世の中には様々な依存症がある。かく言う私も過食症が酷い。胃より下からは苦痛を訴えられているのに、味と噛んで飲み込むという刺激欲しさについ何かを口にしてしまうのである。
そんな私だったが、昨年末に風邪をひいて一時的に過食が収まったことがあった。恐らく風邪を治すために身体のリソースが総動員され、過食の消化に充てていたところに欠員が生じてしまったのだろう。それによって胃の苦痛が限界を超え、絶食せざるを得なくなったのだ。
しかし”これで依存症が治ってラッキー”かと言うと全然そうでは無かった。風邪は治ったのに何事にも”やる気”が起こらなくなってしまったのだ。鬱気質の私は精神科デイケアに週二回通っていたのだが、そんな習慣すら途絶えてしまった。精神衛生のために書いているこのブログも書けなくなっていたのだ。
”これはまずい”と元の習慣を取り戻そうとすると、結局は過食が復活することとなってしまった。都合よく依存症という困りごとだけを取り去るなんてことは出来ないのだ。そして困りごとの中に実は大事な役割があることを気づかされたのである。
それは”依存とは何か?”について考えて見えて来たことである。上のブログでもちょっと触れたように、依存とは心理学で言うアタッチメントを原形としていると感じるのだ。つまり乳幼児期の母子関係のように、母親を安全基地として依存することで”外界を冒険する”ことが出来るようになる。その変化形が依存症という訳だ。
安全基地はほぼゼロリスクでそこそこの報酬を約束してくれる。一方、冒険はハイリスクハイリターンだ。それはどう転ぶか分からないものだが、安全基地に帰ることが出来さえすれば、時に報酬がマイナスとなる不安も緩和されチャレンジ出来るのだ。この冒険しようとする気持ちこそが”やる気”の正体である。
つまり依存による資産があるから、冒険という運用によって資産を増やす(自分の世界を広くする)ことが出来るのである。逆に言うと、依存するものが無くなるということは運用にまわす原資も無くなってしまうということなので、運用すること自体が出来なくなる。それが私の”やる気”を失った理屈なのだ。こう考えれば納得できるものだ。
では、多くの依存症でない人はどうなのだろう? やはり母子関係が変化したものではあるはずだ。たぶんそれは見えない形で依存しているだけなのではないだろうか。依存対象が社会的に許容されるものであり、対象が分散していて広く浅く依存しているということなのだと思われる。
社会的に許容されるものとは、反社会的な薬物依存やクレプトマニア(万引き依存)、反社会的とまでは言わないが、私の過食症のような健康を害するものではなく、趣味やいわゆる”推し”に入れ込むようなことだろう。そして広く浅くの依存は、特定の狭い対象なら対象が見えやすいが、広ければ見えにくいということ。そして浅ければ依存の度合いが軽度だということである。
もうひとつ思うのは、概して凝り性(依存のひとつだと思う)は男性に多いが、そのことと女性が共感を求めること(これも依存だろう)の対照性である。これは男性が狭く深くの、女性が広く浅くの依存を指向しているということではないだろうか。
依存ということばにはネガティブなニュアンスが強く、対義語である自立はポジティブに響く。だが、社会的動物である人間に完全な自立は不可能であり、誰しもが依存し合うしかないという事実は押さえておくべきことだろう。