寝苦しい夏の夜、やっと眠りについたのは深夜2時のことだった
意識が半分あるようでキッチンのほうで物音がするのが聞こえる
どうやらわたしが飼っているアカトラの魂(たま)が食べ物を物色
しているようで皿の動く音が聞こえていた。目ぼしいものを探しだ
したのか食べているような音も聞こえる、そのうち静かになるだろ
う。寝ていると何か寝苦しい、身体が重い、いやそうじゃない布団
がやけに重いのだ。だが重いのは一部分だけ腹部だけにピンポ
イントで荷重がかかる。わたしはまた”たま”が布団の上で寝よう
としているのかと思っていたので少しくらいは我慢してやろうかと
思っていた。しかしそのうち這い上がってくる感触、またわたしの
顔の上で寝るつもりか、だが魚を食べた猫の生臭い吐息ではなく
吐息自体がひんやりと冷たい。また厄介なものが現れたのか?
家の隣には寺があり自宅と寺の境界に沿って排水溝がある、排
水溝を南下すると墓地があるためか不明だが水路を使って霊が
通る通るようでお盆が近づくこの時期、深夜になると会話が聞こ
えている。そんな部屋の環境もあり男の部屋を訪れる霊も少なく
ない。
”今起きたら上に霊の顔がある”
今まで現れた霊はそこまで近くに現れたことはない、だから霊が
現れても慣れてきていた男、真黒(まくろ)には恐怖心がなかった
しかし今晩は違う、目覚めるとすぐそこにいると考えたらどうする
べきか、血走った白目で睨まれたら流石に怖い。必死に心の中
で”帰れ、出て行け、来るな、消えろ、なくなれ、Getout”と叫んで
みても一向に消えず腹部には相変わらず存在感が続いている。
こういう場合に解決策はただひとつ、眼を見開き相手を凝視する
しかないと思った男は意を決し一気に瞼を開けてみた。
「う、うぎゃああ」
眼を開けた先には顔はなく白く艶々な白目とビー玉のような黒目
しか視野には入らなかったのである。霊は考えていた距離よりも
近くにいた、こちらがちょっと積極的になるだけで唇という肉が接
触するほど近い距離だった。ベッドから飛び降りて手で両目を覆う
と少しは動揺を抑える事が出来た。
「ちょっと、ひどいよ君は!消えろってどういうこと」
どうやら声の主は女性らしい、しかもその声には懐かしさを覚えた
ゆっくりと手の指を開き指の隙間から相手を見てみるとベッドの上
には正座している若い女性がいた、その顔に見覚えもある。
「なんだ・・・マヤか、脅かせやがって」
「う、プっプップっ怖かったんだ、まったくビビりちゃんじゃない」
「当たり前だろ、不意を突かれると生身の人間だって驚く」
「今まで出てこなかった癖に8年たった今になって化けて出るのは
なぜなんだ?」
「化けるって、人を妖怪みたいに。まぁ仕方ないか」
「実はね、人から頼まれたのよ。君と話がしたいから連れてきてく
れないかってね、いいわよね」
「まさか地獄じゃないだろうな?」
「そこは君がいくところだったよね、わたしがいるのは天国だよ」
「川端康成さんって知ってるでしょ、あの大先生がどういう訳か君
の幼稚な文章力に興味を示し一緒に酒でも飲みながらゆっくり
話がしてみたいそうよ、まったく物好きよね」
8年前に病気で他界したマヤは天国に行ってもその一言多い失礼
さは以前と変わらぬままで安心したと同時に怒りも男は覚えた。
「やかましい、いつも一言多いんだよおまえは」
「えへへ、ごめん。わたしの手を握って、握れば連れていけるから」
男、真黒はマヤの手を握り白く小さな手のひらの冷たい感触を感じ
ながらも尖がる細い指先の艶のある美しい爪を、見つめている。
”そうかこれがあのキレイだと言ってた爪なのか”
マヤの母からメールで本人が爪を自慢していたほど綺麗な爪、母
君は娘の遺品として爪は大事に保存しますと語っていたのだ。
爪を見て男の瞳は熱く震え目尻からは涙が溢れだそうとしている
「何泣いてるんだよ」
「いや最近花粉症がひどくてさ」
「部屋の中には花粉が飛んでないでしょう」
