母親裕子の手術に立ち会えなかったものの元気に
退院した母の姿を見ることができた秀一郎と幸子は
安堵したのであるが長年一緒に暮らしてきた猫ヒロユキ
の死去を知り喜んでばかりもいられなかった。
退院して満面の笑みを浮かべる筈の母がどことなく
元気がない、なにかを尋ねても上の空。
それには理由があった。
母裕子は猫の死去が家族の中で一番ショックであり
まるで自分が生きながらえる代わりに猫が命を捧げて
くれたように感じていたからである。
猫を失って悲しいのは夫だけではなく裕子も辛かった。
それでも夫や息子たちに心配かけないように明るく振舞おう
とする母裕子。
「いててて」
手術してまだ2週間、本来ならまだ病院で安静にして
いなければならない。そこを担当医師に頼み込み
退院してきたから家事をする時痛みを感じるのも当然。
母裕子はじっとしてられない性分だったから周りが心配
するにも関わらず理由をつけては体を動かしていた。
痛みを感じはしたが当人にとってそれは苦痛ではなく
生きてるからこそ感じることができる痛みだと思うと
今生きてるんだという実感が沸いて裕子は嬉しく思った。
桐生家などの農家は桜が満開に咲き誇る時期に入ると
野菜の種まきそして田植えの準備をはじめなければならないの
で忙しくなる。
夫婦だからといっていつも同じ仕事をしてる訳ではなく違う畑の
種まきをしなければならないから自分で仕事の段取りを決める。
父富美男はトラクターで田んぼへ出かけ母裕子は家で種芋を
畑に埋める準備をしていた時だった。
「こんにちわ」
物置で作業していた母の裕子は訪問者の声に気がつきサトイモ
の泥がついた手を前掛けで払うと玄関のほうへ向かった。
「こんにちわ桐生さん」
息子の秀一郎と婚約者幸子のキューピットともいえる松宮祥子が
桐生家を訪ねてきたのであった。
「あらしばらくだね祥子ちゃん、元気だった?」
「わたしよりおかぁさん、そんな事して大丈夫なんですか」
松宮が心配するのも無理はなく手術からまだ3週間しか経って
いないかった。
「家の中でゴロゴロしていたら体がなまってしまうもの、それに
こんな天気のいい日に働かないとお天道様に申し訳ないしねぇ」
「それはそうと祥子ちゃん今日はまたどういう用件で?」
「・・・・・も、勿論おかぁさんの具合はいかがかと思ってですよ」
と松宮は口を濁してしまった。
確かに桐生 裕子は自分の母と同じくらいの年齢だったので
松宮にとって母のような存在に思っていたから心配していたのは
嘘ではない。
しかし桐生家の人達は自分の勤務する見合いの友社の顧客であり
上司から早く結果を連絡してほしいとせがまれていたのであった。
結果とは口で伝えるだけのことを会社は望んではいなくそれは
結婚式という確たる証拠を指していた。
退院してまもない桐生母を前にして結婚式の予定を松宮は
聞けなかった。
式は最低でも傷が完治するのに一月(ひとつき)は掛かると考えた
しまだ病気が完治したわけでもなく今は術後の経過を見る期間で
あるとも知っていた。
「まぁちょっと上がってよ祥子ちゃん」
「あたしの様子を見に来ただけじゃないんでしょ」
「じゃちょっとだけ」
裕子は松宮を縁側に座らせると台所へ入っていった。
桐生の家は昔ながらのつくりで最近の家のようにテラス
があるのではなく窓は廊下を介して障子があり居間の仕切り
となっていた。
廊下に座ると傍には池があり赤、白、黄金色の錦鯉が悠々と泳ぎ
回って見るものの心を癒してくれる。
日本庭園のように綺麗にまとめられた庭とは違っていたが大きな石
そして黒松、ピンクと白の花を咲かせるつつじがある庭も松宮には
新鮮に思えた。
「こんなものしかないけどつまんでくれる?」
普段夫と二人だけの休憩なのでお茶菓子は年寄り向けのものしかない
「いいえ十分です」
「今日は秀一郎の結婚式について来たのでしょう」
「ごめんねぇ~わたしが倒れたせいで。」
「いえいえ、裕子さんの体のほうが大事ですから」
「うちのほうは気にせず今はゆっくりと休養を取ってください」
「秀一郎様から結婚式は延期すると連絡を受けてますし」
その言葉を聞いてはじめて裕子は気がついた。
入院している時から秀一郎も幸子さんも一切結婚式のことは
口に出さないので今は忙しいから無理なのかと今まで思っていた
だが自分から催促するような事を言いたくはなくあの子たちから
言ってくれるのを待っていようと思っていた裕子。
それがまさか結婚の準備が進まないのは自分のせいだったとは
先日行った婚約パーティーさえも自分のせいで潰したことに負い目
を持っていた母親の裕子は心臓をわし掴みされた想いであった。
「翔子ちゃん、秀一郎って何も言ってくれないから知らなかった」
「あの子達がそういう風に考えていたとは・・・・」
「体を気遣ってくれる気持ちには感謝するけどわたしとしては
自分が安心したいから息子に早く結婚してほしいわけじゃないのよ」
「わたしはお嫁さんと料理したり世話してもらいたい、それが夢なのよ」
と裕子から聞かされた翔子ではあるがわかりましたと言うことは
できない
「お気持ちはわかりましたが無理だけはしないでくださいね」
松宮そういうと腕時計を見て帰る時間になった事を知る。
簡単な挨拶とご馳走になった礼をいい松宮は桐生家を後にした。
松宮が帰ってから一人縁側でお茶を飲んでると夫の富美男が
休憩するためにトラクターに乗って戻ってきた。
きゅうすにお湯を入れ夫の湯飲み茶碗を持って縁側に行くと
夫は縁側で座りタバコに火をつけていた。
「誰かきていたのか?」
「うん翔子ちゃんが今までいたのよ」
「そうかぁ俺も話したかったなぁ」
夫と会話しながらも裕子は一度息子の秀一郎と婚約者の幸子
を呼んで結婚式のことをじっくり話す必要があると考えた。
つづく
この物語はフィクションです