MACF礼拝説教要旨
2024年5月19日
「ペンテコステの日に」
使徒言行録2章
1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。
また、ローマから来て滞在中の者、
11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、
彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
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ペンテコステの日に不思議なことが起こりました。
聖霊がそれまでに経験したことがないくらい明確に使徒たちの上に降ったのです。
まず「ペンテコステ」という日の意味から探っていきましょう。
ペンテコステというのは過越の祭りから数えて50日目という意味で、五旬祭といわれています。
規定はレビ記23章に書かれています。
15あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満七週間を経る。
16七週間を経た翌日まで、五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる。
17各自の家から、十分の二エファの上等の小麦粉に酵母を入れて焼いたパン二個を携えて、奉納物とする。これは主にささげる初物である。
最後の晩餐のあった過越の祭りの時には大麦を初穂として神にささげ、「種の入らないパン」を
7日間食べなければなりませんでした。
今回の7週の祭り、五旬祭では神様への初穂として新しい小麦粉にパンだねを入れて焼いたパンを2個捧げなければならないと規定されています。
そして、この種を入れたパンに重要な意味があると言われているのですが、これは「ユダヤ人と異邦人」を意味しているといわれています。
エフェソの信徒への手紙にパウロはこう書きました。エフェソの信徒への手紙2章11-18
11だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。
12また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。
13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において
敵意という隔ての壁を取り壊し、
15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことが
できるのです。
そして3章3-6節
5この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。
6すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。
これはそれまでの律法を拠り所にしてきた人たちには驚くべきメッセージだと思います。
でも、実際、聖霊が降り、エルサレムにいたさまざまな国の人たちが間違いなく神の素晴らしい
メッセージを自分の国言葉で聞き、理解したのです。
つまり聖霊が降ったことで五旬節の祭りの真意が「そのとおり」と神様から認定されたようなものと
理解できるのだと思います。
当時神殿にはユダヤ人しか入れない区域があり、ユダヤ人以外の人たち、いわゆる異邦人は神殿での礼拝などについては区別や差別が厳然として存在していました。
ところが、このペンテコステ(五旬節)の祭りの意味を神様が特別に取り上げて諸国の民にわからせようとするかのように、神の恵みは全ての人々に注がれていることを聖霊を降すことによって明確に宣言されたのです。
弟子たちは一体何が起こっているのか、どういうことなのか、そんなにはっきりとは理解していなかったかもしれません。でも、聖霊を受けてペトロは素晴らしい説教をしました。明確に神の恵みを語りました。今までのペトロとは別人になったような態度と言葉です。
まさに神様から与えられた聖霊による「証しのための力」です。
使徒言行録1章
8あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
ペンテコステの祭りに象徴されている種を入れたふたつのパンの奉納は神様の祝福が全ての人に及ぶことの象徴でした。
そして、そのメッセージは聖霊によって整えられつつ、聖霊の力によって確実に伝えられるべき性質のものです。
聖霊こそが使徒たちにとって「最重要な力の源」でした。
この「力」というのは「ほらすごいだろう」と見せびらかせるようなものではなく「神の証人」としてふさわしく生き、語り、伝え、理解させるための力です。
人間的な側面から言えば「確信をもって大胆に語り、大胆に生きるための原動力」と言えるかも
しれません。
それはイエス様が教えてくださった内容でもあります。ヨハネによる福音書14章-16章に教えられて
います。
1)聖霊はともにおられ、イエス様の教えをすべてを教えてくださる
2)聖霊は「もうひとりの弁護者・助け手」イエス様と同質
3)罪について、義について、また、裁きについて明確に教えてくださる
4)すべての真理を教え、イエス様の栄光を表す
弟子たちの活動で有効かつ強力なものはすべて「聖霊の助けと存在」によってなされたものです。ペンテコステの日に、その出来事が公に開始されたのです。
そこにいた様々な言語を使う人達に対して、彼らに理解可能な言葉で神様の偉大なわざについて証しされました。
どこの国のどの言語の人たちにも神の恵みと愛は伝わる内容を持っているということです。
さらに、エフェソの信徒への手紙の中でパウロはこう書きました。
エフェソの信徒への手紙1章13−14節
13あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。
14この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
私達には聖霊が与えられています。信仰への促しも確信も聖霊の働きによるものなのです。
それは神様が私達を見捨ててはおられないという意味でもあるでしょう。
更に、聖霊によって私達は「証人」としての知恵や力も、言葉も与えられているのです。
イエス様についての福音宣教は人間的な宣教会議や方法論を超えて聖霊の促しに従った弟子たちの生き方、聖霊によって心整えられた人たちの言葉と生き方によって広がっていきました。
さらにいえば、聖霊によって真理を教えられていると言われていますので真理と異なるものが耳に入ってきたとき聖霊はすぐに心に「違和感」を感じさせてくださいます。それは私達の不信仰ではなく、聖霊による健全な違和感なのです。
それを大事にしながら判断をくだしていくのです。
素晴らしいことがペンテコステの日に起こりました。
私たちはペンテコステそのものの祭りの意義を理解しつつ、聖霊に整えられつつキリストの証し人として、その言葉、生き様を通して、神様の素晴らしさを分かち合えたらと願います。
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Youtubeでの礼拝映像は