そこから意識が薄れていきこのままあの世に連れ去られても良い
と意識が飛ぶ中で男は考えていた。
男が意識を取り戻し見た景色は地下にある電車のホーム、ただこ
の階段が延々と伸びる景色は写真でも見た事がある。心霊番組
でも駅のトイレを取り上げることが屡々ありテレビでも登場した谷
川岳登山の玄関ともいえる駅JR土合駅に様相が似ている気がし
た。マヤは学生時代登山部だったそうで何度かこの駅へ来たか
もしれないが男は来た事がない。
「ここは谷川岳に登る時に訪れる駅だよな」
「ああ 土合駅ね、そっくりだけど違うよ。川端先生は階段のある
トンネルが好きだそうで先生のイメージに土合が合致したのが
理由と言うだけの話なの」
「そうか、では谷川岳に登るんじゃないだな」
「正確には昇るんだよ、谷川岳も先生の趣味だから」
マヤはそう言っていたが川端康成という人物が登山を愛する人と
は考え難くもしかしたらマヤの好みではないだろうかと考えた。
長い階段を喜々として楽しそうに登るマヤ、男にとっては苦痛に
しか思えない階段上り、階段が長くなれば長い程に二人の距離
は離れていく。気づくとマヤは階段のかなり上まで登っており黒い
点となるくらいまで上がっていた。
「遅い、先生の家に着くのは明日になっちゃうよ」
「おまえ、高血圧のおれに死ねと言うのか?」
「ああそれも面白いね、一緒に天国で暮らすのもいいか、あでも
それは無理だわ。君は地獄へ落ちるんだもんね」
「・・・おまえって奴は」
「冗談はさておき、ひとつアドバイスしてしんぜよう。心臓で呼吸す
るのではなく精神で身体を動かすんだよ」
「あ、そうかぁ心臓でするんじゃないんだ。だったら高血圧なんか
関係ないね、出来るか・・・そんなこと」
「これが出来ないと川端先生がいる家まで行くのはかなり辛いよ」
真剣な表情で言うマヤを見て冗談で言ってるのではないと思える
脅しではなく警告だと知ったのは目前に現れた絶壁を見たからだ
「これをおれに登れと」
「その通り、今から貴方にはここを登って上まで行って貰います
体力尽きて落ちたら上空千メートルから落ちるのと同様の衝撃
が貴君を襲うでしょうから心して取り掛かるように」
「マヤおまえって地獄の鬼軍曹なんじゃねえの、そもそも千メート
ル上空から落ちたら地面に落ちる前に意識が飛ぶぞ」
「わたしを血も涙もない魔女のように言わないで」
「大体ここまで来たのは強制ではないでしょ、あなたが来たいと
思ったからわたしに同行したのでしょ?だったらわたしがすべ
て悪いみたいに思わないでくれる」
「軽い冗談だろ?すぐむきになるのは悪い癖だ」
「わたしは別に構わないのよ、嫌なら帰れば」
マヤとは短いつきあいであったが本気で彼女と向き合った成か
こういうときの彼女に嘘はないし告げた言葉は実践するとわたし
は知っていた。彼女を宥め崖をよじ登る事にしてみたのはいいが
目前に聳える崖は見上げて行くと80メートルを越えるだろうか。
その崖を道具もなく手と足だけで登るクライミングをしなければ
ならない。だがこの崖は見た目だけの高さではないかもしれない
マヤは先刻告げた、1000メートル上空から落ちた衝撃を味わう
ここはわたしが暮らししている世界ではない、もしかするとどこで
落ちても1000メートル落ちるのかもしれないのだ。真黒は冴えな
い小説家それでも作家として川端康成と言う人物は彼にとって
雲の上の存在、すでに他界してから100年以上経過しており川
端氏が生前どうやって生きてきたか何を感じていたのか聞く機
会を得た、このチャンスを無駄に出来ない彼はこの崖を登るしか
ないのだ。崖に手を掛け登ろうとしている真黒にマヤは声を掛け
た。
「言い忘れたんだけどこの崖の上部にカラスの巣あるから気をつ
けてね」
「わかった、気をつける」
崖を登りはじめ30分くらい経っただろうか崖の中腹まで登ると大
きな穴がいくつも開いている、カラスが住むには大きすぎる穴だ
