アクティブな爺さんになりたい。人生の春は、定年後にある。二十四時間三百六十五日を自由に自分のために使えるのだ。勤めている頃にはできなかった事、始めるのに遅いなんてことはない。外国語も学んでみたいし外国にも行きたいし、もちろん野球も観まくり読書もしまくり、体も鍛えて・・・と、想いを老後に馳せるのである。実際には体がついていかないかもしれない。脳味噌がついていかないかもしれない。ただ、それでも老後を「余生」と捉えず、前向きにいろいろ新しい事にチャレンジする老人は増えているのである。これからは逆ピラミッドの少子高齢化社会なのである。定年後、まだまだアクティブに行きたいものである。
・・・と、本を読んで思った。この本には、非常に若々しく元気でアクティブな爺さん婆さんが何人も登場するのである。一応、ミステリーではある。
歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』。桜はピンクの花びらを見るものに印象づける春にしか愛でられず、花びらを散らした後は薄情にも忘れられる。あれだけ春にピンクに賑わせたのだから、日本には桜の木は多くあるはずなのに、である。そして忘れられた桜は葉桜となり、実は紅葉も地味ながらある。ピンクの花びらの季節が青春の時期だとすれば、葉桜は壮年、老年に向かう時期。ただ葉桜もれっきとした桜。その葉桜の時代も、アクティブに生きられるのであるという事を登場する爺さん婆さんに教えられた思いだ。とにかく、若いのだ。
それにしてもこの本には見事に騙された。読後に帯を見る。すると、書いてあるではないか。
「騙されてください」と。参った。