山岳事故というものはなくならない。技量や経験がどんなにあっ
たとしても心に隙を作った瞬間に事故を生む。箱根で有名な金
時山は低山で初心者向けの手軽に登れる山として知られるがこ
の山でさえルートを少し外れただけでエベレスト登頂経験者を谷
底へ呑みこんだ。長野戸隠山では引率できるほどの経験豊かな
登山者さえちょっとした油断で命を落とした。北アルプス単独登
頂で20歳そこその若い娘が短い生涯に幕を降ろした。予測だ
が登頂をするにあたりボルダリングで3点支持を学び訓練した
だろう、だが人工岩礫と天然岸壁は異なり岩の成分などの違い
から割れる、崩れる、亀裂が入るなど起こる。足が岩から外れる
のであれば再ホールドすればいい、だが岩自体が粉砕するとリ
カバリーするのは困難である。誰にでも滑落する可能性はある
そこで生き延びる為に必要なのは野獣にも似た危機回避能力で
ある。
死亡事故が多いのはエベレストが一番ではあるまいか、日本に
移すと北アルプスや南アルプスの3000メートル級や谷川岳、
長野の戸隠山、急峻な妙義山そして低山ながら意外と多いの
が丹沢や阿夫利神社ある大山というように関東近辺を例にあげ
たが日本中どこの山でも死亡事故はある。観光に力を入れた御
岳山では噴火により多くの人命が奪われた。山から絶対戻れる
自信など人間の傲慢であり登山を愛する者ならば家に無事帰れ
たと祈るものだ。あの世界的にも有名な植村直巳氏さえ山に飲
まれた。
誰も姿を見せない漆黒の闇の中を歩き続ける物がいる。登山歴
10年となり自意識過剰へ雨降る夜の山でも登る自信は奢りだっ
た。山の登山はバランスで成り立つのかそのバランスを崩す要
因の一つに雨がある、雨で軟体化した登山道の土は予測してい
たこと。しかし予測しなかった事が起きたそれが震度3程度の地
震、雨に濡れた岩礫は滑りやすく手で掴むのも持久力が失われ
る。岩が揺れればいとも簡単に落下、たとえ鎖を掴んでいようとも
雨降る中で鎖は滑るものだ。30メートル岩盤途中にいたとしても
15メートル落下だけで済まず落下エネルギーと低摩擦でさらに
落ちまるでアリジゴクに嵌った虫のようだ。そして男は死んだ。日
中に登山道を歩いても他の登山者から気づかれず歩き続けるが
滑落した恐怖は消える事がなく下りになると先に進めず戻るしか
ない。雨降る日も雪降る中も歩き続けた。
僕は25歳から手軽な登山をはじめ今年で40になる。難易度五
つ星の険しい山や鎖場が多い山岳信仰の山へも単独登山して
きた。磯釣り場で釣り道具を持ったまま15メートルを降下したの
が自信となったせいか30メートルの降下でも恐怖は無い。登山
を初めてから奇妙な事が起こり始めた気がする、というのも知り
会いでもない見た事さえない人達から”ありがとうございました”
と頭を下げてお礼を言われる、感謝される行いをした自覚はなく
礼を言われるのは大抵登山した翌日というのも妙な話しだ。
朝ニュースで単独登山した女性が滑落し死亡したと知った。自分
も単独派なので愚行したとは思えないが焦り過ぎた気がし可哀
想とも思えた。”おれで良かったら一緒に行ってあげた”
そうは思っても見知らぬ女性、無理な話しだ。若い女性と登った
ら楽しいだろうなと仕事しながら妄想に耽った。其のせいか僕は
その晩夢をみた。
「そんな場所で座り込んで困っているの?」
「道がわからなくなって」
「足を痛めているみたいだから一緒に山を下ろうか」
「いいえ、頂上まで連れて行ってくれませんか」
「穂高?」
「奧穂高岳に行きたい」
足の状態を心配しながら軽い会話をして岩場を登って行く。
山頂へ着くなり”ありがとう”と微笑むと彼女は消えた。
朝夢から醒めるとすっきりした目覚めを感じたのは彼女の満足を
得たせいかもしれない。なんにせよ目指していた山頂まで行けた
のだから悔い残らず昇天出来た事だろう。だがそれは客観的に
思った事で僕としては若い女性と登ったことが嬉しかったの一言
に尽きる。
6月から梅雨に入り7月は梅雨開け宣言し気温は上がってくる。
8月のお盆が過ぎると秋雨前線が到来するが気温はまだまだ下
がらない低山では暑くて仕方ない、熱中症との闘いでもある。ま
