優生思想と個人の想い ~出生前診断と向き合って~ | ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

 

 

またこのテーマでの優れたドキュメンタリーを観た。出生前診断、9年前にも同じテーマの番組があり、このブログでも取り上げていたのだった。病欠の6年半のブランクはあっても差別にとても関心のある私としては避けては通れない。何故ならそれは、産めば新たな被差別者となり、中絶すれば親自身が差別者として苦しむ可能性を持っているテーマであるからだ。

 

 

若い女性ディレクター植村優香氏には9歳下にダウン症の妹彩英さんがいる。近年胎児の染色体異常を調べる出生前診断は、血液によるNIPT(新型出生前検査)と呼ばれるものがその簡便さから普及している。だがダウン症と診断された9割が中絶を選択している事実に接し、妹のような障害を持つ者の命を選択するということに疑問を感じたのである。これはそれなりの教育を受けた者が持つ反優生思想と言っていいだろう。

 

番組では優生思想という言葉は出てこなかったが、これはタブーに触れることになるからではないかと感じた。我々が思いつく優生思想とはナチスのユダヤ人殲滅のようなものを指し、悪のレッテルを貼られて久しいからである。だが本来の優生思想とはこの出生前診断のような人々の幸福(私個人としては近視眼的に思えるが)を求める気持ちに根差しているものだと思う。ただ、やはりナチスの思想に近い危険性は孕んでいるからこういうテーマが成り立つのだろう。

 

番組には出生前診断を受けて中絶を選択した人も、出産を選択した人も登場する。また恐らく私と同世代の普及する以前で検査を受けずに出産し、結果ダウン症だった人の声もある。だから一応両論併記的公平性は備えている。だが衝撃的なのは出産後にダウン症だと診断され、検査を受けなかったことを後悔している母親からのメールだった。これこそが9割の中絶選択者の少なくない層と重なっているようにも思えるのである。

 

彼女は我が子を受け入れられず乳児院に預けている。「ダウン症や障害のある方を見かけても気持ちが悪いなぁ、怖いなぁ、と思っていました。(中略)ダウン症候群は出生前診断で分かってしまう障害ですので、産んでしまったことをとても悔しく思います。(中略)ダウン症の妹さんがいらっしゃるのに、残酷な言葉を沢山並べてしまい、申し訳ありません。」 建て前の道徳としては問題はあるだろうが、非礼を詫びることの出来る普通の人なのだと分かる。優香氏はこれを母親に読んでもらい感想を尋ねた。母親の智子さんはこう答える。

 

「ママも相当つらかったから分かるよ、この苦しみは。あの時の感情をそのまま、感じたことが無い人に分かってくれと言っても、これは本当に難しい。人でなしって思うかもしれないけど、私は何を産んじゃったんだろうって、本当にそういう感情だったよ。」 ”私は何を産んじゃったんだろう” 母親の我が子に対する表現として道徳的には許されないレベルだが、それをさせてしまうだけの圧倒的な拒絶感だったのだろう。彩英さんがこの場面を観ずにいられるのか心配になるほどだ。

 

もちろん中絶を選択した人の中にも多くの人にも納得出来る言葉を見つけた人もいる。おかゆさん(ブログネーム)はこう言う。 「命をもって私にいろんなことを教えてくれたので”ありがとう”と思っているのと、私と夫の判断で命を絶ってしまったことに”ごめんね”という気持ちです」 一見陳腐な表現にも見えるが、教えられたいろんなことの内容には陳腐さは無いはずである。彼女は「選択肢があったことは良かった」とも言うのだが、私にはこれがある種の強さだと感じる。

 

以前のブログに書いたことだが、運命論者の私や妻には選択肢は無い。幸であろうと不幸であろうと受け入れるだけだからだ。だから出生前診断を受けることはあり得ない。だが不幸を受け入れた後には強さは必要になってくるはずだ。それはおかゆさんには無い強さなのかもしれない。強さにもいろいろあり、弱さにもいろいろあるということである。それによる個人の想いは様々だ。出生前診断が何らかの優生思想に基づいていたにしても、それで救われる人も救われない人もいる。