腕に成形された硬質プラスチック製の腕輪を嵌めるのはいつもの朝
の日課、8インチディスプレーを備えるユニットのボタンを押せば
計測が始まる。ACアダプターを介して100Vが使えるので乾電池
の残量を気にせず使えるのは良いところだ。
昨日の血圧は125の75で本日はどんなものか、115の翌日は
138などという日があるので油断は出来ない。すると上が105
で下が68、こんな低い数値は初めてで喜ばしいことだが脈拍数を
みて驚愕した。50などと低くなっているとは思っていたがなんと
15だったのだ。みなさんご存知のように0だと心臓は機能を停止
して待っているのは死だけだ。これはいかん早く薬を呑まねば、飲
むには朝食だ、いつものようにサンドイッチを作ろうと布団を捲り
上げてベッドから起き上がろうとしたところでわたしは動きを停止
させた。
本人には記憶を失った覚えはないがまるで映画を早送りで見るかの
ようにシーンが移り変わり救急車に乗せられたと思えば次には集中
治療室で医師から治療を受けている、そして姉夫婦や両親、近所の
人達が集まっているし遺影のあるところを見るとわたしは死んだよ
うだ。
「あいつら来ないじゃねえか」
あいつらとは農協の関係者でわたしは生産組合の役員をしていた。
同じ役員が死亡した時には出席の誘いが届いたのにわたしは蔑視
されているのか顔見知りは誰もいなかった。
誰にも聞こえる筈がない声で一人文句を叫んでいるとあり得ないが
わたしの肩を叩く人物がいたのだ。反射的に振り返るのは人間の性
(さが)であまり褒められる行為ではない、というのも死んだ私に
触れることができるのは人間ではないから人の筈がない。
「誰だ、あんた?」
「忘れたの、冥界への旅路の道案内をしてくれたじゃない」
20代女性で清楚、お嬢様という感じだろうか無論そのようなセレ
ブに貧乏農家のわたしには知り会いがいる訳がない。
「ちょっと、婚約者なんでしょ婚約者の顔を忘れるなんてひどいん
じゃない」
誰とも婚約した記憶はないしそれ以前に婚約指輪を買うお金がない
だから無理して買ったとしても忘れる筈がないのだ。
「どなたかと勘違いしてるのでは?」
「じゃアヒントを言ってあげるよ、ビールが欲しくなりスーパーの
大型冷蔵庫から一本缶ビールを出したらテレビドラマでやるコミ
カルなシーンみたいに続けてビールの缶が何本も落ち転げた。」
「うっ!」
確かに覚えはあった。
あれは夏の日、得意先での仕事が終わりどうしてもビールが飲みた
くなったわたしはコンビニに寄ってビール数本を買った時のこと。
自分の恥を話したのはたった一人だけだ。チャコといえば思い出し
た事がある、今まで忘れていたが癌で他界した彼女を不憫に思い彼
女の両親に婚約者だと宣言した事があった。証拠も何もない口約束
だけの話だが。
「おまえ・・チャコか」
「やっと気づいたね」
「相変わらず愉快な人生送ってるようで安心した」
「ほっとけ」
コンビニでビールを拾い集めた日、実は続きがあって帰社して
車から降りた時に事件は起こった。当時わたしはトラック運転手で
トラックから降りようとしたときコンビニの袋が手提げ部分から切
れて落下、缶ビールが最後の悲鳴を叫び缶から勢いよく噴き出した
普通車ならそんな事はなかっただろうが当時わたしが乗車していた
のは4tトラックで運転席が高いため起きた不幸な事故だった。
チャコだけには言ってあるし頭にきて穴の開いた缶も千切って中身
を捨てたことも伝えた。
「なんでチャコが迎えなんだ」
数多のご先祖様を差し置いてなぜチャコなのだろうか?
「誰だっていいじゃない」
「そりゃそうだけどさ」
「それにまだ死ぬ時期じゃないよ」
「来るのは待ちどうしいけどさ、次に会う時は連れて行くから」
意識を取り戻しわたしの目には黒い天井板が映る、住み慣れた自分
の部屋、パソコンや液晶TVの配置も変わり映えはしない。いつもと
違い現実感のある夢であった。