西村京太郎『五能線の女』 | 町田ロッテと野球散策

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いやぁ、野球って、本当にいいものですね。

結局今日も会社を休んでしまった。ただ病は快方に向かいつつあるので、明日には復帰できるであろう。感染による二次災害を避けるためにはやむを得ないとはいうもののだいぶ会社に迷惑をかけてしまった。職場復帰後に取り返したい。それにしても「やまい」と打てば第一変換候補には「山井」が現れ、「かんせん」と打てば「観戦」と出るパソコンを前にすると、己の野球バカぶりがわかってしまう。

選挙を終えての今日。かつての首相であった菅直人氏の当選は未明の午前三時だったという。それほどにまで、民主党の退潮は顕著だったということだろう。首相まで務めた菅氏も、かつては市民運動の旗手だったことは知られている。かつての女性政治家・市川房枝氏の運動に携わってからの政治活動である。日本で女性に参政権が与えられ、成人全てに選挙権が与えられるのは戦後のことである。普通選挙の始まりは納税額による制限を撤廃した一九二五年とされるが、これは男子のみのものであったので完全には普通選挙であるとは言えないと私は思う。それ以前はいわゆる高額納税者のみの権利であった参政権だったのである。政治家とは、地元の名士なり貴族が担うものであり、ステータスでもあった。

それで、今ではどうか。なるほど、納税額の制限はもとより、性別による制限も撤廃された普通選挙である。しかし実際に政治家になる者と言えばやはり今も世襲であったり企業の社長であったり地元の名士であったりで、その出自に私はどうしても偏りを感じてしまうのである。政治には金がかかると言われる。やはり一市民が政界に名乗り出るには、かなりの障害があると感じてしまうのである。「階級の断絶」と言っては極論かもしれないが、市民の生活と政治の世界の間での乖離を感じさせてしまう背景を思うと、これを感じざるを得ない。したがって市民は政治に諦観なり無関心なりを帯び、投票所へ足を運ばなくなるのかもしれない。

いつの選挙でも思うのだ。どこの党というよりかは、ごく普通の生活者に政治をやってほしいと思うのである。もちろん政治家の全否定ではない。ただ、上記の乖離は埋めねばならないと思う。「ごく普通の生活者」という定義も曖昧なのであるが、いずれにしても政治の委託者である主権者(「国民」という言葉はあえて使わない)はその乖離を埋めるべく今後の政治の舵取りのみならず身近な生活における問題に真摯に関心を持ち続けることが大事だろう。かく言う私も日々の生活に埋没して目すら向けなかった問題も多々あるのであるが、電力、税金、環境をはじめとして身近な生活問題は多い。その生活を自衛するつもりで生きることが、家族を守ることでもある。


と、仕事を休んだおかげで珍しく政治について考えてしまった。まぁ、たまにはいいだろう。

「怪我の功名」と言っては職場に白い目を向けられてしまいそうであるが、読書も進んだ。


一年ぶりの西村京太郎『五能線の女』。ドラマ化もされたと思うが、本当に西村京太郎はいろいろな鉄道ミステリーを考えるものだ。学生時代に旅した青森の風景を懐かしみながら、楽しく読むことができた。凄惨な殺人事件が描かれるにもかかわらず本筋の巧妙さを楽しませる稀有な作家である。


そして十年ぶりくらいか、森博嗣『すべてがFになる』。文系人間の私には本作のテクノロジー系用語が難解だったのだが、読後にじんわりと訪れるシステマティックな魅力がなんとも言えないのである。トリックは正直言ってあまりにもテクニカルなため理解度三十パーセントといったところなのであるが、それとは対照的な、あまりにも人間的な動機はちょっとびっくりした。これまでとはまた一味もふた味も違ったミステリーである。


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