不安定な足場だけが頼りの崖登り、今カラスに突かれると落ちる
のは自明の理。なるべく音を立てずに静かに登っていく。崖を登
りながら男は以前ゲームか映画でこういう場面を見た事があった
そういう場合は大抵もうちょっとでクリアできるところで足か手を
滑らせ岩が崩れてしまう。最後まで油断ないようにと自分を戒め
るのだがあと一つ岩を確保出来れば乗り越えられるというところ
で手に掴んだ岩にヒビが入り崩れてしまった。恐る恐る穴の中を
見てみると大きな目玉が二つ光っているのを男は確認した。穴
の中で大きな目が自分に向かって駆け寄ってくるようで足音も
聞こえていた。現世のカラスとは違う生き物とは一体何だろうか
だが男が考えるよりも早くその生き物は駆け寄ってくる。
「GhaAAh~」
「うわっ、」
壱の攻撃は躱す事ができたが弐の攻撃で男は腕を負傷し崖を
落下してしまう。
「カラスなんかじゃない、あれは・・・」
「あのかぎ爪は間違いない、あれは・・・ラプトルじゃないか」
大気を割いて落ちてゆく感覚はマヤが言ってた通り上空から落ち
るものだと思える、落ち行く意識の中で男はマヤに別れを告げた
”さらばだマヤ、もう会う事は無いだろう”
男は死んだと思っていた、だがこの顔の頬を荒い紙やすりで擦ら
れる感触は一体何なのか、痛い顔の皮膚を削られる痛みだろう
か?地獄で鬼の拷問を受けているからなのかと考えているとマヤ
の懐かしい声が耳から脳に伝わってくる。
「ほら早く起きなさい、みぃちゃんも心配してるでしょ」
薄眼をあけてみると大型の肉食獣が顔を舐めているのに驚いた
男は急いで獣から距離を取っていた。
「ケルベロスか」
「何いってるの?キジトラのみぃちゃんだよ」
「魔獣なんて言ってると先生に怒られるから」
マヤの言った言葉に反応しているかのように獣は叫んでみる
”にゃお”
確かに鳴き声は猫と同じようだがその音量はまるで違う、そして
太く長い尻尾は2本ある。
「猫又というやつか」
「ちょっとだけ大きいだけで甘える仕草は猫ちゃんよ」
確かに甘えているようで頭を擦りつける猫、いや猫又なのだが
バスケットボールを顔に打ち付けられているように顔が痛い。
「ほらあそこを見て、あれが先生の家」
マヤが指さす方向を見ると太いケヤキが立ち並ぶ林の奥には
古風な平屋の一軒家が建っているのを確認した。凹凸が激しい
土の未舗装路を歩き玄関前に来ると確かに玄関先の支柱には
川端と彫られた表札が掲げられている。木製戸枠のガラス戸を
開くとそこには川端康成先生が微笑んで立っていた。
「はじめまして先生、ご招待にあずかり有難うございます」
「・・・・」
「あの先生?どうかされましたか」
川端先生とは無口な人かとマヤに訊ねようとすると彼女は噴き
出しそうになるのを必死で堪えるようにしているではないか。
沈黙する時間が流れてどれくらい経っただろう、その間も隣に
立っているマヤは相変わらず何かに耐えており何も口にしない
「コンちゃん、誰か来たようですが」
奥の部屋から廊下を歩いて来たのは玄関に立つ川端先生と同
じ容姿をした川端先生であり男の驚きは大層なものだった。
「川端先生がお二人?先生は双子でしたか」
「あ、ははは」
マヤはタガが外れたのか腹を抱えて大笑いしている、男には何が
何だか分からないけれどまたマヤが何かを企てたのだけは気づい
ている。
「コンちゃんまたも僕の真似をしてますね、困ったものですね」
「あなたが真黒さんですか、よくいらしてくれましたね。この人は
狐のコンちゃん、マヤくんから片棒担がせられたので責めない
でくれますか」
狐は元の姿に戻ると申訳なさそうにしている。悪い狐ではないら
しいが尾には9本の尻尾が揺らいでいる、九尾の狐である。
「まぁとりあえず上がって下さい、ちょうど飲み友達が集まってい
るので一緒に語りましょう」
「良かったらマヤ君も来なさい、それから彼氏には謝った方がい
いですよ」
「はいっ先生」
