【日ごとの糧】(ローズンゲンによる)
2021.01.19

主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊が
わたしをとらえた。わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には
自由を つながれている人には解放を告知
させるために。 主が恵みをお与えになる
年わたしたちの神が報復される日を
告知して嘆いている人々を慰め・・・
(イザヤ書61章1、2節)

悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
(マタイによる福音書5章4節)
++++++
このイザヤの預言はルカによる福音書
の中でイエス様によって読まれ、実現した
と言われました。
その中心的なメッセージは「悲しむ人への
福音」です。貧しい人、打ち砕かれた人、
捕われている人への福音です。
私たちは自らの不遇を呪い、不条理について
恨みをいだき、自分の悲しみなど誰にもわかって
もらえないと不貞腐れやすい傾向があります。

しかし、神の心は、そういう私たちに向けられ
ており、さまざまな形で慰めや励ましをもたらそうと
してくださっています。
それが私たちの望む形でないとしても、あるいは
望むタイミングでないとしても、聖書によれば
神の心は私たちへの解放、慰めを提供しようと
愛をもって働いておられるというのです。

それがしみじみわかるためには、時間が必要
かもしれませんし、ちょっと立ち止まって振り返る
ことが必要かもしれません。
神様は私を見捨ててはおられないと気づけますように。
心からお祈りします。
**
【日ごとの糧】をご一緒に
https://youtu.be/MzEnX0yVyc0

【花語らず】
 
柴山全慶老師(南禅寺の管長)
書かれた詩があります。

「花語らず」

花は黙って咲き
黙って散っていく
そうして再び枝に帰らない
けれどもその一時一処に
この世のすべてを託している
一輪の花の声であり
一枝の花の眞である
永遠に滅びぬ命の喜びが
悔いなくそこに
輝いている

柴山全慶老師(南禅寺の管長)
****
精一杯咲いて、散る花のなかに
わたしたちの生き方を見つめる題材を確認する。
この花は何も言わないけれど、この花が
咲くためには世の中のすべてのものが
その花を支えているからこそ、花が
咲き実をつけるのだということです。
そして、それらのものを黙って受け止め
静かに咲き、しずかに散っていく、その花は
なくなるけれど、その輝きはみたものの
心に残り、誰にみられなかったとしても
その花は精一杯咲き誇り、精一杯生きたのだと
いうわけです。
いわゆる、騒々しく自己主張をしないのです。
でも、その存在は間違いなく凛として
際立っています。
黙って、咲き、黙って散るという、その潔さについては、
ほんとうに考えさせられますね。

花を前にしてしっかり深呼吸したり、花を見つめて
その美しさを焼きつけたり、そういう作業のための
時間が取れると良いですね。
花の前で足をとめ、香りを感じ、色彩を楽しみ
その姿をしっかり堪能する。
私たちはいつからか、そういう時間を取りにくくなって
おり、そういう時間が無駄な時間でもあるかのような
気持ちになってしまってはいないでしょうか。

***
「恵みの深呼吸」「花語らず」はこちら
https://youtu.be/lclUYl-9pSc

【日ごとの糧】(ローズンゲンによる)
2021.01.18

 あなたのみが主。天とその高き極みを
そのすべての軍勢を地とその上にある
すべてのものを海とその中にある
すべてのものをあなたは創造された。
あなたは万物に命をお与えになる方。
天の軍勢はあなたを伏し拝む。
(ネヘミヤ書9章6節)

すべてのものは、神から出て、
神によって保たれ、神に向かっているのです。
栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
(ローマの信徒への手紙11章36節)
++++++
「神」という言葉から連想するイメージはどんな
ものがあるでしょうか。
偉大・栄光・創造・などでしょうか。
今、生かされている私の心に訴えられたものは
「命をお与えになる方」
「神から出て、神によって保たれ・・」
という内容でした。

