ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

危機の心理学(’17)|放送大学 (ouj.ac.jp)

Amazon.co.jp: 危機の心理学 (放送大学教材) : 森 津太子, 星 薫: Japanese Books

私は自らの鬱体験から心理学に興味を持ち、関連科目の多い放送大学の番組を録画していた。そんな番組を改めて観てみると持論に関わる発見があったのである。

 

「危機の心理学 第15回」である。これは最終回で総まとめになるのだが、そこで”心配総量有限仮説”というものが紹介されていた。”私たちが心配できることの全体量には上限があり、ある事象に関する心配が大きくなると、別の事象についての心配が小さくなる”という仮説である。

 

例えば東日本大震災(2011年)前後において、不安を抱く対象や程度が変化したという調査データ(同志社大学心理学部の中谷内一也氏による)があるらしい。

 

51種類のハザード(=不安の対象項目)の中での2008年と2012年の比較では、地震・原発事故の評定がぐんと高まった一方、地球温暖化・化学薬品添加物・農薬・テロ・遺伝子組み換え食品・アスベスト・狂牛病・環境ホルモン・エイズ等々殆どの項目で評定が下がっているのだ。

 

それらの客観的な危機が低下している訳では無いのに主観的な不安が低下したのは、現実のものとなった地震や原発事故に意識が向かうことで、相対的にそれ以外を意識しなくなったのではないか?と考えられる訳である。つまりこれは不安の総量としては同等ではないかと推察される訳だ。

 

ところが、もう少し経った2015年の同様の調査では、地震や原発事故に対する不安評定は下がって元に戻ったにも関わらず、その他の項目は下がったまま元には戻らなかったのである。つまり総量が減少してしまい、この仮説の根拠は薄いということになる訳だ。

 

ここで私の持論である。それがこの仮説が説明できなかった部分を補えるのではないかと感じたのだ。私の持論とは、以前から再三ブログでも述べている”脳内メモリの有限性”のことである。ブログでは”鬱とはメモリ不足によるフリーズである”という表現だったが、これは即ち容量が有限であるという意味だ。

鬱とはメモリ不足によるフリーズである | ひらめさんのブログ (ameblo.jp)

 

つまり、枯渇したメモリをそれでもなお使おうとしたときに鬱になる訳だが、多くの健康な人の場合は”しんどい”とか”めんどくさい”とかのアラームによる警告で考えることを中止するのである。そしてこのアラームによって、もうすぐ限界でこれ以上の不安を持つべきではないとするのが心配総量有限仮説だと思うのだ。

 

不安心配というものは、その個体の生存にとって極めて重要なものになることが多い。だからメモリを使用する優先順位が上位なのだ。それで不安ばかりにメモリを占有されることもあるのだろう。だが、楽しいことなどそれ以外のものが優先順位の上位になることも当然あるのだ。この場合には不安の対象項目は減り、結果として心配の総量が減ることも充分あり得る訳である。

 

この”メモリ容量有限仮説(自称)”こそ専門家には研究してもらいたい。飽くまでも私の感覚の話だが、メモリには何重かの枠があるように感じる。大は本当の限界でそれを超えると鬱になる枠から、小は狭義のワーキングメモリである7桁ほどの覚えておける数の枠だったりすると思われる。

 

その間にも枠はあるだろう。上述の中谷内一也氏による調査の回答などは絶対に限界には達していないはずである。それでも心配総量有限仮説を感じさせるのは、日常使用分を確保した以外の限界には達していたからだと感じさせる。そんな余力を持った限界を知ることができれば、鬱の予防にも資する気がするのだが如何だろうか。

障害を選択するということ 前編 | ひらめさんのブログ (ameblo.jp)

前回からの続きである。出生前検査により、授かった第二子にダウン症があることが分かった戸塚晶久さん(53歳)芳恵さん(40歳)夫妻は、産むか産まないかの選択に迫られていた。

 

