シリコンバレー様からリブログして頂きました。そして当ブログのフォローまでして頂けました。身に余る光栄でございます。本当にありがとうございます。お茶湯のことを教えて頂いただけでなく、ご紹介とご支持を頂きまして、重ねて御礼申し上げます。
リブログ先でも紹介されていますが、お茶湯では、「菩提心」という利他心でもって気持ちを込めることが大事であるとのことでした。
いやはや、本当に、大変勉強になっております。
霊主体従、見えない世界が本来の世界で、こちらが投影物であると、目に見えない世界の重要性を、丁寧に話してくださっています。
「ほとんど、我々の生活というのは目に見えないもので出来ています。空気もそう。コロナウイルスもそう。この世にあるものの方が氷山の一角であり、あの世のもののほうが、目に見えないもののほうが遥かに多いということ。」
実は私、この数年、眠っている間に見る「夢」、これは起きたら現実として形には残らないのですが、「見てきた」という事実は、自分の中に確実にあるのですよね。かたや、自らの体を始め、家具やらひとつひとつの「モノ」というものは、燃えてなくなれば消えてしまいます。形あるものはいずれ必ず無くなるのです。そう考えると、睡眠中に見た「夢」は、何があっても絶対に無くならないんですよね。忘れたとしても、存在は、事実は、消えない。しかし物質はいずれ消える。そう考えると、夢の世界の方が実物で、こちらの世界が虚実ではないか?と考えるようになりました。コチラは消えるけど、アチラは消えへんな。と。
「目には見えないけど、確実に在る」もの。気持ち、心なんかもそうですね。
目に見えない「こころ」、言葉にして表すことが出来ますね。文字にすると目に見えますし、物を贈っても形になって目に見えますね。
少し話が逸れますが、誰かから親切にして頂いた時、特に目上のかたから品物を頂戴した時など、お返しをどうしたらよいか、よく悩みます。それで、今もですが、もっと若い時分はなおさら、親切にしてくださる方々は生活に困ってないし、お金にも困ってないし、物も足りていて。食べ物を選ぶにしても好みもあるし、考え方などもあるし。そうかと言って何も渡さないのもなぁ、とか。そこでたどり着いた答えが「手紙」でした。手紙に感謝の気持ちを言葉に綴って渡す。手紙なら口に合う合わないの心配もない。「言葉」というものは物質として目に見えないし、食べることもできないけれど、心を伝えることができる。相手に喜んで貰うことができる。
勿論、物を贈ることもしばしばあるのですが、たとえば近所の人とすれ違う時に交わす挨拶。あれも目に見えない形で心を通わせているんですよね。見ず知らずの人でも、少し困った様子があるなら「大丈夫ですか?」と声をかけてあげるのも、菩提心ではないかと思います。
因みに、音声の言葉と、文字での言葉、これの違いを、養老先生が解説されておられて興味深かったです。音声の言葉を、頭の中で文字に落とし込んで理解するという工程を踏んでいるとか、確かそんなようなお話だったかと。ブログに書いたかな?
ところで、この一年くらい、毎月毎月よく風邪を引いていまして。体温は下がらないように気を付けているのに困っていまして、年明けつい先週も、酷い頭痛と嘔吐で3日間ほど寝込みました。全く盲点でしたが、憑依が原因だったかもしれない説は、あながち外れてもいないのかもしれません。わかる人から見れば「ひどい肩こりに頭痛嘔吐って憑依じゃん!」とわかるのかもしれませんが。そういえば、私は知らない人からよく道を聞かれます。1年に何回かは聞かれます。その度に「あぁ、尋ねにくいような人相にはなっていないらしいな!安心安心」と思っているのですが、憑依を受けやすい?ことと関係していますかね。まぁ、よくどこへ行っても全体を見渡す癖はあると思います。全体を見て、自分がどいう立ち位置で行動すべきか計算してます。
いやーしかし、表さんのは勉強になりすぎる。
なんと神谷さんとは2012年から10年の付き合いなんだそうで。表さんのところで修業されていたそう。
表さんのご著書!是非読みたい!
