先述の脳内メモリの持論とは以下のブログを参考にして頂きたい。

【会見まとめ】国分太一氏が語った“コンプラ問題”の理由・日テレへの要望・メンバーや家族への思い・引退しない今後の事|FNNプライムオンライン

興味深いテーマを含んだニュースである。コンプライアンス違反により番組を降板された国分太一氏が、プライバシー保護を理由に謝罪しようにも出来ない現状に耐えかねて、日本弁護士連合会に人権救済を申し立てたというものである。

 

私にとって国分氏は、好きでも嫌いでもない特に関心の無い人物である。氏のコンプライアンス違反が何なのかは知る由も無いが、被害者側へのプライバシーの配慮によって問題が見えなくなっている状況は、松本人志氏や中居正広氏などの一連のコンプライアンス違反問題に通じるものがある。

 

記者会見での国分氏の説明によると、6月に日本テレビ側からの聞き取りに応じ、思い当たることを記述した内容がコンプライアンス違反と認定され処分に繋がったとされる。だが、その内容のどの部分がそれに該当するのかが分からないため、反省しようにも何を反省したらいいのかが分からないということらしい。

 

”思い当たることがあったならそれを全て反省せよ”との正論もあるだろう。だが、当人としては思い当たる中にあっても何らかの正当性を持っているものである。不当なことと思いながら実行した訳では無いならば、その正当性のどこに問題があったか?を知ることが、今後の生き方を決定することになる。それが出来ないというのは確かに何事も手に就かない苦しい状況だろう。

 

一方、顔も何もイメージ出来ないが被害者にあたる人もいる。その人に最大限寄り添って想像をすれば、謝罪を求めている訳では無さそうなので、金輪際、国分氏に関することとは縁を断ちたいという思いなのではないだろうか? 相互理解など拒絶して不倶戴天の敵(同じ世界で生きていたくない)とする意思なのかもしれない。

 

人と人とが対立したときの解決法は、部分的にでも相互理解をするか(これが謝罪に繋がる)、徹底的に距離を置くか(不倶戴天の現実的なあり方で”分断”にも通じる)になるだろう。今回の問題では、国分氏は前者を求め、被害者は(飽くまでも想像でしかないが)後者を求めているように見える。そして、コンプライアンス的には後者の選択しか認められないことになっている訳だ。

 

出来ることなら平和的な謝罪で済ませられないかとは思うのだが、被害者の立場になれば、一過性の謝罪で禊を済ませばビッグネームのタレントとして何事も無かったかのようにされるかもしれない。それが我慢ならないという気持ちもがあったとしても理解は出来る。

 

だが、ここにも問題がある。被害者側の処罰感情というものは歯止めが利かないところもあるからだ。被害者にとってはこれでも”足りない”と思っているかもしれないが、社会的にこの例が前例として踏襲されることが幸福な社会を生むかかどうかは甚だ疑問だ。被害者に寄り添うことは必要だが、その意を100%実現していては社会は歪んでしまうだろうからである。

 

最近は聞かなくなったが、昔は「出るとこ出よか」という言葉があった(関西弁だが)。”謝罪する気が無いなら法的に決着をつけるしかないぞ”という脅し文句である。言われた方は不倶戴天の関係になるよりは…ということで謝罪を選択することが多かったように思う。コンプライアンス違反にはこの選択する猶予を与えないことに和解を許さない冷酷さを感じさせるのだ。

 

もうひとつ気になることがある。それはこのプライバシー保護によって守られた顔の見えない被害者が、”本当に守られるべき存在になっているか”である。人間というものは感情に支配されがちな生き物だ。憔悴した国分氏の姿を見て心動かされた者の目には相対的に被害者に対する感情に反作用があるのではないかと思うのだ。

 

現状でもし、被害者側の新たな情報が伝われば、ネット上にはネガティブなコメントで溢れそうな気がするのだが杞憂だろうか? それは”安全地帯からの発言”という”対等でない立場”がそうさせるのではないかと思うのだ。顔の見えないことの”リスク”もまた踏まえておくべきではないだろうか。