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わくわく夢クラブ

『わくわく夢クラブ』は、敗戦後60年の日本の現状の中で、お米を中心とした食に還る~食改善こそが個人の健康への道そして日本の再生への道と考え活動しています!

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私は、結婚式というものはしたくない!と思っていました。

 

「あんな形式的なものは必要ない!」と思っていたからです。

 

 

でも父は「どうしても結婚式をあげて欲しい」と、譲りませんでした。

 

国鉄職員であった父は一応駅長まで出世し、

人脈を作ることに長けていました。

 

同級生の国会議員のパイプで、

多くの人の就職のお世話をしたり、

 

また国鉄にも何人も就職のお世話をしたりしました。

 

 

 

父は母に何度も起業させましたが、

その一つに新聞販売店がありました。

 

 

 

その販売店の権利は、

徳島新聞の偉い人との人脈を作り

得たものでした。

 

 

もちろんその裏には、

父の友人であった池田の名家が持っていた

販売店の権利を手放すという情報を得ていたことがありました。

 

 

 

 

若い頃は、私はこういう策を弄する父が嫌いでした。

ただ純粋?な私は何か悪いことをしているように感じていました。

 

今となっては、

少しくらい学んでおけばよかったと思うばかりですが、、(^-^;

 

 

 

そんな父だったので、

やはり長女の結婚式はしておく必要があったのでしょう!

 

 

というよりもあの時代の親にとっては、

違った意味があったのかもしれません❗️

 

 

 

 

小川先生に確か「親の言うことを聞いてあげるのも大切なこと」

というようなことを言われ、

その言葉に納得して、

 

お家で村上光照先生に仏式の結婚式をしていただき、

結構、盛大な披露宴を阿波池田観光ホテルでしました。

 

 

 

それから下田に行き、

下田の皆さんにマクロビパーティを開いていただきました。

 

 

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私たちの仲人をしてくれた小川茂年先生の本です。

 

 

小川先生は月刊誌『生きている』をずっと書き続けていました。

この本は1号から160号までの

主として初期のものをまとめたものです。

 

 

小川先生、

桜沢先生(マクロビオティックの創始者)の著書に

触れて食と生と人間について考えるようになる。

と書かれていました。

 

先生は日本CIにも出入りしていて、

そのご縁で奥様の郁子さんとも出会われたのでした。

 

 

あの大森英桜先生とも親しくされていて、

実は私小川先生に

『大森先生の奥様・一惠先生に

お料理を教わりたいのでお願いをしてほしい』と

頼んだことがありました。

 

 

残念ながら実現しませんでした。

このことも私の人生の中で、

残念な出来事の何位かに入っています。

 

 

 

先生はお米から野菜まで

ご自分で作られていました。

 

先生の作る玄米餅は最高でした!

 

 

私は小川先生が大好きでしたが、

何にもわかっていな私(私たち)を

どんな思いで見守っていてくれたのかと思うと

胸が痛いです!

 

→次に続く

 

 

 

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とにかく下田は楽しいところでした。

 

今まで聞いたことのないような話が、

先生たちの口からどんどん出てきました。

 

私は好奇心いっぱいで、

乗り出すようにしてお話を聞きました。

 

 

杉野さんとは2回目に会ったときに、

結婚を決めていました。

 

 

そして、下田に住むことになりました。

 

 

スピード婚だったわけです(^_-)-☆

 

 

下田では守先生が、

運動手技を中心にした

健康道場を開きました。

 

 

私たちはそのお手伝いをすることになったのです。

 

→次に続く