西田昌司さんとは30年近いような付き合いなんだとか。10年どころじゃなかった。
「表先生の話が飛ぶので、なかなかまとめきれなくて一度流れた。今回はうまくまとめてくれてる」と笑。
西田先生が30代で府会議員になられた頃から、もともと美容師だった表さんに散髪してもらっていたそう。へぇ。
表さんも神谷さんもご自身は学校拒否派であったらしい。私と同じじゃん!!うれしー♪
基本は家庭教育と思う、という点も全く同じ。子育てと政治が切り離せないということも全く同感。私も子供が出来なければここまで政治に興味はあっても参加をしようとは多分思わないです。
「親子一代、師弟三代」 親子の関係は育てるという一代で完結するが、師匠と弟子の関係は一代で終われないところで、どういう先生と巡り合えるか、自らちゃんと選ぶことが大事であるとのこと。
コメントより抜粋。
公立小学校で働く教師ですが、神谷さんがおっしゃるように子どもを型にはめる教育に子どもたちが苦しむ様子を目の当たりにしています。できることなら多くの方がされているように自分でフリースクールをやりたいと思うのですが、自分にも養う家族があり生活難になるのが怖く実行に移せずにいます。教育クーポン券などの政策などが充実し自分たちでやりたい教育を行える、そして子どもたちも受けたい教育を受けれるような環境になったらいいなと思います。参政党応援しています。
学校付き合いに関しては、私が懸念していたより、問題なさそう?というところに落ち着いています。私の希望も両立しているというか、私の心配をよそに、子供の持ってる精神性が高いというか。
しかし、悪影響に対する懸念をすべて払拭できた訳でもなく、第3子が入学する頃には「学校まかりならん」が限界超える可能性を感じています。もちろん本人の意思を尊重しますけれどもね。もしくは私自身でフリースクールとか始めてる可能性もなきにしろあらず?なんてね。結婚当初、嫁ぎ先の環境があまりにも良いので、「うちで保育園か学校やれるんじゃない?」なんて半分冗談で、でも割と本気で思ったものです。この環境なら幼稚園行く必要ないじゃん、と3人とも自宅保育で来ています。
よく「幼稚園?保育園かな?」と聞かれる子供たち、「幼稚園も保育園も行ってないんだよ!」とか、「まだ6才にならないから小学校に行けれないんだよ~」とか答えてます。ま、「子供は幼稚園か保育園に通っているのがあたりまえ」と思っている大人しかいないことの悲しさよ。もうすぐ2年生が終わる第1子ですが、幼稚園保育園いかなかったので小学校で困った、というようなことは、皆無です。今のところ。むしろ「はなまる!」と言われるくらい。何が良かったのか分析まで出来ていませんが。第1子が楽しく学校生活送っているものだから、第2子がいまかいまかと入学を心待ちにしています。友達をいっぱい作るんだ!!と密かに物凄い情熱をため込んでいる最中です。笑
表さんは、今まで話を聞いてきたかたがたとまた一味違って、でも西田さんや藤井さんのように、気持ちの大きさが伝わってくるので、新鮮でとても興味深いおかたです。「人は日々生まれ変わっている。眠る時に死んで、起きた時に生まれている。」という話をされていまして。私、第3子が朝目覚めた時に、「おはよう♪今日も生まれたね♪♪」と言うのが常套句になっておりまして。あながち間違ったこと言ってなかったわ!とビックリしました。今まで人知れず感じ取ってきたことが、急速な勢いで糸を繋いでいるような感じで、ババババ~ッと何かが出来上がっている感じがしています。
お茶湯、第1子が「無縁法界供養」のお茶湯流しをやりたそうにしていて。同一人物が終始やらないといけないかと思っていましたが、問題なさそうであれば子供と分担しても良さそうな気がしています。
嫁ぎ先は、豆まきやら、お盆やら、お彼岸やらを、大切にしている家なので、幼少からその様子を見ていた子供たちのほうが、私よりよほど「お茶湯」をモノにしそうな予感がいたします。笑