ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

本日2月15日の「そこまで言って委員会(読売テレビ)」は、「人は”バイアス”に支配されている?」と題して、先の衆院選や様々な事件についての行動の心理をジャッジするものであった。

 

認知バイアスとは、「常識や固定観念、周囲の意見などから誤った認識や合理的でない判断を行う心理学の概念」と説明されている。だが、この「誤った認識や合理的でない判断」だとする評価自体が、「認知バイアスに基づいている」と語られるべきだったのではないだろうか? そのことは、心理学的な解説を担当している出口保行氏(犯罪心理学者)も承知しているはずだが、そんなメタな認知がされないままだったのが残念であった。

 

何を言いたいのかと言うと、「誤った」とか「合理的でない」という評価は人間社会の都合でしかないということである。この”人間社会の都合”のことを”社会性”と呼んでいる訳だが、人間は、人間以外の生物がそうであるように多様性(生物多様性)の中で生きている。つまり、社会性と多様性の狭間でどのような選択が出来るのか?が問題なのであり、単純に「誤っていない」「合理的な」選択が出来れば良いというものではないのだ。

 

精神障害2級で障害年金を頂いている私も含め、マイノリティは狭義の社会性に欠ける者である。それは社会性が協調的であることで成り立つものだからだ。例えば、障害の社会モデルとして”階段”の例がよく使われる。マジョリティにとって二階に上がることは階段で充分だが、車いすユーザーには不可能だというものだ。彼等はマジョリティに協調出来ないことで「エレベーターが必要だ」という異論を述べる。現代では技術面やコスト面でそれが可能となったが、本質的に異論を述べるマイノリティとは”反”社会性を持つのである。

 

この”反”社会性はいわゆる反社会的勢力とはもちろん別物だが、協調的でないという意味では同質性を持つ。両者は道徳性の有無によって評価は分かれるが、道徳性とは価値観の相違に過ぎないとも言えるのだ。日本のルールに従えない迷惑な外国人なども自国において反社会的であった訳ではないだろうことと同じだ。

 

だが、「基本的人権のような普遍的な価値だってある」という意見もあるかもしれない。しかし、それは人間という種にとって有益な価値観に過ぎないとも言える。人類の繁栄によって絶滅淘汰された多くの生物からは猛抗議を受けるのではないだろうか。

 

そんな人類以外の万物を含めたところに多様性という評価軸(?)があるのだ。いや、この究極の諸行無常に評価も何もあったもんじゃないのだが、人間の本能的な行動はここに基づいているのだろう。だからこの、本能に基づく認知バイアスを否定することほど非人間的なことはないのである。それを否定もしきれず、肯定もしきれず、多様性と社会性の狭間で煩悶することだけが我々に許されていることなのだ。

 

そして、正しい煩悶のために必要な情報として言っておかなければならないことがある。それは、常識や固定観念が多くの場合「誤っていない」「合理的な」判断に導いていただろうことである。恐らく遺伝子に刻まれた成功体験の頻度によって決定されたのだ。

 

認知バイアスの支配に抗いつつ従う。このジレンマに耐えられる個体が増えるという進化(退化かもしれない)が起きた時、次の展開があるのかもしれない。

私は自他ともに認める”変わり者”だ。もう少しネガティブに”変人”と言われても全く意に介さない。だってその通りなんだからしょうがないのだ。この”変人”性をニュートラルに表現すると”個性”、些か欺瞞的ポジティブ表現をすると”個性的”という評価になるのだろう。

 

“個性”ってなんだろう? | toi-toi | NHK

たまたまツケッパのテレビでやっていた番組である。ここでは”個性的”と呼ばれて”モヤッとしてしまう”人ばかりが出てくるのであった。何らかの障害を持っていて、社会生活の上で苦労することが多かった人たちなので、その苦労のタネを苦労を知らぬ人たちからポジティブ表現されたらそりゃ気分は良くないだろう。そこは分かる。

 

だが同様に、メランコリー親和型性格で鬱を拗らせやすいという苦労を抱えてきた私は”個性的”だという評価を、その欺瞞性も含めて受容している。この違いを考察したいのである。

 

鍵となるのは”普通”という”個性”に対立する観念だろう。番組の出演者たちは「普通になりたかった」と言う人ばかりなのだ。対して私は「普通になんてなれない、なれなくて一向に構わない」と思っている。つまり、出演者たちは「普通になりたい」のに「なれない」という矛盾があるが、私は「普通になんてならなくていい」と思っているので「なれない」事実と矛盾が無い。だから精神的には私の方がラクなのだ。

 

このラクになる方法を彼等に伝授したい気もするのだが、それは非常に難しいとも思える。重要なのは、「普通になりたい」が同調圧力的に外部からの強制力によるものではなく(もちろんそれもあるのだが)、彼等自身の内なる自発的欲求として「普通になりたい」と思っている点である。そこが私と大きく違うところなのだ。

 

私が”変人≒個性的”になってしまったのは、自分のやりたいことをやってきたからだという自覚がある(絵ばかり描いていて、スポーツはまるで駄目)。この”やりたいことをやる”という行動原理は、外部からの評価や報酬を期待してのものではなく、まるで遺伝子に刻まれた使命のような内なる動機によるもので「内発的動機づけ」と呼ばれる。

 