して湿度の高い時期はヒルが多く人があまり入らない山ではヒル
天国と言われる。2500メートル級になるとさすがに気温は上が
らないしヒルの心配もなくなるがゲリラ雷雨の危険性が現れ鉄砲
水の発生もあるから登山道途中に沢がある場合身動きが取れな
い。そのように考えると暑い中山を登るには何か目的が欲しくな
るものでぼくはヒルの多い山に感心が集まった。ヒル天国をネット
で調べると地元山岳会などで昼を駆除してるが人手が少ないため
ヒルはなかなか減らない。そこで協力者を募っているとの文言を見
たぼくの正義心に火が付いた。
安易にヒルをペットボトルに詰め山のコミュニティに画像をアップ
すればぼくは英雄になれると軽い気持ちで考えた。ヒルの生態は
調べ弱点やどうやれば殺せるかそのための薬品を揃えヒル捕獲
にピンセットも用意して万全で望んだ筈だった。大山三峰山を目
指し沢伝いの道を歩けば落ち葉が堆積しているにも関わらずヒル
の姿は見る事がない、このままではここまで来た意味がない、そ
こでわたしは飛び跳ねて地面に振動を与えて見る。1歩、2歩と変
化は見られずそこで立ち止まって様子をみると左足に2匹確認し
た。その2匹をピンセットで捕獲する間に今度は右足に4匹。捕獲
しようとするが右足をちらり見ると3匹既に靴を這いまわりズボン
のふくらはぎにもいる。こうなると捕獲どころではなく素早く除去す
るためにスプレーをかけるしかない。登山を諦め道を戻るも一歩
動かすだけで4匹は靴に張り付く。素人では手に負えるものでは
なかった。
ヒル天国で敗北を味わい心癒す為に登山用品店で岩場に登る為
のスリング、ハーネス、カラビナ、ヘルメットなどを買った。用品を
揃えると使ってみたくなるのが人間の性ではあるまいか、使う場
所は群馬県妙義山難易度五つ星と呼ばれるコースが目標である
山岳地図をダウンロードし登山計画書には出発地点から下山地
点そして経由場所と到着時間、装備などの持ち物などを記入し
現地のポストの投函する。最近では携帯でアプリにて発信する方
法もあるがその場合帰宅したら報告しなければならないので面倒
かもしれない。ヒルを懸念し妙義山に向かったのは彼岸があけた
9月下旬生憎雨が降る深夜のこと。初めて登る山は期待で胸が膨
らみ高揚するものだ。深夜3時と早く到着したが今すぐでも出発し
たい心で待ち切れず仮眠することも出来ない。
太陽が登る準備を始める頃黄昏た薄明りを発し朝の空気が青く
輝くと駐車場に停めていた車から徐々に人が起き始める。降って
いた雨はやがて霧雨と変わり明るくなり出した時には止み始めた
妙義神社へ到着すると”この階段をお前は登れるのか”と囁く。
幅が広く急な石段は威圧するかのようにぼくを見下ろしている。
神社本殿があるのはさらに上部でまるで天空の城にもお思えた。
神社で参拝すると再び声が響く。
”おまえが頂上まで登れるに値するか身を持って試してみよ、生
還できるか死してこの地に留まるかはお前次第”
そうその通り僕は挑戦者だ、神は我々人類に苦難を与える、逃
げず立ち向かい成し遂げた時僕は高みへ進めるだろう。
ぬかるんだ登山道は体力を奪う、暑さと湿度そして傾斜がきつく
なってくる木々の間を抜ける登山道が身体の水分を奪い喉が渇
くそれでも傾斜は続き登山者が休憩することは許さない。水場が
ないのは修験者への試練だろうか。そんな山だが大の字、奥の
院、大のぞき、見晴と言った難所がありバリエーションの多さから
人気の山となっている。中でも鷹戻しは誰でも挑戦したい難所で
ある。人が集まれば山岳事故は増えるし死亡者が増えれば山に
留まる霊は増えて行く。だが死んだもの同士相手を死者と認識は
出来ず良く会う人と考える。ところがこの40になる男、村橋は死
者から見ると頭部が一際輝くために死者の好奇心を集め本人に
そんな気持ちはなくても向こうから集まってくる。村橋には霊能力
などないと思っているから幽霊も自分では見えないと思っている。
山を歩くと身体が重いと感じるが自分では高血圧のせいと思っ
てしまう。
「こんにちわ」
「今日は暑いですね」