居間に案内されると低い座卓を中央に4,5人の男女が和気あい
あいと談笑している。先生は座卓をもう1台用意してそこにわたし
達二人は案内された。
「龍之介くんと晶子さん、こちらが夏目くん、谷崎さん、樋口くん」
「そしてこちらがマヤくんと彼氏の真黒くん、みなさんよろしく」
ここにいるのは皆巨匠と呼ばれた人達でそんな方々を前に身体
を硬直させ緊張する真黒、真黒にしてみれば自分など及ぶこと
ない雲の上の人達ばかりだったのでそれも当然の事だった。
「真黒です、よ、、よろしくお願いします」
緊張して言葉を噛んだ真黒を見て配慮したのが樋口だった。
「真黒さん、わたしはかずちゃんと呼んでくださいね」
「あらだったらわたくしも晶ちゃんと呼んで欲しいですわ」
「良かったね、おじさん」マヤはそういうと真黒の腕をつねった。
「きみの小説は読ませてもらったことがあるよ、わたしが文学の
賞選考委員であるならば選考するにも値しない。文学というも
のを馬鹿にしていないかね」
酒を飲んで酔いが回ってきたのか谷崎は真黒に辛辣な言葉を
投げかけこの場の雰囲気は一気に消沈させてしまった。暗い
表情の真黒を心配したのかマヤはここで話題を変えてみるべく
空気が読めない女を演じてみせる。
「ところで川端先生、ダンボちゃんの姿が見えませんが」
「今日はですね、彼女を探しに隣の山まで行くと意気揚々と出か
けていきましたよ」
「そうですか残念です、この人にダンボちゃんを見せたかったのに」
「なにダンボちゃんて」
「大きくて可愛くてちょっと太っててね格好いいんだ」
「なんだそれ、まったくわからない」
「ちょっとマヤちゃん、それじゃわからないでしょ。象ですよ」
樋口はマヤの説明が足りないと思ったのだろう口出しする、そし
て谷崎の知られては困る話もしてみせた。
「そういえば谷崎くんは”ニワトリ女”が気に言ったみたいで何度も
読み返したと言ってましたよね」
「それは・・・その」
「もしやそれはわたしに書いた短編では」
「潤一郎も君の作品は好きなのさ、でもここで褒めてしまうのは君
の進化を止めると思ったんじゃないのかい?君にはもっと高みを
目指して貰いたいのさ純一郎はね」
芥川は以前谷崎に同様の事を告げたことがあり谷崎の気持ちを理
解していたのであった。
「当時わたくしも谷崎さんとよく討論してましたわ、今のままでは純
文学は進まないともっと革新的な事をしなければならないとね」
与謝野の言う事に谷崎、樋口そして芥川も頷いている。
「ですが現役を退いた今、死者になってようやくわかった気がしま
す。どんなに評論家から賛否を頂いても読んで頂いた皆さんが
幸せを感じてくれない作品は駄作であり感動して頂いたり笑顔を
見せて頂くことが執筆者の宝ではないかと思えますわ」
「君は君の思うように作品を作ってくれればいいと僕も思いますよ
どうか創作活動を続けてくれることを切に願います」
「ではみなさん、今日はそろそろお開きに致しましょう。最後にマヤ
くん君から真黒くんに伝えたい事がありますね」
マヤは立ち上がると真黒の前に進み信憑な顔もちで告げた。
「わたしが他界し天国への道に迷うからと途中まで同行してくれた
よねあの時どんなに嬉しかったか君には感謝しかない」
「君の作った物語を他の人がどんなにけなしてもわたしはきみの
作る物語が大好き、だからいつまでも書き続けて欲しいそれが
わたしの願いなの。病気で心が弱っている時、もし自分が死ん
だらすべて忘れてと言ったよね、でも私は君の事が今でも忘れ
られない。ほんとに身勝手な女でごめんね」
マヤの言葉が終わると同時に男の意識はなくなり次に意識を取り
戻し気がついたら自宅のベッドの上だった。夢だったのかと思いも
あったがあまりにも鮮明に覚えている、さらにはマヤと川端先生か
ら貰った言葉も忘れる事が出来ない。真黒が天国で過ごした束の
間に体験した出来事である。
おわり
この物語はフィクションであり実在する人物、団体
には一切関係ありません