芳恵さんは産まない選択を想定し勝ちだったようだったが、晶久さんは産む選択しか考えられないようである。もちろんどちらが正しいという問題では無い。また、運命論者の私もこの立場だったら産む選択しか考えられないが、晶久さんの思いとは違っている気がした。

 

晶久さんは言う。「何で障害を持ってたら生まれて来ちゃいけないのか、おかしいよな。確かに社会がその子を養わなくちゃいけないとかっていうこともあるかもしれないけど、そんなリスク誰にだってある訳で。弱肉強食でいいんですかね。それじゃ世の中けものと一緒じゃないですか。」

 

けものではない理想を持つ人間として、その社会が個々に生じるリスクを吸収すべく支援されるべきだと考え、そうされるであろう社会に対する信頼も持っていると感じられる。テレビ局のプロデューサーであり、阪神大震災や地下鉄サリン事件など報道の現場からキャリアをスタートした晶久さんらしさを感じる。

 

一方、私は元画学生で客観的に観察することに熱中していたせいか、観念的な理想像をまず捨てなければ現実を認識出来ないと考えてきた。その意味では”我が子を愛せるのか”を正直に自問してしまう芳恵さんのような人がいることも、弱肉強食も理解出来るのだ(晶久さんにも”我が子を愛せるのか”という不安はあるのだが、それに勝る産みたい思いがある)。

 

これはもちろん私の方が正しいと言っているのではない。現状認識については私の方が客観的かもしれないが、それは理想を持てないということでもある。晶久さんのような人がいなければ社会は変わっていかないのだ。自認したそれぞれの役割によって正解は千差万別なのである。

 

この後”選択の期限”つまり中絶の期限まであと5日に迫った夜、夫妻は意見の対立からかなり深刻な心理状態に陥る。ケンカして家を飛び出した晶久さんは次のように語るのだった。

 

「(産む選択を)諦めることが出来るんだろうか? じゃあ『諦めるって決めた』っていうふうに彼女に伝えれば全て終わるじゃないですか。そうしようかっていうふうに思ってずっと歩いてたんですけど、やっぱり僕にはそれが出来ない、やっぱり意気地無しなんですよ たぶん壊れます僕。」

 

一方芳恵さんはこの時の気持ちをこう振り返っている。「もう私が死ねばこの子とふたりでいなくなると思って、もう考えなくても済むし、もう疲れちゃって毎日のケンカに。」お互いに自分の存在を失くすことで解決を図ろうとしているところに、ぎりぎりの状況であったことを実感させられる。

 

晶久さんは上述した思いから、芳恵さんに判断を一任しようとするのだが「それは責任転換してるだけだ」と一蹴されてしまうのだ。傍から見れば全くその通りなのだが、晶久さんの立場になればこのジレンマの解決法を他に思い浮かばなかったことも充分に理解出来る。

 

この後、結果として芳恵さんの気持ちに変化が現れ”産む”選択をした訳だが、「やっぱりちょっと未知なる赤ちゃんなのでその不安もありますね」と話している。だが、本当は出生前検査によって障害があることが”既知なる赤ちゃん”だったはずなのだ。既知なのに不安であることが問題なのである。

 

人間は知ることによって安心出来る生き物である。なのに知ることによって不安になるのは、不幸になる確率が高いことを”知ってしまった”からだろう。あらゆる差別意識はここに起源があるのだと思う。ならば、障害を忌避することを批判するなら、障害があっても幸せである実例を増やしていくしかないのではないだろうか。

 

合併症の手術のために7ヵ月以上に及んだ入院を経て、第二子恵二郎くんは戸塚さんの家族となった。そして3歳になったいま芳恵さんは「いろいろ障害を持って生まれましたが、それでもかわいいんだなあ この命を大切にしたいなあってすごく思いました」と話している。ここで芳恵さんの経験知(ヒューリスティクス)は確実に変化したのだろう。

 

では、産まない選択をした人たちのヒューリスティクスには何か変化はあったのだろうか? つまり他人である障害者への眼差しに変化があったのかということである。断じてその選択を否定するものではないが、そんな本能に根差す忌避意識を幾ばくかでも変化させられたなら喜ばしいことだと思う。

