母は那覇で生まれました。海岸近くの小さな個人商店でした。そして地元の首里高校を卒業してから上京し、御茶ノ水の専門学校に通ったそうです。当時の沖縄はまだ米国の施政下にありました。そんな彼女が見た東京ではロングヘアーのフォークシンガーが本当に多くいました。父は、その一人でした。
1984年だったでしょうか。母に連れられて沖縄に帰省した私は、車種ナンバーが1桁の古い軽自動車に乗って北へ向かいます。宜野湾だったかコザだったか名護だったかは忘れたのですが、石造の親戚の家に着きました。テレビはロサンゼルスで活躍する体操の具志堅幸司らを映していた暑い日でした。昼だったので、ハイライトだったかもしれません。
その家は昼にも関わらず薄暗く、熱い空気が充満していました。親戚らしい女の子は「リンダ」という名でした。父親はアメリカ人でした。リンダは、私たちを部屋の奥には決して入れてくれませんでした。ベッドに横たわる男の人の足だけは見えました。
那覇に帰る車の中で聞いた事実は衝撃的でした。「あの人、麻薬中毒なんだって」
◆◇◆
私の中では決して明るくない沖縄の母の故郷のイメージ。しかしそれは(そこに代表されるものでは絶対にないのですが)、沖縄の歴史の一断片でもあるのです。基地は、常に隣り合わせでした。
先日の名護市長選の争点はほかにもあったかもしれませんが、「普天間基地の辺野古移転」の賛否でした。宜野湾市にある普天間基地を、アメリカの要望を受けて名護市・辺野古へ移転するという話は進んでいましたが、移転反対派の現職が今回当選したのです。
困ったのは、安倍政権でした。日米の軍事上の連携を強めたい政権にとっては辺野古移転は課せられたミッションでした。そこで病院を作るなどの開発を助成するという政策を打って名護を説得しようとするもなかなかうまくいきません。そこで今回の市長選では移転賛成派の新顔を応援したのですが、民意はそこにありませんでした。名護市民の多くが、移転反対を唱えたのです。
ところが安倍政権は「辺野古移転計画に影響はない」とし、そのまま押し進めるそうです。昨年移転賛成に転じた沖縄県知事もいます。「国策」の視点で強引にやっていくことでしょう。
ただ、名護の民意をどうするのか。
利害は対立します。そこからどういう配分を行っていくかはまさに政治と言えるかもしれません。民意を取るか、中央の国策を取るか。折衷案なんてものはあるのか(私はこれに関してはなかなかないように思いますが)。
ちょっと、注目しています。民主主義、地方自治(「中央と地方の関係」)、国際政治、選挙・・・多くのエッセンスがここにあるのですから。
ただ、この選挙結果は重いです。投票率から見れば先の衆院選以上に重いはずです。
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