私が今、生きているのは、実は神に生かされている
わけですね。
そして、いきとしいきるものが存在している背後に
神の「いのちの保持の意欲、善意、力」があるわけです。
それを思うと、そういう神様からの意欲的な
「生かすめぐみ」があるからこそ、今があるのです。
いろいろな不条理、なぜ生きる必要があるのか、など心の
中にあれこれ思い悩むこともあるかもしれませんが
神は、あらゆる不条理を承知の上で
「わたしたちを生かそう」として
くださっています。
苦悩や悲しみは消えないかもしれませんが、
生かそうとする神様の恵みはそれらのすべてを
超えて私たちに届いています。
*****
「日ごとの糧をご一緒に」はこちらです。
https://youtu.be/Rl-QsbBgmyE


 

【二度とない人生だから】
 
最近、坂村民真という方の詩集にはまっていて
何冊も買い込んで片っ端から読んでいます。
心に深く感じる詩がたくさんあります。
それらの言葉から教えられ、感じさせられ、生きるための
知恵を受け取れることの幸いをありがたいことだなと
思っています。今日はその中から
「二度とない人生だから」という詩を紹介します。
++++
「二度とない人生だから」
 坂村真民

二度とない人生だから
一輪の花にも
無限の愛を注いでゆこう
一羽の鳥の声にも
無心の耳をかたむけてゆこう

二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないように
こころしてゆこう
どんなにかよろこぶことだろう

二度とない人生だから
一ぺんでも多く
便りをしよう
返事は必ず書くことにしよう

二度とない人生だから
まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど
こころ豊かに接してゆこう

二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめてみつめてゆこう

二度とない人生だから
のぼる日 しずむ日
まるい月 かけてゆく月
四季それぞれの
星々の光にふれて
わがこころを
あらいきよめてゆこう

二度とない人生だから
戦争のない世の
実現に努力し
そういう詩を
一篇でも多く
作ってゆこう

わたしが死んだら
あとをついでくれる
若い人たちのために
この大願を
書き続けてゆこう
++++++++
「二度とない人生」「一度限りの人生」という言葉
は理解していますが、その出来事の貴重さ、
厳粛さを私はどれだけ自覚していただろう。
「一期一会」のありがたさをどれだけ味わっている
だろう。
深呼吸しながら、今生かされている祝福を
心から感謝したと思いました。
***
「恵みの深呼吸」はこちら
https://youtu.be/8Nc850yVOXI

 


MACF礼拝説教要旨
2021.01.17
【パウロの痛み】
ローマの信徒への手紙9章
9:1 わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。
わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、
9:2 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。
9:3 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。
9:4 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、
約束は彼らのものです。
9:5 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。
キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
+++++++++
1)イエス・キリストと出会ったパウロの変化
パウロは
9:2 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。
と語り彼の心を吐露しています。
その背景について少し説明しておきます。
パウロはユダヤ人であり、その律法の教師でもありました。
彼は熱心なユダヤ教徒であり厳格な律法主義の中で生きてきました。
ある意味でエリートであり、自分もそういう思いを持っていたと思います。
パウロはキリストと呼ばれているイエスを憎んでいました。人々から救い主と
呼ばれ神の子とまで言われながら十字架で死んだイエスを救い主と信じることなど
パウロには考えられない神への冒涜と映っていました。
イエスがキリストであるなら十字架で殺されるはずはないとパウロは考えていました。
そして、律法を守り抜くこと以外に神からの救いはあり得ないと信じていたのです。
イエスをキリストと信じている人たちを迫害するためにダマスコに向かう途中
パウロは不思議な体験をします。
使徒言行録9章にそのことが書かれています。
9:1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。
9:8 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。