命と向き合った日々 - ETV特集 - NHK

出生前検査により、授かった我が子ががダウン症であることを知らされた夫婦のドキュメンタリーである。以前からこのテーマに関心がある私は当ブログでも取り上げて来た。

優生思想と個人の想い ~出生前診断と向き合って~ | ひらめさんのブログ (ameblo.jp)

 

また、前回のブログで取り上げた”子を持った知的障害者夫婦”に対するSNS上の誹謗中傷も気になっていた。「自分で判断できない大人が子どもを産んだ結果不幸な子供が増えてるだけじゃん」というものだ。

「旧優生保護法」違憲判決が本当に解決すべき問題 | ひらめさんのブログ (ameblo.jp)

 

私はこれを道徳的に批判したいのではない。ある条件を満たしているか否かで幸不幸が決定するという思考の未熟さを指摘したいのである。

 

何を隠そう私自身が障害年金を頂いている身なのだ。鬱がらみという障害としてはずいぶん軽いものだが、その原因となる性格傾向(メランコリー親和型)即ち障害を私は断じて変えたくは無いのだ。はっきり言って好きなのである。

 

だが、この性格によって様々な不適応が生じているのだから客観的には、この”好き”は間違った認識とされるだろう。しかし、人間というものは、恐らくデフォルトのスペックを肯定するように出来ているのだ(そうでなければ自死を選ぶだろう)。これを覆せない以上、先の不幸の充分条件論に意味は無いのである。

 

つまり、”既にいる障害者”は必ずしも不幸ではない(もちろん面倒なことは多いが)ということだが、まだ産まれてはいない障害のある子を産むべきか否かは、”既にいる自分たちやその家族”に影響を与え得るという意味で悩ましい問題なのである。

 

番組で取り上げられているのは、戸塚晶久さん(53歳)芳恵さん(40歳)夫妻だ。晶久さんは言う。「出生前診断を突然突きつけられて世の中の人これ知らないよな(中略)覚悟がいるしすごい悩むしそういうのを残してほしい」と自らが番組取材を依頼した動機を語った。

 

芳恵さんが心配するのは長男のことだ。今回の件は第二子についてなのだが、それは長男を所謂きょうだい児にさせ、彼の自由を制限することになってしまうと考えてしまうのだ。対して晶久さんももちろんそんな心配はあるのだが、授かった命に対する思いが強く「産む」選択以外見えないようである。

 

これは難しい。私と妻は同じような運命論者で「産む」選択しか無かったし、行われ始めた出生前検査をそもそもする気が無かった(幸い産まれた子は健康だった)からである。夫婦と言えども思いが一致しないことはあるだろうし、そこに責任などは無い。

 

そもそも産む産まないに優劣は無く、あるとすれば自分の総合的な能力と勘案しての正解だろう。芳恵さんは極めて誠実に本心を吐露する。「ちょっと意地悪な考え方すると(ダウン症特有の容貌を思い浮かべて)顔みんな一緒じゃんって、思ってしまう自分がまだいて、その子を本当に愛せるのかなって問いかけて来る自分もいるんですね」

 

これは差別意識と同じなのだが、私は差別を本能に根差しているものだと考えているので、この言いにくいことをきちんと言ってくれたことをまず称賛したい。そしてこの自分に似ていないこと即ちかわいく思えないことをどう処理するかも、遺伝子の多様性のひとつとしては認められなければならないのだ。

 

変な連想だが、2010年に大阪二児餓死事件というのがあった。酷暑の中50日に渡って放置し、水さえ飲めずに死に至らしめた母親の事件である。そのニュースで見たその子等の愛らしい表情の写真に”こんなかわいらしい子たちを何故ほったらかしに出来たのか?”という疑問が湧いたものだ。しかし彼女の優先順位ではこうせざるを得なかったのかもしれないとも思うのだ。もちろんそれは社会的に正解でないのは明白なのだが。