この奥の院で滑落した女性真由美は毎回挨拶をしているが答え
てくれた人は今までおらずいつもスルーされ女だから相手にされ
ないんだと思っている、相手から自分が見えないと思うことが出
来ない。しかし今日はきちんと挨拶して貰える人が現れ嬉しかっ
た。村橋は霊が見えない、霊が見えないのではなく人間と同じよ
うに生身の人間と思ってしまう、だから相手と会話する。真由美
は35歳で命を終えた元気がないものの躍動的な何にたいしても
挑戦するといった心構えはその短い髪形からも判断できる耳を
僅かに髪の毛で隠す女性らしいヘアースタイル。
「ご一緒しても構いませんか」
「いいですよ、ぼくもこの山ははじめてなんで心強いです」
「登山経験は長いんですか」
「10年くらいですかね、戸隠も登りました」
「ああ、いいなぁ。わたしも登ってみたいけどわたしにはまだ無
理」
「今度ご一緒しましょうか」
「・・・ごめんさい、それは無理なんです」
「そうですね、初対面の男とは無理ですよね」
ぼくが残念そうな顔をみせると真由美という女性は心に何かを
決断したようでぼくを見つめたままにジャケットを脱ぎ始めた。
あたし真由美は生前は同性愛者で世間でいうところのレズであ
った為男性に裸体を見せた事は無い。先程誘われた時わたし
は”そうじゃないの”って言いたかった。わたしは一度死んでい
る、ここまで一緒に歩いてくれた人に感謝したい。いまわたしが
出来る事は?真由美はTシャツの末端を交わる腕で捲り上げた
どうせこの人しか見ないのなら一生に一回くらいは男の人に見
せてもいいかなとあたしは決めた。
「な、なにするんですか」
「あら、可愛い、女性の身体はじめてじゃないでしょ」
緊縛から解かれ自由になった柔らかな胸は意思があるかの
ように暴れ弾けた瞬間だ。
「その脇腹の痣はどうしたんですか」
「じつはわたし滑落して死んだの、痣はその時ついたの」
「そうでしたか、痛そうですね」
「あなたは怖がらないのね」
「そんなに揺れ動く胸を見せられては怖い筈ありません」
「もう、エッチね」
心の中で存分に胸を焼きつけてとあたしは願った。そして2度
と上着を着るのはやめた。上半身裸のせいで豊かなわたしの
胸は歩くだけで揺れ動く大のぞきといった岩場の難所では大
きく動きこの人の視線を感じる、ちらちら見られるのは恥ずか
しいものだ。ここでこの人を落とせば生涯ずっといられる、一
時そう思ったがわたしには出来なかった。
先程奥の院で会った親子らしい二人組が15メートル2段のコ
ルを挑んでいる。先に20代の青年が下降してるが50代らしい
父親風の男の様子が変だ、恐怖心で身体が動かないようで座
り込んでいる。20代の青年は関知せずと言った具合に先へと
歩んでいった。
「酷い息子だな」
「そうじゃないと思う、彼にはこの叔父さんが見えないのよ」
「あたしにはわかる、滑落して死んだ人は降りることが出来な
いの。あたしだって怖くて」
「話はわかったけど、いいの」
「なにがぁ」
「さっきからあのおじさん真由美さんの胸見てるよ」
「え!イヤァーーー」
僕以外に胸を見られるのは恥ずかしいらしく胸を手で隠した。
手ブラでも盛り上がった膨らみは見える、それは恥ずかしくな
いらしい、女心は特異なものだ。
「ねえ降ろしてあげれないかな」
「う~んおんぶするしかないかな」
下から見上げても断崖に見える岩場は上から見下ろすと太い
鎖が紐のように細くユラユラと揺れて見える。降りる岩場が垂
直の絶壁にも見え地獄に通じる紐を伝わるとも思えてしまう。
絶対むりだというおじさんに2度と両親に会う事、息子さんを見
守るのも出来ず永遠にここで留まると説得してみる。その間も
真由美さんは”見られた、見られてしまった、見られた、見られ
た”と一人呟いていた。雨に濡れ流々とする岩肌は靴の摩擦
を削り留まることを許さない。人をおぶさった状態では尚更滑
りやすく助けに入ったのも無駄に終わる2重事故と成りかねな
い。そんな時ぼくの頭にウサギが浮かんだ、うさぎピョンだ。
人間の場合は片足づつ降りる、だがうさぎを含めた四肢動物
は両足で降りるのが基本である。岩肌を両足で蹴ると思って