それに対する「外発的動機づけ」とは、外部からの評価や報酬を期待してのもので、一見「普通になりたい」人たちの行動原理は消去法でこちらかと思わせる。だが違うのだ。評価や報酬を期待するというのは知的処理における判断であり、条件さえ入れ替えれば判断は変わってくるからである。それならばラクになる方法の伝授もできるだろう。

 

しかし、たぶん「普通になりたい」が、彼等にとっての「内発的動機づけ」であるかのような動かしがたい本能的な欲求なのだと思うのだ。想像するに、それはミラーニューロンのようなものではないだろうか。ミラーニューロンとは、他者の行動を見たときに自分もその行動をしているかのように反応する神経である。

 

例えば、外敵をいち早く察知した個体が逃げるのを見て、外敵を認識する前に即座に同じ逃げる行動をとることで生存確率を上げられる。そんな本能的な行動原理として「普通になりたい≒周りに合わせたい」があるのかもしれないと思うのである。

 

周りに合わせることは、周りと自分の条件が同じならばとても有効に機能する。そんな進化論的な特性を持っているにも関わらず、周りと自分の条件が異なっている(健常者の中の障害者)というミスマッチが、個性(≒障害)を受容できないことに繋がっているのではないだろうか。

 

このような考察から、このミラーニューロン的な彼等の行動原理(非「外発的動機づけ」)をどう呼んだらいいのかをAI(copilot)に訊いてみた。すると「同調的動機づけ」という回答が得られた。だが、検索してみると「個人が集団や他者の期待に応じて行動する心理的動機」とあり、後天的、知的処理による判断に思える。私のような先天的、本能的なものという仮説にまだ誰も至っていないことが不思議なのだが。

過去の放送|テレメンタリー|テレビ朝日

昨日のテレメンタリー2026は、「異才と呼ばれて」と題し、かつて東京大学発の「異才発掘プロジェクト ROCKET」に選抜された、特定の分野で突き抜けた才能を持つ子供たちの”その後”を追ったものであった。

 

彼等は物理・生物・芸術などに特異な才能を示し、後に商業的な成功を得る人もいるのだが、学校での居場所を求められないでいたのである。以前、このブログで取り上げたディスレクシア(発達性読み書き障害)で画家である濱口瑛士さん(23歳)もその一人で、今回の主役である(今回の番組ではASDだと紹介されていた)。

アールブリュット VS 文字文化としてのアート | ひらめさんのブログ

 

濱口瑛士の世界

上のホームページで観られるが、濱口さんの作品は下書き無しの非常に緻密な表現を特徴としていた。ところがその後、それを仕事にしようと本に挿絵を描いたりするうちに、注文通りの没個性な絵になっていってしまったのだ。

 

実は私も絵を描くことに熱中する子供だった。そして中高時代は不登校も多かったが、なんとか美大には入れた。だが、その道では食べていくことが出来ず、現在は掃除夫をしている(おまけに鬱によって精神障害2級の年金も頂いている)。異才のお墨付きをもらっている濱口さんと比較するのは僭越かもしれないが、かなり近い属性を持っている気がするのだ。

 

濱口さんの近作が「注文通りの没個性な絵になっていった」と書いたが、この”没個性”は”社会性(の強さ)”と読み替えられるのではないだろうか。社会性とは”誰にでも分かる”という”分かりやすさ”のことだからだ。逆に”個性”とは”分かりにくさ”である。没個性な絵とは分かりやす過ぎて意識されないが、個性的な絵は意外性という”分かり切れなさ”を含む故に意識に留まる。だからこそかつての濱口さんの作品は魅力的だったのだ。

 

だが、個性的過ぎては分からな過ぎて意識から放棄されるということも言っておかなければいけない。「なんのこっちゃ」と意味を感じない状態だ。例えば、偏狭な現代美術好きでなければマルセル・デュシャンの「泉」(下図、既製品の便器を置いただけの作品)は個性的過ぎることになるだろう(偏狭な私は大好きで非常に影響を受けたのだが)。濱口さんの作品はこれに比べれば適度な社会性(分かりやすさ)があると言える。

「泉」マルセル・デュシャン 1917年

 

何を言いたいのかと言えば、”異才”とは誉め言葉であるはずだが、それを極めてしまっては”社会的評価”を受けられないものになってしまうということだ。異才(個性)とは社会的ニーズがあってこそ成り立つものなのだ。

 

本の挿絵は主たる本文に対して従属的でなければならない。あまり主張し過ぎないことが社会の約束事である。それ故、濱口さんも没個性的な絵を描いた。だが、彼はそれに満足出来ないでいる。それは、昨今私が関心を持っている”内発的動機づけ”が満足されないからではないだろうか? それは外部の評価や報酬とは無関係の”やりたい”という内なる欲求なのだ。多くの個性、特に異才と呼ばれるものの行動原理はこれだろう。濱口さんの特性がこれなら経済的な理由で社会的自立は難しいかもしれない。

 

世の中には、運の良い社会的ニーズのある異才と、運の悪い社会的ニーズの無い異才がいる。異才に対して、何がしかの生産性(つまり社会的ニーズのある異才)を期待してのプロジェクトであったとすれば明暗を分けたことは致し方の無いことだろう。科学系のノーベル賞受賞者がよく「好きなことをやり続けていただけ」だと話す。彼等もたまたま運良く、社会的ニーズと内発的動機づけがマッチングしたのだと思うのである。