ブンダン | 町田ロッテと野球散策

町田ロッテと野球散策

いやぁ、野球って、本当にいいものですね。

 「理系女子」のことを「リケジョ」というらしいです。「カープ女子」や「オリ嬢」「ジャイ子」のような呼び方です(「ジャイ子」は違うか)。STAP細胞の報道でより「リケジョ」はよく言われるようになったかもしれません。その前は「レキジョ(歴女)」「鉄子」なんてのもあったでしょうか。


 さて「リケジョ」。そういう意味では私は生粋の「ブンダン」です。文系男子。


 そうなったのがいつだったかは、明確に意識しています。1990年、高校入学していきなり風邪で一日授業を休んでしまいました。そしてその高校は都内有数の「数学のレベルが高い学校」と言われ、入学前に教科書を購入したら「早速予習しないと授業についていけない」とまで言われていました。

 そして春先にいきなり欠席した直後の「数学Ⅰ」の授業・・・もう何を言っているのかわかりませんでした。そこからその一日の差を全く挽回することができず、今に至ったと言っても過言がありません。

 高校2年の時には、数学で留年しかけました。通知表の座布団(10段階評価で「3」以下には下線がつき、それを「座布団」と言っていました)は、もう見慣れてしまいました。一方で国語と地理歴史は自身もとから興味のあった分野だったために猛勉強も苦ではなく、こちらはけっこういい評価でした。


 そして大学は迷わず文系を志望、理系科目は受験すらしませんでした。とはいえ1校だけは5科目受けねばなりませんでしたのでセンター試験はちゃんと受けます(ほぼ「捨て」でしたけど)。



 昨日、センター試験が行われたそうです。そこで朝日新聞では「そもそも文系と理系はどこでわかれたのか、なぜわかれたのか」といった記事がありました。「知」という領域を文理で分ける弊害についても触れています。そもそも片方だけに通暁しても、その世界は限られたものになるのではないか。ただ、文系より理系のほうがはるかに就職に有利であるという世の中も、その文理の分離に関係がないとは言えないでしょうか。

 もちろん私、理系はちんぷんかんぷんです。マリーンズドラフト2位・田中英祐投手の卒業論文の「(なんとかかんとかの)逆計算理論」と聞いても、未だに表題すら覚えられません。もちろん内容なんて想像すらつかず、書き出しはどうなるのかすら分かりません、まさか「みなさんこんにちは」ではないと思いますが。


 取り戻せるならば、あの高校1年のあの一日を、取り戻したいものです。ただそれでも私は文系まっしぐらだったかもしれません。世の中、あまりにも文理が分離していたように思えます。

 あまりにも実利のある科目ばかりが重視され、裏付けとなる「知」の強さというものがあるとすればそれは痩せ細っているかもしれないと思うようになりました。いきなりは役に立たないかもしれない深奥の「知」は、もしかしたら今後の人類にとって新しい何かを生み出す原動力となるのでは。


 ひとまず「文系」「理系」を離れて、興味のあるものに対してひたすら探究する姿勢は持ち続けたいものです。