いた以上に安定し降下できる滑る前に飛べば良い。何度か繰
り返しおじさんを降ろす事が出来た。だが安心するのはまだ早
い次は真由美さんを降ろさなければならずこの滑りやすい岩盤
を今度は登らなければならない。渓流や海の海岸にあるコケ
が生えた岩は滑りやすいので歩くのは一苦労、そんな岩が垂
直に伸びていたら登れるだろうか。どうやって登ろうかと考えて
いると上から黒い影がぼく目掛けて飛んできた。何かがぶつか
った衝撃で僕は倒れ込んでしまい意識が飛んだ。意識が戻った
時僕は口を何かで塞がれ呼吸出来ず苦しい、なんとか呼吸しよ
うと唇を動かずと餅のように柔らかな感触、歯を立てればマシュ
マロを噛んでいる気分。
「あ、やん」
眼でしっかり見開くと目の前には白龍の首、真由美さんの首
と鎖骨だと理解すれば口を覆っている柔らかな球体は・・・
マシュマロだと思った時、噛んだものは丘稜に中心に生える
授乳肉であった、そういえばマックシェイクをストローで吸った
のは似てると思い出した。
「プハァ、真由美さんこれは事故で」
立ち上がった真由美さんは豊熟した胸の膨らみを両手で進入
禁止するように覆っていた。
「こんな事する人とは思わなかったわ」
「返す言葉がございません」
別れは突然やってくる、50代の男性は涙を流すと会釈し消えて
いった。
「ここまでありがとう」
「そうかもうここから出れるんだね」
「うん、あっちの世界であなたが来るのを待っているね」
「い、いやそれはまずいよ」
僕の言葉を聞く前に真由美さんは消えてしまった。ぼくには妻
がいた、妻は死ぬ間際天国であなたが来るのをいつまでも待
っている、これが妻の最期の言葉だった。妻の瑠偉は白血病
と戦い病院にて命の灯は消えた、まだ27歳の短い生涯だった。
水1リットル持って山を登ったが予想外に暑く水は最初の頂上
で音すらしない、水の切れ目が登山の切れ目。縦走する計画
であったが計画を変更し2番目の頂上を過ぎてから沢伝いに
下山することにした。沢を降りていくと午後3時にも関わらず登
ってくる5人のパーティーと出会う、だがろくに登山装備をして
いない登山者というより観光客がハイキング気分で上がって
来たのだろう。時間を考えるとこの世の者ではないかもしれな
い。遊歩道ではいくつかの滝が流れ僕はそこで水分補給と喉
を潤した。遊歩道を神社へ向かって歩いて行くと先程会った青
年に再会し君の傍にずっといた中年の男性はと話した。
「それは間違いなく父です、一緒に歩いてくれてたんですね」
「ぼくが3段コルから下へ降ろしてあげると嬉しそうに消えまし
た、成仏できたのでしょう」
「実は毎晩父が夢に現れ、助けてくれと繰り返し訴えていたん
ですよ。どこで死んだかもわからない、だからあちこち山歩き
しているんです。でももう必要ないんですね」
「本当にありがとうございました」
青年は瞳に涙一杯溜めて僕に深々と頭を下げ言霊から感謝
しているのが僕にはわかった。
遊歩道の終点は妙義神社である。無事帰ってきた報告兼ねて
賽銭を入れぼくは参拝した。
”おまえにはまだこの修験の山は早かったようだな、金洞山ま
で行ければ褒めて遣わしたところだ。また挑戦してみよ”
この偉そうに話すのは神か仏かぼくにはわからない、ただ褒め
て貰うとどうなるのだろう、そこが知りたくまた登りにこようと思
った。帰ろうとすると引き留められた。
”待てまだ話さねばならぬ、おまえこの山で囚われていた二人
を解放させたようだな、我の思惑とは異なり山が勝手に死人を
幽閉して困っていたのだ。その褒美を遣わそう、受け取るが良
い”
神社の主がいう山とは仏、主は仏の摂理を壊す者を待ち続け
ていた。地獄、天国とは仏が知らしめた摂理であって本当の悪
人は地獄に行かず不条理と考えていたからだ。善人こそ天国
に行かねばならぬのに自殺する、天国に行くのは偽善者が多
いことを主は憂いた。
「褒美?あのそれは一体どのようなもので」
神社の主は答えてくれなかった。
おわり
この物語はフィクションであり実在の人物
団体には一切関係ありません
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