旧優生保護法裁判の問いかけ 不妊手術を強制された障害者をめぐって - NHK クローズアップ現代 全記録
7月3日、最高裁は旧優生保護法下における障害者に対する不妊手術の強制を違憲と判断し、国に賠償を命じた。
日頃、自民党に投票する保守的な私だが、根っこの部分は自己決定権を重視するアナーキストである。自分のことで勝手なことをされるのを極度に嫌う。そんな意味では原告の気持ちはよく分かるつもりだ。
但し、国の強制性はそんなに苛烈なものとは思えなかった。番組に登場していた当事者は、親の同意があったケースばかりだからである。
脳性まひの原告、鈴木由美さん(68歳)も12歳のとき子宮摘出手術を受けたが、母親から「あんたのためにしたんや」と言われたそうだ。
”親の同意を形成させたのは国の方針があったから”ということが”強制性”の理屈になるのだろうが、アナーキストの私には”自立的でない自己決定”に思えたのである。
私なら不幸を引き受けてでもそんな判断はしない。だが当時の母親は(現代の母親でも)そんなに自立的に生きるという選択が難しかったのも事実だろう。
障害のある我が子が可能な限り幸せに生きていくためには、何かに依存していかなければならない。その対象が国の方針だったということなのだ。
今回の判決は憲法第13.14条の個人の尊厳と幸福追求権に反するとしているが、それら理想主義的な敗戦時の憲法は現実には遠く及ばないものだったはずである。
これらは人権思想が生んだ観念である。私はこの人権(=人間であることに基づく普遍的な権利)というものの非論理性をかねてより憂いて来た。
権利とは義務を担保として成り立つ”社会的な概念”である。それを自然権などと称して義務を負わずに誰にでもに保障されているとした非論理性が問題点を見えなくさせていると感じるのだ。
障害者が子育てをすることには様々な”義務”のハードルがある。まず第一に安定した収入を得られにくいという経済的な事情により、充分な教育を受けさせられないことがあろう。
それは資本主義社会において、障害者が労働の対価として収入を得ることの難しさにある訳だが、この義務を果たせない以上”子を持つ権利”も諦めよという論理に整合性はあるだろう。これは障害者差別とは一応無関係で、例えば18歳未満だと法的には結婚出来ないことと同じである。
だが経済的に豊かになった現代において、学齢期でもない障害者がその障害故に子を持つ権利を諦めざるを得ないのは、人権という理想主義を語る上では問題となろう。
「クローズアップ現代」ではこんな例が語られていた。群馬県に住む知的障害を持つ土屋さん夫妻(45・41歳)には11歳になる娘がいる。彼等は工場に勤めて20万円ほどの月収があるらしい。
かなりの節約生活を強いられるだろうが、なんとかやっていけそうな額だと感じる。しかし彼等は読み書きやお金の計算に支援が必要でグループホームで生活しているのである。まめなやりくりは難しそうだ。
妊娠が分かった時に彼等の家族から「ふたりに育てられる訳が無いから駄目だ」と当然のように反対されていた。それをふたりの思いを汲んで家族に「責任を取ります」と言い、子育ての全面的な支援を決意したのが施設の理事長・金谷透さんだった。
だがその支援にかかる人件費や交通費は、国からの報酬が無いため施設の負担となる。私はここに国の理想主義の欺瞞を感じるのだ。土屋さん夫妻の義務を買って出た金谷さんの出費は、本来は理想を語る国が支払うべきものではないか。
冒頭の違憲判決によって国は原告に賠償を求められた訳だが、同時に土屋さん夫妻を支援する金谷さんの施設にも支援金を支払うべきだろう。何故なら子を持つ”権利”を剥奪された原告障害者への反省は、子を持とうとする彼等の”義務”を肩代わりしなければならないはずだからである。
但しこれは稀に見る幸運なケースだろう。障害の程度や「責任を取ります」とまで言う直接的な支援者の存在が大きい。この前提無しに支援金が支払われる制度が出来ては、SNSで土屋さんを中傷する者の論理を正当化するような不祥事が必ず起きるはずだ。
だから私は理想主義に首肯できない。だが国が理想を語るなら、義務として支援をして解決させる問題ではあるとも思うのだ。