本日より職場復帰した。当然の事ではあるが、最初の格闘は溜まりに溜まったメールの処理であった。億劫極まりない仕事ではあるのだが休んでいた期間の情報はしっかり掌握しておかねばならないのでやむを得ない。
インドに行ったわけではない。遠藤周作の世界の話である。
読んだ時期によって本から受ける感銘は全く別のものであったりするのは不思議な事ではないだろう。この『深い河(ディープ・リバー)』はいつの頃からか我が書架に潜み続けていた本であるが、今回初めて読んだ。ところでそれはいつ手に入れたのだろうか。本のカバーには古書店の二百九十円の値札がついていたのだが、屋号は「ブックマート」とある。かつて住んでいた東久留米市内の書店だ。つまり・・・十二年以上前のことである。ああ、随分と長い間の「積ん読(つんどく)」である。重要なのはただ一点。
その当時、私はまだ妻と結婚するどころか、出会ってすらいない。
『深い河』本筋としては宗教如何にかかわらず聖なるガンガー(ガンジズ河)は貴賤の別を問わず死を飲み込み、転生させてくれるものだという話である。そこへいろいろな人生を辿った様々な者が赴くのである。その中で、老境において妻を病で亡くし、臨終間際に「生まれ変わるから、探して・・・」と譫言のように言われたとある夫はその転生を信じて、アメリカの大学での情報を手掛かりにその「生まれ変わり」の少女を追い求めてインドへ向かう。その夫は妻との思い出に浸り、今まで粗略に扱ってきたことに対して悔やむ。
本筋ももちろん素晴らしいのであるが、歌で言えばサビにも入らぬイントロダクションに近いこの部分についての考えが、作品に触れる脳の大半を占めてしまったのである。私と妻、互いに同程度の不健康な生活をしているためどちらが先に逝くかはわからない。ただ、妻が先に逝った場合、私はきっと同じような心境になるのではないか。結婚後の人生において妻と共有する時間は、己が先に逝かない限りは一部分である。残りの部分は、一人である。その一部分を終えてしまったとき、きっと惜しむ。いや、惜しまない人はいないだろう。となれば、その一部分は愛おしく、大切にせねばならない。当たり前のように過ごすと、それこそ粗略になりがちだ。その一部分は一部分ゆえ、いつかは終わる。だからこそ当たり前のものと思わず、大切にしていきたいものである。
妻とは、人生において最も枢要な位置を占める他人である。失って、その生まれ変わりを世界の果てまで探しにいきたいほど枢要な位置を占める、他人。