のちにここにあるサウロはパウロと名前を変えられるのですが、彼にとってこのイエス・キリストとの出会いは衝撃的でした。
例えば、サウロはキリストを信頼しキリストの教える道に従って歩んでいる人たちを捕まえ、縛り上げ、連行しようとダマスコに
向かったのですが、その途中、光の中で現れたキリストは「なぜ、私を迫害するのか」とサウロに語るのです。
つまり、このキリストの心は常に「その道に生きる人たちと共に」ありました。キリスト者の苦難はキリストご自身のくなんでありキリスト者の悲しみ、痛みはキリストご自身の悲しみ痛みだということが表明されているからです。
弱く、迫害の対象になっているキリスト者の群れに対して「キリストは彼らは、そのまま私だ」と告げているのです。
それほど近しい存在としての救い主をサウロは知りませんでした。そんなに近くに語ってくださる神、神からの救い主をサウロは考えることができませんでした。
でも、そのお方から声をかけられ、サウロの心は180度変化します。
使徒言行録9章の続きを読みます。
た。
9:9 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
9:10 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。
9:11 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。
9:12 アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」
9:13 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。
9:14 ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」
9:15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。
9:16 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
9:17 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」
9:18 すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、
9:19 食事をして元気を取り戻した。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、
9:20 すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。
9:21 これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」
9:22 しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。

2)パウロの悲しみ・痛み
パウロはキリストとの出会いの中で「近づいてくださる救い主」「痛みや悲しみを分かち合ってくださる救い主イエス」に圧倒されます。
そしてイエス様からのアプローチはしっかり律法を守って救いを完成させよというものではなく、救い主自らが近づいて赦しをもたらし神の愛を示してくださり、恵みによって救ってくださることを知るのです。
厳格な律法を守ることでの救いではなく、恵みによる救いをパウロは体験的に知るのです。
本来なら、ユダヤ人たちは旧約の教えからイエス・キリストのメッセージや生き方を通して「愛と恵みと優しさに満ちた神」を
知るべきでした。
そのための様々な祝福、歴史があったはずでした。でもユダヤ人たちはその神の恵みを信頼せず、極めて自分勝手な組織を
形成し、言葉を大切にしながらも、その心は学んできませんでした。
全てが律法遵守ということに集中し、恵みの福音を届けるためにやってきたイエス様を殺してしまったのです。
それらのことごとをパウロは悲しみ、痛みとして理解しているのです。
***ローマの信徒への手紙9章です。
9:2 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。
9:3 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。
9:4 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
9:5 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。
キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
**
この悲しみについては「愛」の現れなのですが、辛い出来事です。
私たちは愛していても、相手のために何もできない場面があるのです。
例えば、自分が食欲がなく、食べることができなくてもある程度我慢しますが幼い息子が食欲がなく食べられない場合、親は心配しますが、何もできません。
親は子供のために代わって食べてあげることができません。愛してないわけではありません。親も食べられないほど悲しく心配になります。でも、親が身代わりに食べてあげることはできないのです。
神の恵みも同様です。私があなたに代わって神の恵みを受け取ってあげることができないのです。
それは自分が受け取る以外にありません。そのためには自分にそれが必要であることの自覚が
必要であり、求める心が内側に育たなければ、必要を感じていないわけですから心の奥には
届きません。心の扉を閉めてしまっているからです。
パウロは、本来なら同胞のユダヤ人たちは神の恵みを受け取れるはずだったのに
それを拒否している。神の祝福を味わえるはずなのに、自分の頑張りで神の恵みを
押し出してしまっている、なんと残念なことだろう、辛いことだと悲しみを表明しているのです。
悲しい思い、歯痒い思いを感じているに違いありません。

私たちの家族や友人、知り合い、仲間がキリストの恵みを知ってくれればなぁと
思うことがあります。教える、伝える、というだけではなかなか難しいことを私たちは
味わっています。
文化的な違いもありますし、キリスト教って外国の宗教でしょうという感覚があります。
神の恵みを知ることで、神を近くに味わい、安心して生きていけるのになぁと
感じることがあります。
私たちは、しかし、絶望する必要はありません。むしろ、祈ることで、聖霊が人々の
心に働き、その心に救いや助けを求める必要を感じる日が来ることを信じるのです。
そして、自らを彼らのために「しもべ」として仕えることができる内容があるかどうかを
考えながら生きる必要があります。その際、私たちは「しもべ」の形で生きる必要が
あります。気をつけないと、上から目線で「教えてあげる」という態度になりやすいので
生きる態度に要注意です。
祝福がありますように
***
Youtubeでの映像はこちらです。
https://youtu.be/Gh9E3d0NvtY